2006.06.24 埼玉飛行場跡地を行く(その1)




今回は、いつもとは少々趣向を変えて住宅地に埋もれつつある飛行場跡地を追いかけてみました。



こんにち、栃木県…それも那須周辺には飛行場、あるいは空港と名のつく施設は存在していない。しかしかつて栃木県北部には埼玉飛行場(現:那須塩原市)と金丸飛行場(現:大田原市)という2つの飛行場が稼動していた。時代は太平洋戦争の頃のことである。




もし地図帳をお持ちであれば、新幹線:那須塩原駅から4kmほど北の部分を見ていただきたい。周囲の曲がりくねった自然発生的な街道とは異質の、整然とした碁盤の目状に仕切られた区画があることに気づくだろう。1.7km四方、延べ面積280ヘクタールに及ぶこの区画が、那須野陸軍飛行場、通称「埼玉(さきたま)飛行場」 の跡地である。

この付近の飛行場跡としてはもうひとつ大田原の金丸飛行場があるが、こちらは道路地図からその痕跡をさがすのは難しい。埼玉飛行場はそのとあまりに整然とした区画の残りかたが面白く、地形的な興味をひかれたのが今回の企画のきっかけだ。




■アプローチは、那須塩原駅から




さてここは一応、旅と写真のサイトなので、いきなり現地入りしないで最寄の拠点駅からの道筋をたどってみることにしよう。

ここは那須塩原駅。現在はここがこの地の玄関口となっているが、新幹線が開通する以前はひとつ北側の黒磯駅が表玄関になっていた。飛行場までの距離は那須塩原駅(旧:東那須野駅)から行っても黒磯駅から行ってもほぼ等距離である。




現在の那須塩原駅前道路(西口)。新幹線が通る前は駅前の市街地は東側に広がっており、西口は水田と酪農地が入り混じった純農村だった。この駅前道路は新幹線開通時に新規につくられたもので実は旧街道とは無関係である。




当時の主要道路は駅前道路のひとつ南側を併走する高林街道である。現在では駅前の区画整理によって完全に脇道の地位に追いやられているが、1980年代以前は大原間南交差点で大田原街道と接続し大田原と高林集落を結んでいた。飛行場へ向かうには駅から西側に進む。写真は方京付近。




高林街道をさらに西行すると波立(はったち)の交差点に至る。ここを右折すると約1kmで飛行場エリア(裏側)に入る。




現在の飛行場エリアは雑木林の点在する農地となっている。旧日本軍解散に伴い、戦後大陸から引き上げてきた人々に敷地が払い下げられ、新たな入植地として提供された。

現在では急速に宅地化が進んでおり分譲地の造成が盛んである。何も考えずに走っているぶんにはごく普通のありふれた田舎道で、とても飛行場跡とは気が付かないだろう。



 

■記念碑




そのまま真っ直ぐ進むとやがて埼玉小学校に至る。その小学校に隣接して小規模な団地があり、その一角を占める児童公園に飛行場の記念碑が立っている。少々長いが碑文をテキストに起こしてみよう(改行は適宜読みやすさを考慮して挿入)。



日支事変から第二次世界大戦に突入した日本陸軍は飛行操縦将兵の早期養成に迫られこの地に昭和十三年から三年の歳月をかけて面積約二百八十ヘクタールの飛行場を完成した。勿来(?)、熊谷および宇都宮陸軍飛行学校那須野教育隊として下士官、特別操縦見習仕官、少年飛行兵等の操縦学生が猛訓練を繰り返し、卒業後はつぎつぎと第一線へ配属されていった。

戦況熾烈となった昭和二十年四月、茨城県より鉾田教育飛行師団が移駐して実戦部隊となり、双襲(?)双軽爆撃機による特攻機の訓練基地として○○(難読)隊十二隊が編成され、うち二隊は終戦直前、岩手及び鹿島東方洋上に特攻散華せられた。七月、八月には敵艦載機の来襲を受け将兵並びに付近住民多数の戦死傷者を出し、また飛行場開設以来猛訓練に依り幾多有為の士が殉職せられた。

その門防衛整備にあたった軍人軍属、近隣から動員された老少婦女子を含む各種奉仕隊も共に祖国の勝利を念じつつ辛酸を分かち合ったのである。時代の流れは刻々にかつての面影を消し去ってゆく。幸い今日まで生を得たわれ等当時の関係者は世界の平和と日本民族永遠の繁栄とを祈りこの地に記念碑を建立する。願わくばここを巣立ちここに戦死せられた人々の霊の安からんことを。



なかなか泣かせる碑文だなぁ・・・
そう、ここは本土決戦にそなえて終戦間際には特攻基地になっていたのである。終戦直前の出撃では直前の米軍の爆撃で特攻機のいくつかが破壊され、出撃した者としなかった者の運命が別れたりした。

ところでこのとき生き残った特攻隊士は現在も健在で、平和の尊さを訴えたりしているのだけれどどうもマスコミの反日活動に利用されているような気がしないでもない。平和を唱えるのもいいけど、あまり祖国や戦友の名誉を毀損するような活動をしていると、あの世に行ってから肩身が狭くなるぞ m9(`へ´)




碑文の隣には飛行場の見取り図があった。ん? 四角い敷地のはずなのに 「R」 型になってるな…とおもいきや、実はこれは面積比が正しくないことにきがついた。この図は本部施設付近の説明を入れるためにデフォルメされているのである。




飛行場跡地をもういちど図示すると↑こうなる。記念碑の見取り図は右側のピョコンと飛び出した付近にあった本部付近を、東側(↑の地図では右側)から見下ろした形で書いてある。なるほど、そういうことなんだな。

<つづく>