■2007.01.01 那須温泉神社




初詣ということで那須温泉神社に行ってまいりました。



初詣にどこに出かけるかというのはその年の最初の意志決断となる。いろいろなファクターがごちゃまんと混在していたりするけれど、本年の初詣も那須温泉神社に出かけてみることにした。 まあ結局あまり深く考えていなかったりするのだが(笑)




ああ暮れ行く2006年大晦日の那須山塊。この冬は暖冬で、例年に比べて雪が少ないのがなんともアレだけど、那須温泉神社は山間地だから幾分かは期待できるかもしれない。




そんな訳で、年越し蕎麦を平らげて 「一年を〆たぞ」 というフラグを立て、2006年も残り1時間・・・というタイミングで自宅を出た。 愛車をかっ飛ばしながらラジオをつけると、どうやら紅白歌合戦はヤマ場であるらしい。・・・それにしても毎回SMAPの歌は聞くに堪え(中略)だな。



 

■ 那須温泉神社




さて大晦日の山間の道はこれといって混雑する訳でもない。ほとんど対向車もいない中、温泉神社に到着。

鳥居の上にほぼ満月の月が煌々と輝いていた。祭り囃子も何も無い、静寂の世界。 D70sの感度いっぱい=ISO-1600に頼って撮ってみたけれど、三脚なしの手持ち撮影はかなり厳しいな。




境内の雪は昨年よりだいぶ少ない。しかし一応は地面を白く覆っており、山間の社の風情は保たれている。気温は十分に低く、手足は冷たいというより痛い感覚だ。




社殿まで登ると、先客がそろそろ列をつくっている。このまま、本当に静かなまま時が過ぎるのを待つ。筆者は別段、一番乗りをしたいわけでもはないので、カメラを抱えて境内をゆっくり歩いてみた。




かがり火の薪が燃える音だけがぱちぱちと響く。
やはり、炎があるというのはいい。あまり深く考えずに決めたとはいうけれど、この火のある年越しの風景が見たかった……というのが、ここを選んだ理由と言えば理由なのであった。

以前通っていた乃木神社は、1990年頃に不審火に遭って別邸を全焼してしまったことで、火に対して過敏になり "お炊き上げ" の火すら炊くのをやめてしまった。あちらはテキヤの出店も多くにぎやかなのでお祭り気分を味わうには十分なのだけれど、そはり炎の風情がないのはちょっと寂しい。




その点、ここは出店は一軒もないけれど、昔ながらの風情がちゃんと残っていて、近代化されすぎていない、篝火がいくつか燃えているだけで、筆者的には気分は十分に満たされる。




やがて午前0時をまわると、どーん、どーん・・・と太鼓が打ち鳴らされ、祝詞と雅楽の演奏が始まった。2007年の到来である。

さて、ひとまず今年も家内安全、武運長久を祈っておこうか。
はらたまきよたま…ヽ(´ー`)ノ




■ 逆卍の伝えるもの




さてあまりあっさりと終わりすぎてもアレなので、ここでいくらか余談を書いてみたい。

打ち鳴らされていた太鼓をみると、神社なのになぜ仏教寺院のシンボルである卍(まんじ)のようなマークが書いてある。神主さんに尋ねてみたところ、「逆卍ですよ、ナチスドイツのマークと同じ形です。偶然ですけどね(笑)」 といわれて見直してしまった。…おお、たしかに逆卍だ。

最初は神仏分離令後も残った習合時代の仏教的な遺産なのかな……とも思ったのだが、関係ないという。 実はここには千年以上昔に "鹿を追って山に分け入って発見された" という由緒のある温泉(鹿の湯)があって、いわば鹿が聖獣となっている。神主さんによれば、この鹿の角の形を文字で表したのが逆卍ということらしい。



この逆卍を当てたのは、江戸時代初期、水戸光圀に漢詩と儒学を教えた中国人儒学者、朱舜水(1600-1682)であるという。

朱舜水! ・・・さて、歴史に詳しい方なら水戸学との絡みでご存知かも知れないが、一般人にはどのくらいの知名度だろう。結構、世界史的な人なのだが・・・




ここで薀蓄(うんちく)ついでに朱舜水についていくらか書いてみたい。

朱舜水は中国:明の儒学者である。秀吉の朝鮮出兵で国力が疲弊した明は、その後李自成による農民反乱軍と女真族の国家後金(1616建国:後の清)の侵略によって虫食いのように領土を奪われ、ついに1644年、滅亡する。このとき明朝に仕えていた朱舜水は台湾に逃れ、明の復活のため奔走(なんと日本に対しても援軍を要請している)した。

しか結局、故国の復活は成らず、ついに諦めて日本へと亡命することになった。このときに身元引受人となったのが、当時の水戸藩主:徳川光圀であった。




来日した朱舜水は、水戸藩で儒教思想と漢詩をはじめとする中華文化の伝授に力を注ぎ、これが後の 「大日本史」 の編纂など水戸学の基礎に影響を与えている。

当時の徳川政権は、成立まもない幕府支配の正統性を示すために征夷大将軍を任ずる立場の朝廷の正当性をまず理論付け、それをもとに徳川政権、ひいてはその支配構造の安泰を図ろうとしていたらしい。

正統性なんて関ケ原の戦いで勝利したのだからそれでOKじゃん、というのは日本史的にはNGである。家康が開いた江戸幕府も律令のルールのなかで正統性が担保されており、いちいいち理屈を通しておかないといけないのが日本の統治機構なのだ。ここで本家中国からやってきた高名な儒家である朱舜水が、理論面でアシストをしていた。

※写真はWikipediaのフリー素材より(弘道館所蔵)




その朱舜水がどういう経緯で那須を訪れたのかはよくわからない。

鹿の角を表す種文字として逆卍があることを示した、という以上の情報はないので、来たとしてもなにか特別な用事があった訳ではなく物見遊山の休暇旅行くらいだったのかもしれない。

※筆者は一応郷土を愛するナイスガイなので 「そんなのただの伝説だろ」 なんて無粋なことは言わない(笑)




もうすこし掘り下げてなにか情報があれば良かったのだが、それ以上詳しい情報は聞けなかった。鹿の角説はあまりメジャーではないようで検索しても情報が出てこない。まあそれはそれで仕方がないか。

そんな次第で、難しい話はほどほどにして今年も御札を頂いた。

本年も良い年でありますように~♪


【完】