■2007.01.13 どんど焼き




どんど焼きの季節なので、三島の田んぼに行って参りました ヽ(´ー`)ノ



年が明けておよそ2週間が過ぎ、そろそろ "どんど焼き" の時期になった。どんど焼きとは正月に使った門松、注連縄(しめなわ)、御札などを燃やして無病息災を祈る火祭りである。漢字では 「歳徳焼き」 という字を当てるらしく、「歳の神」 という呼び方をする場合もある。

那須野ヶ原は振興の開拓地で固有の伝統には実は乏しい。しかし入植した農民がそれぞれの出身地の民俗行事を持ち寄ったために、それらがモザイク模様に入り混じって雑多な民俗をつくりあげた。どんど焼きもそのひとつとして継承されている。




さて今回は旧西那須野町の三島にやってきた。すでに夕刻・・・水田の中に竹と縄で臨時の鳥居がつくられ、松明が汲みあがっていた。入植者の出身地によってこの形式には微妙な違いがある。竹の鳥居が建つのはこの地区に独特のものらしい。



当初農地として開拓された同地区も、東北本線の敷設以降は西那須野駅を中心に市街化が進み、純農村という印象ではなくなってきている。

しかしそんな中でもこの素朴な行事は脈々と受け継がれている。周辺は市街化が著しいけれども、転入人口が多い割に地域の自治活動がうまく機能しているのが、この三島という土地柄だ。




点火時間までのしばらくの間、焚き火で暖を取る地元の方々。最前列ではご老体が酒を酌み交わしながら談笑している。若い者は一段引いたところにいて、このDQNな時代にちゃんと敬老の精神が生きている。




ご老体の飲んでいる日本酒は、竹筒で炙って熱燗にしているらしい。これをやはり竹を切って作った即席のぐい呑みできゅーーーっとやっているのである。これはさぞかし旨いことだろう。




これは鏡餅。スーパーで売っているヤワなパック品とは異なり、本物の臼と杵で搗いた餅である。こういうのはいまどき現役農家でないとなかなか飾れない。なおここには映っていないが、すぐ横では豚汁と甘酒が振舞われていて、結構な賑わいである。




やがて定刻となった。酒でいい気分になった地区の長老が祝詞を読み上げる。祝詞といっても特にあらたまったものではない。鳥居の前に整列し、素朴に 「今年も五穀豊穣、無病息災でありますように」 といったことを 言上げするのである。




点火すると、歳の神はバキバキと萌え始めた。炎は勢いがつくと高さ10mほどになり、骨組みの竹の節々が破裂しはじめると 「おお~!」 と歓声があがった。

メラメラ…という石油系の炎ではなく、バキバキ、ボン!ゴオオオ…という野太い祭りの炎である。小さな子供たちは大喜びで、若いカップルはどさくさ紛れに(以下省略)




熱いのを我慢して炎に寄って撮ってみた。

おおお、燃える~~~~ ごごごごごご~~~~♪




こうしてみると、まるで引田天功が脱出してきそうな見事な燃えっぷりで非常によろしい。やはり祭りは派手でなくてはいけない ヽ(´ー`)ノ

ぼぼぼぼぼぼぼぼ~~~~♪




やがて火の勢いが収まってくると、人々は枝に刺した餅を火であぶりだす。どんど焼きの炎で焼いた餅を食べるとその年は病気にならないという。

みれば年長者が子供たちに 「焚き火の火じゃダメだよ、どんど焼きの火で焼くんだよ」 と声をかけている。なるほど、こうやって幼い記憶とともに伝統は受け継がれていくのだな。




およそ1時間半ほどで炎は燃え尽きた。

ロングで撮ると街の灯や電線が入ってしまって、絵の構成としてはいまひとつ。しかしこれは、紛れも無い現代の那須野の姿だ。

東京では、江戸時代の頃にこの風習は廃れてしまった。何度も大火を経験している江戸では、火を使う祭りは幕府によってご法度になってしまったのである。江戸ばかりではない、神奈川、埼玉、千葉に広がる首都圏の都市部でも火祭りは廃れてしまった。今やどんど焼き(賽の神)の風習は地方にしか残っていない。

そんな地方のひとつである那須塩原市も、伝統的な農村部がじわじわと都市化の波に飲まれつつある。はたして10年後、20年後・・・さらにその先まで、このどんど焼きは続いていくのだろうか。誰にも答えられない問いだが、そんなことを思ってみた。

【完】