2007.05.05 続・蟇沼用水を訪ねる(その1)




前回が雨天中の調査で市街区域での身動きが厳しかったので、日を改めての再トライです。実は前回も大田原市街地以南まで追いかけているのですが、「ホントにこれでいいの?」 的な結論だったのでR4以南はカットしちゃったのです。



 

■西那須野運動公園




さて後半は西那須野運動公園からはじめてみよう。位置は西那須野市街地北端、R4と東北本線のちょうど中間付近にあたる。微妙にマイナーな立地のように見えるが、結構お金をかけて整備されている。プールは温水で冬でも入ることが出来る。




蟇沼用水は運動公園の裏手側を流れていくが、その一部は公園内に引き込まれていた。




引き込まれた水はいわゆるひとつの市民の憩いの空間の演出に使われている。流れは緩やかで水深も10cmくらいしかないため、小さな子供を遊ばせるにはちょうど良いかもしれない。公園内をぐるりと回った後、水はふたたび用水に戻されていた。




これは用水がもどってきたところである。公共施設なので律儀に水を戻してはいるけれど、この付近では農業用水の需要は減っており、用水はむしろ余り気味にさえ思える。西那須野駅周辺は市街化が進んでいるので、水田そのものが少なくなっているのである。

しかもJR線付近になってくると地下水水位が割と浅くなってくるので、井戸水をくみ上げる農家が増えてくる。蟇沼用水を使うには水利権も必要で、それには水路の維持管理(清掃とか補修とかの共同作業)の義務も伴うので、いまどきの兼業農家のヤンキー?な跡継ぎなどは敬遠するかもしれない。実際のところ、どうなんだろう?



 

■新幹線を通過




やがて新幹線が見えてきた。




新幹線、東北本線(宇都宮線)の下をくぐる蟇沼用水。




新幹線から数百m下って高柳付近の分水口。状況を見る限り、かつてはかなり大型の分水路があったようだ。しかし現在はコンクリートで塗り固められて使われていない。付近はすっかり宅地になってしまっている。



 

■乃木神社境内




線路から1kmほど下ると乃木神社があり、蟇沼用水はこの境内(鳥居下)を通過している。神社の境内は100年以上前のこの付近の原生林の面影を残している。神社は大正年間の建立で、蟇沼用水を鳥居下に流し御手洗川(みたらしがわ)に見立てている。




御手洗川とは、神域に入る前に手先や口をすすぐ水場を意味する。川のない立地の神社では手水舎(ちょうずしゃ)という水を張った容器を設置することもあるが、意図するところは同じである。

乃木将軍は軍人生活のなかで4回ほど休職して農耕生活を送ったことがある。ここはその農場跡地で、将軍は蟇沼用水の維持管理に結構な出資をしていた。そのような縁があったので、死後に神社が建立される歳、用水がこのような形で境内に取り込まれたようだ。

見れば用水脇には那須塩原市の建てた説明板が設置されていた。同市では割とこういう文化遺産を保全しようという地道な活動に予算を割いており、合併して新市名になってから2年間で案内板の設置・改修などは随分進んだように思う。(基本的に新興の開墾地で大田原ほど神社仏閣に恵まれない反動かもしれないがまあそこはそれ ^^;)




用水の一部は別邸内の静沼に引き込まれている。静沼は乃木将軍の静子夫人にちなんで名づけられたものだ。ここは公園として整備されていて、春には桜が美しい。




ちなみに乃木神社の敷地内には、乃木清水と呼ばれる湧き水がある。4~5月(つまり今頃)は渇水期にあたり水位が低いといわれるが、地表からおよそ2m掘ったあたりで湧出しており、井戸を掘ると飲用水には使えた。

ただし電動ポンプの普及する前は農業用に使うには水位が低すぎ、やはり蟇沼用水の水量のほうが頼り甲斐があっただろう。



 

■石林




乃木神社を過ぎて原街道と塩原道の分岐点にやってきた。大きな水門があるが、これは昭和15年につくられた排水路で、蟇沼用水は写真右側にむかって流れるのが本流(この付近では道路の左右を流れている)である。




さて水門前のY字路には石林の道標がある。建立は正保二年(1645)といわれ、大乗妙典(法華経)六十六部・・・とあるのはこれを建立したのが心誉禅空という旅の行者だったためらしい。大乗妙典を諸国の寺に納めながら廻国するのは俗に高野聖(こうやひじり)と言われた連中で、修験道の効能を説きながら漢方薬なども処方していた。

道標は要するに標識を兼ねた教団の広告であろう。標識部分には 「なすみち」 「志をばら(塩原)みち」 と書いてある。「なすみち」 は黒磯方面にむかう原街道、「志をばらみち」 とは蟇沼用水に沿った街道筋ということだろうか。用水沿いに折戸あたりまで上れば、そこから塩原渓谷の入り口=関谷宿まではわずか3km、街道として無理なく繋がりそうに思える。




石林付近には玉石積みの水路がおよそ1kmにわたって残っている。

みればいつのまにか案内板が整備されていた。 「那須野ヶ原で最も古い水路のひとつである蟇沼用水のせせらぎがやさしく包む石林地区は、日本人の持つふるさとの原風景を思い出させてくれます」 ・・・などと粋なことが書いてあったりする。那須塩原市の郷土愛は、ただものではないな(笑)



そんな粋な郷土愛に促されて、水路沿いにイイカンジの花が咲いていたので一枚撮ってみた。 こういう道や水路を追いかけるテーマだと説明写真ばかりになってしまうので、たまには綺麗どころもいれておこう。



■大田原市域に入る




さていよいよ大田原市域位に入る。とりあえずここまでの状況をMAPに示すとこんな感じであろうか。ほぼ並行して走る蛇尾川がずっと水無川であるのと比較すると、よくもまあここまで水を到達させたなという感がある。




しかし感慨が湧いたのも束の間、大田原市に入るといきなり水路は暗渠になってしまった。 写真は紫塚小学校入り口付近。市街域では用水堀の扱いは非常にぞんざいな印象を受ける。なんだこの落差は。




暗渠のコンクリート蓋の列を追って大高前通りを渡ると・・・




ホテルかめだや付近で大田原警察署方面(右奥)と日赤病院方面(左)に分岐した。大田原城まで引かれた・・・というのだから、城山に近いほうということで左の水路を追いかけてみよう。

<つづく>