2007.06.28
沖縄紀行:琉球八社を巡る -1日目ー (その6)




■ 波上宮 (なみのうえぐう)




南部戦跡を後にして、ふたたび331号線を那覇に向けて走る。まだ日没にはすこし時間があるので、波上宮まで行ってみよう。




波上宮は、那覇港に面した小高い崖の上に鎮座する、沖縄の総鎮守である。その起源は古く、もとはニライカナイ信仰の聖地であったらしい。琉球国由来記によれば14世紀中ごろに薩摩の頼重上人が密教(真言宗)の布教に訪れ、1368年に波上宮の別当寺として波上山護国寺を建てたとあるので、この頃には既に何らかの社殿(もしくはそれに類する施設)が存在したと思われる。

ここは豊漁と航海安全を司る神社であり、琉球王の祈願所でもあった。琉球八社の中では第一位の地位にあって、地元では 「端城」(はなぐすく) または 「なんみんさん」 との別称で呼ぶこともある。




到着したときは既に日没にちかく、社務所も閉まっていた。うーん、残念。とりあえず社殿外観だけでもチェックしておこう。




沖縄総鎮守というだけあって社殿は壮麗である。祭神は 伊弉冊尊(いざなみのみこと)、速玉男尊(はやたまおのみこと)、事解男尊(ことさかおのみこと)の熊野三神で、鎮守の神として産土神(うぶすなのかみ)、また薬祖神として少彦名神(すくなひこなのかみ)が祀られる。立地は那覇港を見下ろす位置にあり、かつて南洋貿易に出かける交易船はこの波上宮に航海の無事を祈ったという。

戦前は官幣小社としてやはり壮麗な社殿を誇ったが、沖縄戦で焼失してしまった。米軍占領時代は宗教法人としての保護を受けられず、なんとハワイに移住した沖縄県出身者からの浄財で本殿を復興したという。拝殿を含めた全社殿の復興が完了したのは1993年のことだ。




ここに熊野権現が祀られた経緯については、つぎのような伝説がある。

むかし、南風原村の里主という漁師が浜辺で光る霊石を拾った。それに祈ると豊漁になるので大切にしていたが、ある日それが神々に知られてしまい、奪われそうになった。里主は石を持って逃げ、ちょうどこの崖にやってきたところで神託を受けたという。曰く、”吾は熊野権現なり。この地に社を建て吾を祀れ。しからば国を鎮護すべし”。 漁師はこの石を琉球王に献上し、王府によってここに社殿が建てられ石が祀られたという。




この伝説には沖縄の信仰を紐解くためのキーワードがそろっている。ひとつは聖なるものが海からもたらされるという点で、これは海の彼方から神々がやってきて福をもたらすというニライカナイ信仰の延長にあるものだろう。その石を奪おうとするのがやはり神々であることもおもしろい。つまり琉球的信仰空間においては、たくさんの雑多な神が同時並行的に存在していて、それぞれは "あまり強くない" とみえる。

こういうアニミズム的なところは中国の道教にも通じるし、もちろん日本の古神道とも共通する。そして、こういう空間では外界から別の神がやってきても "多数の神のひとつ" として比較的受け入れられやすいのである。




琉球に於いてそれが熊野権現であった理由を探すとすれば、本土で流行した補陀洛渡海(ふだらくとかい)がヒントになるかもしれない。補陀洛とは観音菩薩の住まう理想郷のことあり、密教では南方の海の果てにあると考えられていた。

補陀洛渡海は密教僧がこの理想郷を目指して小舟に乗って漂流、入水する捨身行である。その始まりは9世紀半ばといわれ、真言密教の開祖空海の死後20~30年頃にはもう始まっていたらしい。

黒潮に逆らって南に向かうため、渡海は11月頃の北風が強くなる時期を選んで行われた。修行僧は四方に鳥居のついた小舟に30日分の水と食料を共なって乗り込み、出入り口を外から釘で打ち付けたうえで旅立った。その行く末の大半は、当然ながら "死" である。

しかし、長い漂流の果て……ごく稀に、琉球に漂着した者がいた。記録の上では16世紀、日秀上人が金武湾に漂着した事例が残っており、彼は琉球八社のひとつ金武宮の権現堂を開くのである。琉球人から見た彼の姿は、まさに海の向こうから来た聖なる者に見えたことだろう。




ニライカナイからやってきたものは、おそらくひとつふたつではない。いろいろなものが重層的に積み重なって、現在の信仰空間をかたちづくっている。最初は、素朴な洞窟信仰、それが御嶽となり、光る石が加わり、熊野権現が加わった。

このうち密教が伝来したとき、本地垂迹という理論をうまくつかって 「宮」 と 「寺」 を別にしたところが、従来の信仰を破壊することなしに仏教(真言密教)を琉球の風土に浸透させることを容易にしたように思える。こうして、いくつもの信仰が混交していくのである。




琉球八社が転機を迎えるのは真言宗が伝わって神社の体裁が整ってからおよそ500年後、明治政府の神仏分離令のときであった。真言宗の立場は本地=仏であるので権現つまり神社は "従" ということになるのだけれど、明治政府は旧来の仏教勢力の介入をきらい神道をもって若き明治天皇(即位時17歳)の権威付けを行った。ここで "宮" と "寺" の主客逆転が起きることになる。

波上宮は社格制度のもとでは官幣小社の格付けを得た。官幣小社は全国に5社あり、本土では住吉神社などが該当する。官幣社には例祭において皇室(宮内省)から幣帛が供進され、菊の紋章(=皇室のシンボル)を使うことが許された。この待遇をうけたのは沖縄では唯一、波上宮だけである。




波上宮には現在も明治天皇の像が建つ。平和祈念公園の徹底的な "反日思想" を見たあとでこれを見ると、なんとも不思議な光景に思えた。ソ連崩壊後のレーニン像やバクダッド陥落後のフセイン像は民衆によって倒されたが、どうやらここは少し事情が違うらしい。




社殿の右側にまわると小さな公園があり、そこを降りていくと砂浜に出た。波上ビーチとよばれる小さな海水浴場があって、社殿が崖の上に建っている状況が見渡せる。崖の中腹には大小2つの洞窟があった。そのうち小さいほうはちょうどこのアングルから捉えられるのだが、残念ながら逆光になってしまってうまく撮影できなかった。うーん、残念。




ビーチとは反対側に出ると、自動車教習場?をはさんで海の見渡せる岸壁があり、ちょうど水平線に沈み行く太陽がみえた。夕焼けが赤く染まるということは明日も天気は上々だろうか。

もう少し見てみたい気もするが、社務所が閉じているのでこれ以上の情報は得られないと判断、引き上げることにした。

※実は明日以降もういちど来てみよう・・・と思ったのだけれど、結果からいえば他の予定をこなすのに一杯でその機会は得られなかった。次に来られるのはいつのことやら・・・(汗)




■ 1日目の終わり




ぽつぽつと街の灯がともるころ、ホテルに到着。今回は慶良間諸島行きを予定しているので船に乗り遅れないよう、ホテルは港の目前をチョイスしたのだ。




部屋でTVをつけると天気予報をやっていた。この時点で梅雨明けしているのは沖縄だけなので、週間予報の色分け具合も実に鮮やかである。

ただしNHKのお天気キャスターは相変わらず沖縄だけスルーして九州までで解説をやめてしまう。これは、ご当地でTVを見ている者にとってはもの凄い疎外感だ。お前ら、「沖縄は晴れるでしょう」 くらい3秒もあれば言えるだろ。




それはともかく、疲れたので急速睡眠を取ろう。明日は、渡嘉敷島で脳みそをリセットするのだ。……ぐう。

<第1日目:完>