2007.06.29
沖縄紀行:琉球八社を巡る -2日目ー (別項)
■ 渡嘉敷島:戦跡碑文
記
ここに記すのは、昭和20年(1945年)この島に於て戦われた激しい戦闘と島民の死の歴史である。
大東亜戦争の最後の年の3月23日より、この渡嘉敷島は米軍機の執拗な空爆と機動部隊艦艇からの艦砲射撃にさらされた。山は燃え続け煙は島を包んだ。当時島にあったベニヤ板張りの舟を利用した夜間攻撃用の特攻舟艇部隊は出撃不可能となり、艇を自らの手によって自沈するようにとの命令を受けた。こうして、当時島にあった海上挺進第三戦隊、同基地隊などの将兵315名は、僅かな火器を持っただけで島の守備隊とならざるを得なかった。
3月27日、豪雨の中を米軍の攻撃に追いつめられた島の住民たちは、恩納河原ほか数か所に終結したが、翌28日、敵の手にかかるよりは自らの手で自決する道を選んだ。一家は或いは車座になって手榴弾を抜き、或いは力ある父や兄が弱い母や妹の生命を絶った。そこにあるのは愛であった。この日の前後に394人の島民の命が失われた。
その後、生き残った人々を襲ったのは激しい飢えであった。人々はトカゲ、ネズミ、ソテツの幹までを食した。死期が近づくと、人々の衣服の縫い目にたかっていたシラミはいなくなり、その代りまだ辛うじて呼吸を続けている人の眼に、早くもハエが卵を生みつけた。315名の将兵のうち、18名は栄養失調のために死亡し、52名は米軍の攻撃により戦死した。
昭和20年8月23日、軍は命令により降伏した。
「八月二十日 第一中隊前進陣地ニ於テ、各隊兵器ヲ集積シ、遙カ東方皇居ヲ拝シ兵器訣別式ヲ行フ。太陽ハ輝キ、青イ空、青イ海、周囲ノ海上ニハ数百ノ敵艦艇ガ静カニ遊弋(ゆうよく)或ヒハ碇泊中ナリ。唯茫然。戦ヒ既ニ終ル」 (陣中日誌より)
昭和五十四年三月 曽野綾子 撰
※読み易さを考慮して陣中日誌以外の数値を漢字→アラビア数字にしています