2007.07.01 沖縄紀行:琉球八社を巡る -4日目ー (その1)
■ サトウキビ畑を行く (さとうきびばたけをいく)
4日目の朝がやってきた。今日は帰還の日である。飛行機の時間までという但し書きつきのドライブだが、既に目的ポイントは制覇しているので気楽に流すことにしよう。行き先は本島南部。ここでサトウキビ畑を眺めてマターリするのだ。
とはいっても目的地が無いのでは困るので、ひとまず玉泉洞をランドマークにしてR331を南下する。せっかくなのでR507もチェックしておこう。
沖縄のサトウキビ栽培はそこらじゅうで行われているが、絵になる風景を求めるとなるとやはり場所を選ばなければならない。なおこのレポートではカットしているが、筆者はホテルマンとかタクシー運ちゃんとか売店のおばちゃんなどと結構な無駄話をしている(笑) そのなかで、広い敷地に一面のサトウキビ畑……というのを見るには本島南部を巡るのが一番良いと言われたので、糸満~八重瀬の付近を流してみることにしたのである。
そんなわけで初日にも通ったR331を再度行く。
それにしても……ルートチェック用に国土地理院の1/25000の地形図(実はネット上の山旅MAPのプリントアウトだったりするのだがw)を持参しているのだけれど、那覇空港の南側は猛烈な埋め立てによってすっかり海岸線が変わっていて、さっぱり役に立たない……うーむ。
豊見城を過ぎて糸満市に入るとサトウキビ畑が散見されるようになった。でも住宅地と混在状態で、ちょっと絵にはなりにくい。電線が多いのもイマイチだ。
それでも平和記念公園を越えて八重瀬町域に入る頃には、ぼちぼちイイカンジの畑が増えてきた。
その八重瀬町役場の付近からR507に折れる。ちょうど民家の少ないエリアを通っている国道である。
ここは道路マニア(そんなのいるのか?)ならぜひ押さえておきたい場所である。日本には国道が1号線から507号線まであるが、ここはその最後の1本なのだ。
R507の付近は地形が平坦で民家も電線もない、すばらしく視界の通るサトウキビ畑が広がっていた。
おお、沖縄の原風景のような景色だな。
沖縄の本土返還の頃、森山良子の歌う 「さとうきび畑」 が流行した。"ざわわ ざわわ ざわわ……" と歌う静かなる名曲である。そのせいか沖縄といえばサトウキビというイメージが広く定着している。
それは決して間違っているわけではないけれど、沖縄でサトウキビ製糖が始まったのは17世紀前半の頃であり、実はそれほど古い話ではない。サトウキビ製糖はインド~中国を経由して1609年(薩摩侵攻の年)に奄美大島に伝わり、沖縄本島で始まったのは1623年のことである。
当時の琉球がサトウキビ製糖に着目したのは、貿易立国政策が成り立たなくなり、農業を基盤とした経済構造への転換を迫られていたという時代背景がある。
明代の初期~中期に琉球に莫大な富をもたらした交易経済の本質は、東南アジア/日本/朝鮮の産品を明国に供給する "代用調達" の性格が強かったといえる。しかしその商品の調達は時代を経るごとに困難となっていった。
15世紀中ごろからは朝鮮商圏は日本が押さえるようになり、一方16世紀に入るとポルトガルによるマラッカ占領があり東南アジア方面の商圏も押さえられてしまう。また倭寇、華僑が跋扈するようになって東シナ海の海上交易は混沌としてくる。明代も末期となると海禁政策も緩和され、琉球国の貿易上の優位性は失われていった。そして琉球で製糖が始まってからおよそ20年後、ついに明は滅亡し、琉球にとっての最大のスポンサーはいなくなった。
こうした背景のなか、琉球はここにはじめて自前の "特産品" と呼べる農産物を得るに至るのである。
いまではすっかり沖縄の原風景となっているサトウキビ畑も、世界史における貿易覇権を巡る競争の果てにその副産物として出来上がったわけだ。そう考えると、ちょっとした歴史ロマンでもあるな。
どこまでも続くサトウキビ畑。この日はじりじりと照りつける強烈な太陽があるのみで、風のない静かな風景がひろがっていた。
その強烈な陽光のもと、遠くに海を望むアングルにて1枚。
そういえばここは摩文仁からはおよそ5km・・・沖縄戦終盤の殲滅戦が行われた一帯にあたるのだった。あの曲に歌われたのは、ちょうど今頃の季節のことだ。左翼のトチ狂ったプロパガンダには蹴りを入れつつ、一週間遅れではあるけれど戦没者の冥福を祈ろう。南無南無。
<つづく>