2007.07.01 沖縄紀行:琉球八社を巡る -4日目- (その3)
洞窟を抜けると、すぐに亜熱帯果樹園のようなコーナーがあった。おお、生で成っているマンゴーだ。
店舗は素朴系。いろいろ売ってはいるが・・・
やはり試してみるならサトウキビだろう。50~60cmに切った茎が山積みになっていた。
茎1本を絞るとちょうどカップ1杯ぶんのサトウキビ汁が採れる。飲んでみると、味感としては完熟スイカの絞り汁くらいの甘さだった。これを煮詰めると黒糖になるわけか・・・
店舗を出て、沖縄ワールドの地上施設の間をゆったりと歩いてみた。
日曜の昼時だというのに、あまり人は多くなかった。とはいえこれは学校の夏休み前だからであって、7月も後半になれば旅行客でごった返す筈だ。
ここの年間の来客数は140万人もいる。沖縄の年間観光客数が500万人というからその集客力の大きさがわかるだろう。しかし沖縄らしいテイストを味わいながら散策するには、このくらいの人口密度でちょうど良いように思う。
ここに再現されているのは "作り物の町並み" である。しかしもう沖縄でも赤瓦の家は都市部には見られなくなった。今回の紀行では赤瓦の写真が意図的に多く配置してあるけれども、それらは寺社、公共施設、そして離島の古民家であって、決して本島の一般的な家屋ではない。
離島の民家にしても、珊瑚石の塀はほとんどがコンクリートブロックに代替され、電柱が無造作に林立してなかなか綺麗な町並みというわけにはいかない。もう、TVドラマや映画に出てくるような沖縄家屋の町並みというのは、こういうテーマパークの中でしか見ることができないのかもしれない。
今回の旅の最後にここを訪れようと思ったのは、作り物であってもそれらしい雰囲気のあるところを見て終わりたい、という気分がそうさせたのだった。実際、ここは本物の沖縄人の作った施設だけあって、演出過剰のケレン味のようなものはない。そういう意味では見ていて安心感のあるところだともいえる。
ところでこの紀行のどこかで書いたかもしれないが、沖縄のシンボルともいえる赤瓦の屋根が一般人に許されたのは明治期、身分制度が廃止されて以降のことである。赤瓦の民家が立ち並ぶ風景というのは、決して琉球王朝華やかなりし頃に見られたものではない。
身分制度廃止以降も、貧しい一般人に瓦屋根はなかなか普及せず、大正期に至って戦争特需(→第一次世界大戦)による好景気が続き特産の砂糖の消費が増えた時期になってはじめて本格的に普及するのである。それが沖縄戦で灰燼に帰すまでのわずか30年ばかりの間が、一般の町並みにおける赤瓦屋根の黄金時代といえる。今では沖縄のシンボルとなっている "屋根の上のシーサー" もこの頃の普及だ。
敷地内の黒糖館には、昭和10年(1935年)頃の製糖工場の写真が載っていた。この頃は牛にサトウキビ搾り器を引かせていた様子が見えるが、屋根はもうすっかり瓦葺になっている。二重屋根になっているのはサトウキビの汁を煮詰めるときの煙抜きだろうか。
こんなふうに、イメージとして捕らえる沖縄と、歴史の積み重ねとして時間軸上で捕らえる沖縄には、結構な開きがある。まじめに年表を開いて検証しながら観光旅行をするなんて暇人は稀だろうから、たいていの人にとっての沖縄は、TVの観光番組や旅行本などで見た印象をなぞって終わってしまう。ちょっと残念なところだな・・・
電線のない赤瓦の家の庭先。もうこんなイメージをリアルな町並みの中で撮るのはかなり難しい。
ここには他にもいろいろな施設があるのだけれど、時計の針がそれらをゆっくり見て回るのを許してくれなさそうなので、このへんで門を出ることにした。うーん、もったいないなぁ。
出口にくると、BGMに控えめな音量で "涙そうそう" が流れていた。これがまた合うんだな、静かな雰囲気に・・・
そしてなにげに展示してあった "南都丸" ・・・琉球王国時代の進貢船(朝貢船とは言わないらしい^^;) を再現した船である。これで全長31mあるが、明から下賜された船は40m以上あったものもあったというからこれはまだ小さいほうらしい。沖縄には久米三十六姓といって明時代に造船と航海の技術を持って移住してきた中国人の末裔が生きており、その技術を伝えている。
現在、本家の中国では残念ながらこの船を作れる技術者はいないそうだ。文化大革命時代の焚書によって資料がことごとく失われたらしい。韓国も似たようなものだが、大陸国家というのは新政権が成立すると昔の歴史的資料を抹殺することにためらいがない。それが沖縄の地に残っているとは、なんとも妙な気分になってくる。
さてほんとうに時間がなくなったので引き上げよう。
■ 帰路
空港までの道は、"最後の国道" 507号線を行くことにした。
那覇が近づくと、格段にクルマが増えてくる。戦後復興した都市部には、かつての琉球国の面影はない。近代然とした都市景観が喧騒につつまれていた。
那覇空港で展望スペースに行くと、遠くに島影がみえた。
あれは、慶良間諸島だ。空気の状態がよければ、こんなにはっきりと見えるんだなぁ。
その島影を眺めながら、おそらく同じ便に乗る予定であろう人々がつぶやいていた。
「いやー、こんな景色をみていたら、帰りたくなくなるねぇ」
・・・・たしかに、同意したくなる青い空と海なのであった。
<おしまい>
■あとがき
おそらく本サイトの旅行記で一番長い紀行になったであろう "沖縄" ですが、調べることが多すぎて実際の旅行からレポートが書き終えるまで1ヶ月半以上という驚異的に遅い報告となりました(笑) 内容的には本来なら3分割したほうがよさそうな内容(戦跡/景色/琉球八社)ですが、まあこれまでどおりの時系列記録でまとめてみた次第です。そんなわけで多少のフォローを加えつつあとがきです。
■ 結局、琉球八社とは何だったのか?
最初は、琉球王に保護された神社・・・くらいの認識だったのですが、その信仰的な本質はどこまでいっても御嶽(うたき)だな・・・というのが、今回の印象です。その背後にいたのは仏教勢力で、本来は仏教をストレートに布教したいのだけれど、沖縄の風土ではなかなかそうもいかない。そこでワンクッションおいて沖縄の民間信仰にちかい神社をもってきて、本地垂迹の理屈をもって仏教を浸透させていった・・・そんな事情がいろいろと垣間見える旅でもありました。
その過程で重要な存在は、やはり沖縄の国生み神話に登場する阿摩美久(アマミチュー/アマミキヨとも)でしょう。どうやら沖縄ではアマミチュー神と竜宮神(乙姫)、弁財天が混交していて、同じ女神である天照大御神がそこに同一視されて習合していった形跡があります。琉球国で最初の公式(=琉球王が保護した)な神社は長寿宮ですが、その祭神が天照大御神だったことからもそれが伺えます。
※長寿宮は現在波上宮の境内に仮遷座しています
それらの神社群が "琉球八社" としてまとまるのは17世紀に入ってからです。本編で述べた 掟十五条 → 琉球王朝における寺社リストラ説は、筆者の想像も多分に入っていて広く歴史学者に認定されているわけではありません。・・・が、周辺事情を掘り起こしてみるとそう考えるのが自然なように思えたので、ここではその説でまとめることにしました。まあ、素人調査なので真相の追究は本職の偉い人の研究に任せましょう。
あとは八社の立地でしょうか。17世紀以前の古地図が那覇図書館にあるのですが、そこに描かれる那覇の姿は入り組んだ浅い入り江に多数の島の浮かぶ湾でした。その古地図に八社の位置を重ねると、那覇付近の6社はみな岸壁もしくは海の見える高台にあって、港湾を守るような配置になっています。明治期以降、転々と移動した沖宮が現在ある場所も、古地図からみればちょうど那覇港を望む島の上で、那覇港の南側を守る位置関係になるのですね。
当時の那覇の様子を想像するのにちょうど良い写真がありますので参考に載せておきます。渡嘉敷島の阿波連です。写真左上の離島(はなれじま)は海岸からちょうど1kmほど沖合いにあり、当時島だった那覇と首里をつないだ長虹堤(長さ1km)の距離感をつかむには適当なサンプルでしょう。琉球八社第一の宮である波上宮は、あんな感じの島の岬に建っていたわけです。現在ではすっかり埋めたれられて市街地になっていますが、都市開発に一工夫あれば那覇でもハワイのホノルルのように 「都市の前面にビーチ」 といった景観が実現していたかもしれません。
■ 沖縄の左翼ヽ(`◇´)ノ
さて、もうひとつ強烈だったのが沖縄における左翼活動の凄まじさです。平和記念資料館を見てあまりの偏向ぶりとツッコミどころの多さにクラクラしてしまったのですが、米軍の存在感のさっぱりない 「邪悪な日本軍が沖縄県民を虐殺しました」 という展示は、沖縄県庁の公式な立場でもあるんですね。
調べてみると、この沖縄県庁の歴史観は1970年前後の安保闘争時代の過激派とほぼ同一です。ここは旅と写真のサイトなので深くはツッコミませんが、参考までに1970年代に連続企業爆破事件を起こした東アジア反日武装戦線という左翼過激派の獄中書簡にリンクを張っておきます。もう、そのまんまです。
沖縄で反日活動を行っている連中の出自を辿っていくと、やはりというか学生運動が失敗し浅間山荘事件で世間に愛想を尽かされた安保時代の過激派がルーツのようです。本土で居場所がなくなった彼らの前に、新たなステージとして登場したのが本土復帰後の沖縄だったのですね。
不思議なことに、本土の左翼というのは1970年以前には沖縄返還絶対反対で、1972年に返還が実現するとコロリと態度が変わって沖縄の味方を演じ始めます。前者は日米安保反対、後者は現在まで続く平和運動とか基地闘争、天皇制反対といったもので、要するに題材は何でもよくて、その時の日本の政権弱体化につながるテーマに集中し国家転覆を目指す、ということでは一貫しています(このへんの事情は警察白書の昭和50年代あたりの公安状況の項を読むと詳しく分析されています)。こういう連中が、平和運動を偽装して沖縄に浸透していき、さまざまな市民団体や官公庁を乗っ取ってしまったようなのです。現在では左翼ジャーナリズムとタッグを組んで、もうやりたい放題といって良いでしょう。
ではそういう活動家はともかく一般の沖縄社会はどうかといえば、今回は取材に巡ったのが神社仏閣中心だったせいかも知れませんが、実は 「反日的」 「反皇室的」 なものは南部戦跡以外ではまったく目にしませんでした。「天皇陛下行幸記念」 なんてのがそこらじゅうにあって、拍子抜けするくらいです。TVニュースによく出てくる基地闘争だの平和活動だの言ってデモをやってる連中というのは現地の人たちから見ても異質なようで、「ぶっちゃけたところどうなのよ?」 と聞いても 「あれは本土から来た人たちだからねー」 という以上の答えは返ってこないのでした。まあ、そういうものなのでしょう。
■ 景色としてみる沖縄
さて本サイトは旅と写真のサイトなので、景色について述べておかねばなりません。これについてはやはり沖縄は日本屈指の撮影スポットといえます。特に離島の水の綺麗さにはびっくりです。ただし撮影条件がかなり難しい(^^;)
水のある風景を撮影するというのは、光を撮影するのと同義です。水はもともと透明なものですから光の当たり方によってまるで表情が違ってきます。で、やはりいろいろ撮影してみて思ったのは 「やはり順光条件というのは王道だ」 ということでしょうか。レポート中でも書きましたが、海を綺麗に撮るには順光条件でなおかつ太陽が高いこと、撮影者もなるべく高い位置から見下ろすアングルが良いこと、という条件がありさらにはもうひとつ、潮の満ち干きが大きい。
筆者は山国に住んでいるので "潮の干満" に関する感覚があまりありません。・・・が、遠浅の砂地の海を撮影するとなると満潮/干潮で表情がまったく異なってくるので、これは事前チェックが欠かせないなぁ、というのが正直な感想です。そんなわけで、ちゃんとした写真を撮ろうとすると季節、月齢を考慮にて日程をたて(そこに休暇が取れるかという社会的な制約もあるのですが)、地形と太陽の向きを考慮してコースを設定し、その日その時に天候が晴天であることを祈る・・・ということになります。写真に理解のない同行者がいたりすると絶対に不幸な旅になりますね(笑)
一方、都市景観ということでいえば、神社仏閣、首里城(今回は外していますが)も含めて王朝時の建築物は沖縄戦でほぼ完全に破壊されており、琉球八社にしても社殿は戦後に建て直されたものばかりでした。復興にお金をかけられる施設はいいのですが、離島の一般家屋などはせっかくイイカンジの瓦屋根があっても町並みとしてはコンクリートブロックでつぎはぎになっており、なかなか綺麗な町並みにはお目にかかれません。文化財にしても、弁天堂などが一個\200のコンクリートブロックの上に遷座しているのをみると 「もう少しお金をかけてやれよ」 と同情したくなります。
そして最後に一言言うなら、サトウキビ畑でしょうか。これは景観のためではなくあくまでも産業として栽培しているものなので、なかなか絵になるような景色というのは望めません。宮古島まで足を伸ばせば畑の80%がサトウキビ畑だというのでイイカンジの絵が撮れそうですが、今回はそこまではいけませんでした。
いずれにせよ沖縄というのは面白い地域なので、暇とお金があればまた訪れてみたいところです。
【おしまい】