2007.09.08 塩原の古代を歩く:前編 (その3)




■元湯温泉へ




さていよいよ元湯を目指すことにする。八郎館跡から元湯への道は割と平坦な山道だ。ただし現在八郎ヶ原を縦貫している道は江戸期に元湯~新湯を結んで整備された道なので、源平の頃の道すじかどうかはわからない。




やがて八郎ヶ原の西端=赤川に到達する。




塩原温泉発祥の地、元湯温泉はそんな川沿いの谷間に位置する鄙(ひな)びた宿である。

現在は3軒の旅館が営業しているが、崖っぷちの急峻な地形に立地するため川下側2軒と川上側1軒は崖の上/下それぞれ別ルートで接近しなければならない。現在でも湯祭りではここから採取された湯が塩原各地の温泉地に分湯される儀式があり、それなりに一目置かれている。




今回は一番奥(というか崖の中腹)にある大出館に立ち寄ってみた。崖上からのアプローチになるので玄関が最上階で湯は一番下の階になる。……凄い立地だな。




さてそんなわけで露天風呂 ヽ(´ー`)ノ

高さがあるので視界はかなり良い。……が、他のお客さんも入浴していたのであまり写真を取りまくると変質者と思われかねず、ここでの紹介も当たり障りのない1枚に止めておくことにしたい。ちなみにここは混浴で、水着は禁止である。カメラ片手にふるちんで湯船に向かうのはかなり危険な行為であることを認識されたい(ぉ




ここの名物には全国的にも珍しい真っ黒な湯もある。塩原温泉郷は個性豊かな源泉が多数同居していることでも知られているが、この黒い源泉は鉄分を多く含むのでこのような色(どうやら気圧によって変動するらしいが)になっているようだ。名を "墨の湯" という。日光地震以前にはなかった新しい源泉のようだ。




さて現在は宿3軒と小規模になっている元湯温泉だが、かつては塩原の中心的な旅館街であり、その繁栄ぶりは "元湯千軒" などといわれたほどであった。往時この付近には千石帯刀湯、邯鄲湯、梶原湯などの豊富な湯量を誇る源泉が3つ(別の説では7つ)あったという。

現代の感覚では温泉というと観光地のイメージが強いけれども、近代医療が普及する以前の温泉は "地域の総合病院" としての性格をあわせ持っていた。遠方から訪れる湯治客は数週間の長期滞在で地元の経済を潤してくれるありがたい存在でもあっただろう。かつての塩原の中心は、この元湯~要害城のあたりにあったようだ。

※元湯千軒とはいうが記録によれば85軒ほどの旅館街だったらしい。それでも江戸期以前で85軒というのは脇街道の宿場としてはかなり大きい。




それが一転するのは、江戸期に入り1659年(万治2年)の会津地震によってである。温泉街は地震による崖崩れで壊滅、さらに最大の湧出量を誇った千石帯刀湯の源泉が破壊されて湯が冷水に変わってしまった。このため付近の住民は転出を余儀なくされ、移住先として畑下、塩釜、福渡など下流域の温泉が開発されていった。現在の塩原の中心温泉街の原型はこのとき以降の開発で形成されたものである。これにより、塩原の中心街は盆地の西端から東端へと大きく移動していくことになった。

元湯ではその後一時復興の動きもあったが、1683年(天和3年)の日光地震で再び集落が土砂に埋まってしまう。残っていた住民もついに復興をあきらめ、地震による地滑りで新たに湯が沸いた新湯温泉に移住して、以降元湯は無人の廃墟となったのである。




現在の3軒の宿がふたたび元湯を再興するのは、廃墟となって220年あまり経った明治17年になってからである。しかしそのとき既に塩原では三島道路(現在のR400)の工事が進行中で、元湯は実質的に "僻地の秘湯" のような立場になっていたのであった。




現在では元湯~高原を結ぶ街道も藪に埋もれてしまい、ますますもって僻地感が強くなっている。かつての元湯千軒も、まさに今は昔の物語である。



 

■要害城



さて時代を平安時代にまで戻して、塩原氏の居城 "要害城" を目指してみる。赤川渓谷沿いには細長い耕地が切れ切れに続き、ススキが穂を出していた。午前中は晴れ間もあったのだけれど、午後になり雨が降りそうな気配になってきた。




赤川沿いに道を下ると、ほどなく箒川の本流に出る。この↑崖の上が要害城跡である。八郎ヶ原ほど高くはないが、20mほどの断崖を箒川本流と善知鳥沢(うとうざわ)が天然の堀となって囲む立地となっている。

ここで、ついに雨が降り出した。うーん、ついてない……




善知鳥沢側から崖の上に上がってみた。

土塁のようなものが残っているのが見えるが、雨が激しくなってきたのでクルマを降りて徒歩で接近するのはやめることにした。藪を越えて崖沿いまで行くともう少し程度のよい土塁もある筈だが、それを確認するのは次回以降にしておこう。ちなみに要害城は、塩原氏の後、長沼氏、君島氏、橘氏、塩谷氏などの居城となり、1598年に宇都宮氏の改易をもって廃城となった。




崖から見下ろす塩原盆地。湿度が高く蒸し暑い。



R400に降りて古町付近にやってきた。雨は小降りになり、見ると川靄が発生している。湿度の高い暑い日に、雨で地表の温度が下がるとこんな風景がみられる。

さて本来ならここで源平時代の話をしたかったのだけれど、天候がいまひとつなのでここで一旦撤退することにしよう。塩原は狭い地域に1000年以上の歴史が集積しているので、どうも語りだすとうまくまとまらない。 ……素直に写真だけ撮っておしまい、みたいな構成にすればよいのかもしれないけれど、それは手の空き具合次第かな。


<いったん完>