2007.11.17 西郷神社
西郷農場跡地(鍛冶屋)にある西郷神社を尋ねてみましたヽ(´ー`)ノ
諸般の事情があって身動きがとれないでいる間に、紅葉がすっかり平地まで降りてきた。 那須塩原駅前の街路樹もイイカンジに色づいてきており、ここが色づくからにはいよいよ那須野ヶ原の紅葉の季節も終盤に入ったといえるだろう。 今日は自由になる時間が午後しかないので、混雑の予想される山側は避けて通りたい。そんなわけで近場を南下してみることにした。
行先は、西郷神社である。
西郷神社は、明治の元勲 西郷従道元帥 (西郷隆盛の弟)を祀る神社だ。1880年代に急速に進んだ那須野ヶ原開拓事業にあっては、大規模な華族農場がいくつも成立したのだが、その最南端付近に入植したのが西郷従道侯爵(海軍元帥)であった。
那須野ヶ原は江戸時代以前には水利が得られず、農地としての価値はほとんど見出されていなかった。その中で西郷農場は、位置的には大田原城下まで4kmほどで、比較的地下水の水位が浅いところに位置していた。 しかし当時は農業が成立するほどの水を井戸から得るのは困難で、農場は那須疎水による水利を期待して開かれた。
ちなみに西郷農場は那須疎水第4分水の末端にあたり、那珂川の取水口からここまで水を到達させるのが、疎水事業の目標のひとつであった。
西郷農場の北側には、同時期に入植された大山巌陸軍元帥の所有していた大山農場がある。大山農場は那須疎水第3分水の末端であった。 二人は同じ郷里出身で親戚関係にあり、特に西郷農場の開かれた場所は出身地である鹿児島県加治屋町の名をとって "加治屋" と名づけられた。
この 二人の元帥は、帝国議会が開かれ初代内閣総理大臣に伊藤博文が就任した折、ともに初代の陸軍大臣(大山巌)、海軍大臣(西郷従道)に就任している。 新政府内ではそれぞれに総理大臣にならないかとのお声掛かりがあったそうだが、西郷従道は兄である西郷隆盛が西南戦争で逆臣として最後を遂げたため、総理大臣への就任は固辞したという。
さて野崎街道から見る現在の鍛冶屋付近はこんな佇まいである。当時の大農場は現在は解体されてほとんど痕跡らしいものはない。 那須疎水の流れと、写真左奥にある杜(もり)=西郷神社がわずかに記念碑的な存在として残存している。
現在の野崎街道は改修されて直線状に通っているが、そこにほぼ並走する旧道が今も残っている。写真左に見える堀が那須疎水第4分水で、通称として "鍛冶屋堀" と呼ばれた。
西郷神社はそのと疎水の末端に沿って静かにたたずんでいる。
■ 異形の社殿
神社の全景はこんな状況となっている。造りとしてはまったく "簡素" そのもので、わずかな盛土のみが神域の存在をささやかに示しているにすぎない。
木造の大きな社殿などはない。鳥居も一基だけ。
・・・が、石造りの本殿がなかなか侮りがたい重厚さでそこに鎮座していた。
これが異形の貫禄ある社殿なのである。建立は明治36年、西郷元帥没年の翌年であった。
社殿脇に立つ建立記念碑には "西郷元帥神霊分社" とある。元帥の本墓は多磨霊園(東京都立:府中市)にあり、ここに鎮座する西郷神社は開墾関係者が中心となって農場内に建立されたものだ。神社の作法に則って分祀というかたちがとられており、ここでは元帥は "神" として扱われている。
境内には "西郷農場感恩碑" と題する由緒説明碑が建っていた。
読んでみると、新政府からかつての荒地が民間に払い下げられ、それに応募した西郷らが開拓を進めていった様子が綴られている。農場は大山元帥、西郷元帥の連名で500町歩を国から払い下げられ、その後両者で均等に分割してそれぞれ独立した農場にしたとある。西郷の取り分は南側の250町歩であった。
※松方牧場(現在の千本松牧場の前身)の1640町歩に比べたら250町歩はまだまだ小規模な農場といえるが、それでもFIFA仕様のサッカーコート347面分くらいに相当する。
さて社殿を見てみよう。 石に彫刻して造られたその意匠は実に豪壮で他にあまり例を見ない。逆巻く波の上に社殿が載っているのは海軍元帥であることを示している。四方に狛犬か雷獣のようなものが配されており、柱は登り龍に下り龍という凝り様である。
屋根に載っている神獣らしいものはなんだろう。不勉強なのでよくわからないが、やはり逆巻く波をモチーフとしたデザインで彫刻されている。
軍人を祀った神社はいくつもあるけれど、ここまで凝ったデザインのものは筆者は見たことが無い。故人の属性にあわせてこういうものが建立されるところをみると、元帥はたいそう敬愛を受けていたのだろう。
ここで西郷元帥の海軍における功績について少しばかり触れておきたい。
西郷元帥は、新設されたばかりの帝国海軍を短期間のうちに整備して、後の連合艦隊の基礎を作った人物である。この草創期の組織づくりをスマートに遂行できたことで、帝国海軍は日清、日露戦争をなんとか戦うことができた。 喰うか喰われるかという帝国主義の時代に日本が独立国として存続できたのは、彼の功績があったからと言っても過言ではない。
西郷従道は自ら陣頭指揮をとってグイグイと組織を引っ張るタイプではなく、人を使うのがうまい人事屋であったという。これはという有能な部下を抜擢し、自由に動ける環境を作って権限を与え、自らは後見人になるという形でサポートをした。
代表的な例としては、明治の代表的な軍政家、山本権兵衛の大臣官房主事抜擢が挙げられるだろう。清との開戦を前にして海軍軍令部長を含む90名近い軍幹部を予備役編入(事実上の解任)とし、近代的軍事教育を受けていない頭の古い幹部を大量処分した策などは、山本のバックに西郷がいてはじめて実行可能な改革であった。
その他にも戦艦三笠建造の費用調達のウルトラCなどいろいろなエピソードがあるのだけれど、語りだすと長くなるのでそのあたりの事情は司馬遼太郎の著作にでも譲ることにしたい。
※写真は Wikipedia のフリー画像を引用(出典:国会図書館)
そんな歴史的な人物であるにも関わらず、実は筆者は小学校、中学校、高校を通じて学校で習った記憶がまるでない。まあアドミラル・トーゴーが教科書から消えて安重根(!!)が掲載されるような国籍不明の教育が横行してしまう時代といえばそれまでなのだけれど、"知らない" というのは地元の子供たちにとっては素朴に不幸なことといえる。
およそ教育に於いて根源的に罪深いのは "教えない" という不作為である。・・・って、おい、そこの社会科教師、お前のことだぞ m9(`・ω・´)
それはともかく、この神社には実はもうひとつ不幸なことがある。それは境内のヌマスギの木だけは名木指定を受けて保護されているのに、肝心の社殿は文化財指定も何も受けておらず、そのへんの塀かなにかと同じような扱いになっていることだ。他にあまり類をみない特異な外観の社殿だけに、筆者的には現状の放置され具合に若干の忍びなさを感じざるを得ない。大田原市の教育委員会は何をしてるのやら。
大山元帥、西郷元帥、そこに乃木大将の物語を加えると、実に芯の太い明治日本の物語が出来上がる。那須野ヶ原にはそういう近代史のメインストリームに絡む面白い要素があるのだから、もうすこし大切に扱ってあげても良さそうに思うのだが。
<完>