2008.04.05 金精峠に道鏡の巨根伝説を追う:奈良編 (その1)




今回は下野国に伝わる壮大な巨根伝説と道祖神信仰に関して歴史ろまん?を追ってみました。



さて妙なタイトルでお騒がせ(?)しているかも知れない今回のテーマだが、世間によくありがちな 「発見!珍スポット紹介♪」 というノリではなく、素人調査なりに割と真面目に進行しようと考えている。きっかけは某掲示板で男根型道祖神のルーツについて多少の議論をしたことである。金精神(こんせいしん)とも呼ばれるこの種の道祖神は全国にみられるが、分布域としては関東甲信~東北地方に多く、もちろん栃木県もその分布域に入っている。そのルーツを巡ってみようという趣向である。

旅の出発地点としては、今回は那須塩原市北端にちかい温泉 "幸乃湯" を選んだ。ここに典型的な道祖神(金精神)の例が見られるからである。




ここが幸乃湯温泉。百村から三斗小屋に向かう深山ルートの途上にある。百村、板室、三斗小屋への街道が交差する分岐点にあたり、昭和になってから温泉が湧出した。




これが道祖神である。もう説明のしようもないくらい具体的な形状をしている。道祖神は峠や分かれ道など交通の境界になる場所に建てられることが多い。いわゆる遮りの神でもあり、外部から疫病や災厄が進入しないよう、一種の守り神として祀られている。その形状はただの自然石や男根型、人型、また男女2神が寄り添う形状などさまざまだが、全部ひっくるめてしまうと手に負えないので、ここでは男根型の 金精神 にターゲットを絞りたい。温泉地には特にこの男根形のものが多く祀られる傾向にある。

この不思議な神様は、道を守る神=道祖神としての機能の他、子孫繁栄、五穀豊穣、家庭円満、招福etc…などさまざまな要素の集合体であって、理数系的な因数分解で理解しようとしていくと訳がわからなくなる。その起源についても諸説あって判然としない。

しかし、下野国においては金精神が祀られる起源となったらしい伝説が、割とはっきりした形で伝わっている。それは奥日光の金精峠にまつわる伝説である。峠には下野国を代表する "金精神社" が存在し、これが近隣諸地域に勧請されて金精社として祀られているのである。Wikipediaからその由来を引用してみよう。 ※記述は2008.04.01現在のもの



【由来】

金精神社の由来は、「生きた金精様」 といわれていた
道鏡の巨根にある。

奈良時代、女帝の孝謙天皇は巨陰であったため並の男根では満足できなかった。 そのため、孝謙天皇は巨根の藤原仲麻呂(恵美押勝)を重用していたが、 道鏡の修法により病気が治ると更に巨根である
道鏡 を寵愛するようになった。しかし、孝謙天皇の崩御後、 道鏡は皇位を窺った罪で下野薬師寺別当に左遷されてしまう。 大きく重い男根を持つ道鏡にとって、 下野薬師寺までの旅は過酷なものであり、特に上野国(群馬県)より下野国(栃木県)への峠越えはとても厳しいものであった。 道鏡はあまりにも自分の男根が大きく重かったため 峠で自分の男根を切り落としてしまったとも、孝謙天皇に捧げるつもりで峠で自分の男根を切り落としてしまったともいわれている。 その切り落とした道鏡の男根を「金精様」として峠に祀ったのが、 金精神社の始まりとされる。


おいおいなんだそりゃ?ヽ(@▽@)ノ
…と思われる方がいるかも知れない。しかし話の骨子そのものは平安~鎌倉時代以降さまざまな古典で書き継がれてきた、 それなりに古い説話なのである (Wikipediaの解説は記述に多少…どころではない悪ノリを感じるが)。




さてここに登場する 道鏡 とは、奈良時代の仏教僧である。 河内国若江郡の弓削氏の出身で、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)とも呼ばれる。 歴史的には "日本史三大悪人" に数えられている人物である。

道鏡が歴史上の大悪人とされているのは、皇位簒奪を企んだとされているためで、当時(奈良時代後期)の天皇が女帝であったことから、件(くだん)のような評判が語り継がれるようになったらしい。歴史的には有名な宇佐八幡宮神託事件が相当するが、歴史に興味のない人にとっては 「そんなもん知らんわ!」 という声もあると思うのでのちほど改めて触れることにしよう。

道鏡の大和朝廷での最高地位は "法王" であり、天皇に匹敵する権力をもっていたらしい。そんな政権中枢の大物がなぜ下ネタ満載の巨根伝説を残し、今に至るまで金精様のルーツになっているのか? …非常に不可思議というか、まあとりあえずこの人物を調べてみれば金精様の起源のひとつが明らかになるような気がして、今回の一連の旅を企画したのであった。




ちなみに金精峠は奥日光にある標高2024mの峠で、現在はR120が通って日光市と群馬県片品村を結んでいる。積雪のため冬季は全面閉鎖となり開通するのはゴールデンウィークの頃である。といってもこの開通時期は多分にGWの行楽客を意識したフライング気味のものであって、いったん開通しても雪崩によりたびたび閉鎖になるなど、現代にあっても難所のひとつといえる。現在のR120は金精山を貫く金精トンネル(1965年開通)で群馬県側に抜けているが、旧道はもちろん山の上を通っており、金精神社もそこに鎮座している。

今回の企画の最終目的地はこの峠に登ることなのだが、残念ながら取材の企画段階(3月末)ではまだ冬季の通行止めが解除されていない。R120を外れて峠に上るには残雪が消えるまで待つ必要もある。そこで、遠回りになることは承知のうえで、まずは道鏡の活躍?した舞台である奈良に出かけてみることにした。我ながら時間と費用をかけて何をやっているんだか…という気がするけれど(笑)、まあ所詮は道楽なので気にしない。

なお、調査といっても何か学術的な発掘をしようという意図はない。ここは旅と写真のサイトなので、現地の状況を出来る限り自分の目で見て、その時代の残照のようなものを絵として残しておきたいという、その程度のものだ。物見遊山といえばそのとおりだが、とにかく四の五の言わずに出かけてみよう。




■奈良への道




さて奈良にむかって旅立ったのは4/5のことである。本来ならいきなり奈良に行く前に地元の道祖神分布状況を調べるフェーズが必要で、実際その予定もあったのだが、公私ともども多忙になってしまって順序が逆転してしまった。

那須から奈良までは、新幹線を乗り継げば5~6時間ほどで行けてしまう。那須塩原から東京経由で京都まで行き、さらにJR奈良線に乗り換えて南下する。天気はそこそこ晴れており、途中の静岡では富士山がイイカンジに見えた。




さてここで、予備知識として奈良の都=平城京、そして奈良時代について概観してみよう。

平城京は近畿地方のMAPに重ねてみると↑このようなエリアになる。こうしてみると結構な広さがある。ここに都があった西暦710~784年の74年間が、奈良時代である。統治機構的には律令制の全盛期にあたり、教科書的には701年の大宝律令が有名である。




奈良時代は元明~桓武天皇までの8代の天皇の治世に相当するが、その中核となるのは聖武、孝謙、称徳の2人の天皇である。3人じゃないの?とのツッコミが入りそうだが、孝謙天皇と称徳天皇は同一人物なので2人で正しい。特に奈良時代の仏教政策についてはこの父娘が決定的に重要な役割を果たしている。

怪僧?道鏡が歴史の表舞台に登場するのは孝謙天皇が2度目の皇位につき称徳天皇となった760年代のおよそ10年間ほどの期間である。ただし彼の人生の時はそれ以前にも流れており、年表に重ねてみるとほぼ奈良時代の8割ほどと重なっている。このように連続する時間軸で捉えると、道鏡が奈良の都で起こった主要な事件(政治史)をほぼすべてリアルタイムで見聞しており、そのうえで活躍期に政権を握るに至った流れが理解しやすい。そしてそれは道鏡とコンビを組むことになった孝謙(称徳)天皇にも言えるのである。




さてJR奈良駅に到着したのは正午過ぎであった。




おお、たぶん修学旅行以来ではないかという奈良の都♪

駅前には古都らしく灯篭型のモニュメントがあり、平城宮への案内塔が立っていた。奈良は2010年には遷都1300年を迎えるため、それを記念して旧跡の復元/整備を急ピッチで進めているらしかった。駅前には観光客らしい人波が多く行き交い、外国人の姿も目立つ。さすがはメジャーな観光地だなぁ。




ところで現在の奈良の市街地(県庁周辺)は東西6km、南北5kmに広がる平城京条坊の中心から大きく東側に寄っている。ここは外京(げきょう)と呼ばれる寺社地区で、東大寺と興福寺の存在が大きい。地図を眺めると他にもいろいろ興味深い点はあるのだけれど、奈良時代は歴史ミステリーには事欠かないので深入りすると出てこれなくなる。そんな次第で、ここでは単純に平城京で市街地として長く存続したのがこの地区であることだけを覚えておこう。

その他の区画は幹線道路沿いを除けば水田に住宅が散在する田舎の風景である。農地を侵食するように住宅地が広がったのは近鉄線開通後のことだそうで、江戸~明治の頃は水田の他、綿花やスイカなどの産地として知られる農村だったという。つまりかつての首都としての面影は、長い間に大部分が失われてしまったということだ。




さて移動する予定の範囲は5km四方程度なのだけれど、歩いて回るには少々不便かと思いレンタカーを借りてみた。

……が、結論からいえばこれは大失敗だった。奈良ではこの週末、ちょうど桜が満開となっており、市内は観光客のクルマで大渋滞、もちろん駐車場も満車状態で身動きがとれなくなてしまったのである。うおお、なんてこったー。




渋滞をかわそうと路地から抜け道を探すが抜けた先もまた渋滞。うーん、奈良編は東大寺周辺からはじめようと思ったのに、これでは渋滞レポートで終わってしまいそうだ。

…そんなわけで、2時間ほども渋滞を堪能した後、予定を変更して平城宮方面に向かうことにした。…金精神の謎に迫るのはずいぶん先になりそうだな(笑)

<つづく>