2008.09.23 金精峠に道鏡の巨根伝説を追う:下野編3 (その1)
いよいよ金精峠に登りますヽ(・∀・)ノ
さて長らく続いたシリーズも今回で最終回となる。当初はこんなに長く続けるつもりではなかったのだけれど、調べだすと猛烈に奥が深いテーマで、結果的にレポートも長いものになってしまった(笑)。
しかしまあ、そこはそれである。積み上げてきた史料も結構な分量になっているし、素人調査なりにひとつの結論を出してみたいと思う。そんなわけで美しいフィナーレ?を目指して、金精峠を目指してみよう。
出発したのは午前4:30。なんでこんな時間なんだよとツッコまないで頂きたい。一応ここは旅と写真のサイトなので、せっかく行くなら朝靄に煙る戦場ヶ原を見てみようか…という趣向のつもりである。まだ紅葉には少々早いのでいろは坂で混雑することはないだろうけれど、早めに上がってしまうのに越したことはない。
さて最終回は薀蓄(うんちく)も多くなりがちで話もややこしい。書き散らしてきた伏線も拾わなければならないし、そもそも小説を書いているわけではないのでストーリーを盛り上げてオチをつけるという訳にもいかない。でもなるべく破綻のないようにまとめてみよう。
まずここでは問題整理の意味をこめて、金精神社と道鏡にまつわる伝説について振り返ってみたい。もう忘れている方も多いかもしれないが、Wikipedia による金精神社の由来は以下のようなものであった(金精神社の項より)。
由来
金精神社の由来は、「生きた金精様」といわれていた道鏡の巨根にある。
奈良時代、女帝の孝謙天皇は巨陰であったため並の男根では満足できなかった。そのため、孝謙天皇は巨根の藤原仲麻呂(恵美押勝)を重用していたが、道鏡の修法により病気が治ると更に巨根である道鏡を寵愛するようになった。しかし、孝謙天皇の崩御後、道鏡は皇位を窺った罪で下野薬師寺別当に左遷されてしまう。大きく重い男根を持つ道鏡にとって、下野薬師寺までの旅は過酷なものであり、特に上野国(群馬県)より下野国(栃木県)への峠越えはとても厳しいものであった。道鏡はあまりにも自分の男根が大きく重かったため峠で自分の男根を切り落としてしまったとも、孝謙天皇に捧げるつもりで峠で自分の男根を切り落としてしまったともいわれている。その切り落とした道鏡の男根を「金精様」として峠に祀ったのが、金精神社の始まりとされる。
うーん……何度読み直しても凄まじい話だなぁ……(笑) 思えばここから道鏡という奈良時代の僧に興味をもって調査を開始したのだけれど、案外日本史のメインストリームに絡む話で、どんどん調査のスケールが大きくなっていったのだった。しかし逆説的な物言いになるけれども、政権中枢に絡む話であったことが幸いして、歴史資料の少ない時代である割に潤沢な記録を参照することができたのは幸いだったといえる。
孝謙天皇が巨陰であったとか、道鏡が巨根であったというのが俗説であることは前回までの取材でほぼ結論が出ていると言っていいだろう。政争に敗れて下野国に下向した後、正史で悪役とされたことから主に説話集などで "女帝との色恋沙汰" が取り上げられ、次第に話に尾ヒレがついて、鎌倉時代初期の頃に俗説としての巨根伝説の原型が出来上がった。それが、どこかの時点で金精神と習合したのである。今回はそこを明らかにしていきたい。
ところで金精神社の由来にはもうひとつ重大なツッコミどころがある。それは道鏡が下野薬師寺に至るとき峠を越えたように書かれている部分が、史実として解釈するにはかなり無理がある点だ。
地図を↑再掲載して確認してみよう。当時の公道=東山道のルート上、上野国~下野国境は現在の太田市~足利市の境界付近にあたり峠は存在しない。もし日光経由で抜けるとすれば地形的に現在のR120に沿ったルートを通るのが最も自然なコースになる筈で、わざわざ峻険な山岳地を経由して遠回りする必然性はないだろう。
第一、道鏡の下向した770年当時は勝道上人による日光開山も道半ばで、男体山登頂は未完であるし中禅寺湖も発見されていない (もちろん街道など通っているはずが無い ^^;)。この状況下で上野国(群馬県)側から70歳近い道鏡がスタスタと山を越えてきたら、人生の全てを捧げて日光開山を目指している勝道上人(当時35歳)の立場がない。
つまり伝承内容の信憑性はきわめて低く、金精峠と道鏡は本来直接的な接点はないのである。
※伝承の内容が非現実的であることと、そのような伝承が存在することは別の話なので、Wikipediaの記述がただちに誤りとはいえない。
では日光と道鏡の接点はなにかというと、実は日光開山の祖=勝道上人の存在が重要になってくる。下野薬師寺の項でちょこっと出てきた彼は決して 「通行人A」 などではなく、重要な役割を担って登場している。
着目すべき点は、彼が興した山岳仏教の一大霊場=日光が下野薬師寺に比較的近かったということがひとつ。そしてもうひとつが日光開山の時期である。
ここで少し勝道の話をしたい。勝道は鑑真の開いた下野薬師寺戒壇の第一期生である。日光修験道事務局によれば戒壇設立の年=天平宝字5年(761)に27歳で下野薬師寺に入門し、鑑真大和上の高弟如宝僧都より沙弥十戒、七十二威儀を受け、更にその翌年戒壇に上り具足戒を受け大僧となったとされる(※)。下野薬師寺別院の龍興寺に在籍し4年間修行したのち765年頃から日光開山のための活動に入った。その功績を認められ789年には朝廷より上毛野国総講師に任命されている(※)。
道鏡の下野下向時には勝道は日光開山の最前線基地=四本龍寺(現・輪王寺、開山活動期は小庵に過ぎない)を建てて滞在しており、男体山の征服登頂を目指していた。二人が直接会ったかどうかは定かでない。
※日光修験道の見解では下野薬師寺の受戒が761年、762年に行われていることになり "三年に一度" の原則からは外れる。ここでは日光修験道HPの記述を尊重して内容をそのまま転記している。(沙弥十戒、具足戒などクラスが違うので矛盾しないのかも知れないが筆者はそこまでは突っ込んで調べていない)
※上毛野国総講師となった影響か、のちに勝道は赤城山の開山にも関わることになる。
さて勝道上人について語りだすとそれこそ本が一冊できてしまうので適当に端折って記すことにしたい。押さえておきたいのは彼自身の伝記より、彼が興した山岳仏教の霊場=日光山の初期の姿である。彼の一派はのちに修験道(※)と呼ばれるようになった。いわゆる "山伏" である。
彼らを知るためには前提として本地垂迹説についての多少の予備知識が要る。日本に最初に仏教が伝わったとき、その教えは日本古来の神々を否定するものとして受け止められ、政権中枢でも深刻な対立を生んだ。蘇我馬子(仏教推進派)と物部守屋(仏教排斥派)の衝突が有名だが、武力でこれが蘇我馬子の勝利に終わったのち、どちらの立場にも軋轢を生まないような説明ロジックが登場した。それが本地垂迹説で、 "カミもホトケも本来は同一のもので、現れ方がちがうだけ" という解釈で双方の立場が説明された。これによって従来は精霊あるいは神として崇敬されてきた "山" などの自然物が "仏" としても信仰される下地が出来、やがて両者は並立、融合していくことになる。
※修験道の開祖は勝道より半世紀ほど早い役小角とされており、勝道のオリジナルではない。また神道、仏教のほか中国の道教や陰陽道などの影響もあり、かなり雑多な要素を含んでいる。
日光修験道では男体山、女峰山、太郎山が信仰上重要な位置を占めており日光三山などと呼ばれるが、それぞれが幾つもの顔を持っている。
仏としては男体山=千手観音、女峰山=阿弥陀如来、太郎山=馬頭観音であり、神(※)としては男体山=大巳貴命(おほなむちのみこと)、女峰山=田心姫命(たごりひめのみこと)、太郎山=味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)である。本地つまり仏が神の姿をして現れた(=権現)状態としては、それぞれが男体権現、女体権現、太郎大明神とも呼ばれる。現れ方は違うが本質は同じであり、従来の神道的な信仰文法に則っても仏を拝するのと変わらない。従来式で不足があれば、それを仏教から補充すればよい。
勝道の理解が実際にどのようなものだったかは筆者にはよくわからないが、結果として出来上がった修験道の状況をみると、こんなところだったのかもしれない。鑑真の目指した仏教のありかたとは幾分(随分? ^^;)違うものが出来上がっていった訳だけれど、正規に受戒した仏教僧とは言え勝道の思想のベースは山岳信仰にある。彼なりの理解を通して仏教を咀嚼した結果がのちの日光の姿に反映している訳で、それを変質と捉えるか発展と捉えるかは難しい。…が、ここで扱うのは金精神の周辺に限定したいので細かいことは置いておく。
※三神はいずれも古事記に登場し、神話でも夫婦と子の関係にある。
さてその日光修験道のテリトリーは、男体山、女峰山、太郎山を中心に現在の日光市街地~横根山~庚申山~白根山の一帯に広がっていた。山域は修験の地として女人禁制とされ、一般人の入山も制限されていた。奈良時代末期から明治維新までその期間は千年あまりにも及ぶ。
この間、幾多の修行者がやってきてはここで研鑽を積み、信仰の要素を下界へ持ち帰っていった。その中にはいつの頃からか金精神信仰が含まれており、金精峠には神社が建立されて周辺地域への伝播もみられるようになった。各地に祀られた金精神の事例は既に示したとおりである。
ここで肝心なのは、元々は人跡未踏の地であって、仏教勢力によって最初に開かれ、長い間他の勢力による支配を受けなかったという特異な歴史経緯だ。つまりこのテリトリーにある主要な山や川、湖などに名前をつけたのは修験者たちであって、そのネーミングセンスは山岳仏教の信仰や用語をベースにしている。たとえば中禅寺湖は勝道の築いた神宮寺(のちに中禅寺と改称)から採られているし、華厳の滝は華厳経からきている。金精山の名前も、この延長線上で考えるべき出自なのだろう。
さて風景の話がなおざりなのでちょっと寄り道してみる。とりあえずいろは坂を越えて↑中禅寺湖畔まで登ってきた。もうあと30分ほど早ければ一面の湖面の朝靄が見られた筈なのだが…ちょっと惜しかったな。
旅と写真のサイトでは釈迦に説法みたいな話だけれど、この付近は朝靄写真のメッカである。湖畔以上に人気が高いのは戦場ヶ原で、写真雑誌にも良く載るので御存知の方も多いと思う。特に日の出の直前、トワイライトの時間帯は非常に幻想的な風景をみることができる。
無理矢理こじつける訳ではないけれど、修験の山の時代には、こうした神々しい風景は修行者たちの信仰心を呼び覚ましたことだろう。勝道は方向感覚を少し間違えて(※)中禅寺湖を "南北に長い" と捉えていたようで、男体山征服後に小船で歌ヶ浜から北(実際にはおそらく西)に向かい、現在の菖蒲ヶ浜の砂州をみて 「こんなに美しい場所なのに中国の仙人がやってきた気配もない」 などと言っている。
※沙門勝道歴山瑩玄珠碑(空海)にこのときの様子が描写されている。方向感覚を取り違えたのは空海の認識違い、あるいは伝聞の途中で誤って伝わったのかもしれない。
これがその菖蒲ヶ浜。戦場ヶ原から流れ下る地獄川の河口砂洲である。ここも靄がかかると非常にイイカンジの絵が撮れるのだけど、なにぶんシャッターチャンスとなる時間が短いのでほとんど一期一会のような撮影になってしまう。
それにしても、こんな見事な景色なのに "地獄川"というネーミングセンスはなんとかならなかったのかね。
"地獄"の他にも湖畔には仏教用語から来たと思われる地名が散見される。千手ヶ浜、梵字岩、大日崎、阿世潟、観音薙、華厳滝等々…。これらはみな修験道全盛期の遺産だ。そして現在は登山道となっている人の踏跡も、実はその大部分はかつての修験の道の跡である。
さて戦場ヶ原についた頃にはすっかり靄が引いてしまっていた。先着のカメラマン氏が何人もいたが皆装備を畳んでいる最中のようで、ちょっとばかり口惜しいw ・・・4:30で不足なら、次は3:00くらいに出てこようかしらん。
売店の自販機でコーヒー休憩の後、ふたたび西に進んでいく。
湯ノ湖付近にくるとナナカマドがすっかり赤くなっている。那須の紅葉はまだしばらく先の筈だけれど、ここではもうフライング気味に秋の足音が近づいているらしい。
湯ノ湖を過ぎると、いよいよ金精道路に入る。冬季には豪雪のため通行止めになる区域だ。
もうこのあたりは戦場ヶ原を中心とした奥日光盆地の最奥部であり、この先は白根山~金精山~温泉ヶ岳と連続する標 2000~2500m級の稜線が壁のように切り立って群馬県片品村と栃木県日光市を分断している。
さていよいよ金精山が見えてきた。
標高は2244m。古くから修験者の道のみが存在し、幕末まで一般街道は通っていなかった。ここに初めて一般人の通れる "道路" が開通したのは明治4年のことである。ただし道路といっても修験者道を多少改修した程度であって、実質的には登山道と変わらなかった。現在のようにクルマで通り抜けられる道路が開通したのは1965年になってからである。
ところで、どうしてここに "金精山" つまり マウント・オブ・チンコ などというケッタイな名前が付いたのだろう?
もちろん山岳仏教の聖地として栄えた土地のことであるから、仏教の教義に関係がある。それも山岳仏教と深い関係にある密教の要素のなかに。…そろそろ本題の話だ。
密教とは仏教の歴史のなかでも後期に現れたもので、タントリズム(Tantrism/Tantra)の要素が強い。タントリズムを説明しだすとそれこそまた本が一冊出来上がってしまいそうなので詳細は専門家に譲るけれども、簡単に言うと肉体を離れた悟りは存在しないとして人のもつ欲望を是認する思想であり、曼荼羅や印など特定のシンボルを用いた儀式や呪術を重視する特徴をもつ。
その中には加持祈祷(願掛け、招福、厄除けの類から呪詛/呪殺まで含む) など初期仏教にはなかった要素や性的な儀式も含まれている。性的な儀式って何だよ、と思われる方は 「タントリズム」 とか 「後期仏教」 で検索すると筆者よりうまい説明に到達できると思う。誤解を恐れずに単純化して言えば、性交を通じて悟りに至り即身成仏を目指すという思想らしい。初期仏教の禁欲的教義からみればコペルニクス的なトンデモ転換に見えるかもしれないが、これも紛れもない仏教の要素のひとつなのである。
これらの思想は、インドで仏教がヒンドゥ教に飲み込まれていく過程で "ヒンドゥとの混交" のような形で現れたものらしい。唐の玄奘がナーランダ僧院で学んだ7世紀には既に密教的な要素がかなり仏教に融合しており、その一部は日本にも伝わった。そして日本で求められたのは、「仏陀の思想」 というより 「効果の目覚しいクスリ」 としての密教的要素だったことは周智の通りである。大仏も然り、国分寺も然り、道鏡の建立した西大寺も然りである。
ただし性交を通じて即身成仏を……という思想はその後の日本仏教界では結果的に受け入れられなかった。真言立川流などタントリズム色の強い宗派もたしかに出現したけれど、主流にはなっていない。しかしそうではあっても平安~鎌倉時代に次々と生まれた日本の 新仏教各派は、たとえば仏僧の妻帯を容認するなど、そのエッセンスは受け取っているのである。
※タントリズムの影響が最も強く伝わっているのがチベット仏教で、仏が妃と性交する仏画などが現存する。だたこの周辺の文献は素人が読んでも 「???」 なので、実は筆者も確固たる自信を持って理解できている訳ではない。
では山を性器に見立てるという信仰は、密教の要素に含まれるのだろうか。
もちろん含まれる。タントラの発祥の地インドやチベットでは現在でも男根/女陰崇拝が生きており、それぞれリンガ/ヨニと呼ばれている。リンガは山に、ヨニは泉や川に見立てられることが多いようだ。日本では陰陽道の要素も入って温泉が女陰の象徴と捉えられており、陰陽の和合を図るために金精神がセットで祀られることが多い。これも元をたどればインドのヒンドゥ教的な要素につながっている。
その代表を挙げるとすれば、チベット西部にある↑カイラース山が典型だろう。カイラース山はシヴァ神のリンガ(男根)とされて古くから信仰の対象になっている山である。標高は6656mあり、日光の金精山の3倍あまりあって極めてワールドワイドな金精様といえる。
ヒンドゥ教のシヴァ神は仏教では大黒天と解釈される。大黒天というと日本では七福神を思い起こすことが多いかもしれないが、その実態は破壊神である。……その金精様がヒマラヤ山脈の奥地にどーんと立っている訳で、きっとその霊験も只事ではないだろう。
ちなみに日光修験道では男体山=大巳貴命(おおなむちのみこと)であるが、この別称は大国主命(おおくにぬしのみこと)であり、当て字は異なるが大黒天=シヴァ神である。シヴァ神ご本人の化身として男体山があれば、近くにそのリンガ(男根)の象徴があってもおかしくはない。
※写真はWikipediaのフリー素材を使用しています
勝道の受け継いだ仏教知識の "主要部分" がタントラ系の(特に性的な)呪術であったとは思わない。密教を本格的に日本に導入したのは最澄/空海など平安時代に入ってからの新仏教で、それまでは体系化されていない部分的知識(いわゆる雑密)があるのみである。日光の主要三山(男体山、女峰山、太郎山)もタントリズムと直接的に結びついている訳ではない。
しかし日光の山域の中にあって最奥部にある目立たない山がひとつ、当時日本に伝わった未整理の知識と信仰のひとつに基づいて名を冠せられた可能性は十分にあり、それが金精山の由来ではないかと筆者は推測している。
<つづく>