2008.10.29 日塩もみじライン (その2)
■鶏頂開拓
さてスキー場からもみじライン側に戻った。まだもうすこし行けそうな気がするので鶏頂開拓を目指してみよう。
鶏頂開拓はもみじライン沿いに拓けた開拓農地である。江戸時代に一時期人が住んでいたがやがて無人となり、戦後の食糧難のときに復員者が開拓に入り現在に至る。高原野菜などを栽培しているほか、付近のリゾート施設の従業員はここから通っている人が多い。
集落の入り口には江戸時代の灯篭や石仏などが残っている。今回は体調もよくないので深入りはしないで軽く見るにとどめよう。
開拓地は、その総面積の割りに実際に耕作されている部分はさほど多くない。
ここに写っている畑も、実際に大根が植えられているのは奥側の一角のみで、雑草やススキの生えている面積の方が広い。筆者は農業技術の専門家ではないけれども、まだ土壌の改良がうまくできていないことは見て取れる。この開拓地のある高原山塊の土は火山灰質で、とくに燐が少ない。単に耕してもモノ成りはよくない。
収穫期の終わったらしい大根畑を眺めてみる。都市近郊の黒々とした豊かな土の広がる農地とはずいぶん様相が異なる。
見れば土には大量の小石が混ざっている。振興の開拓地はどこもこんな感じだ。筆者の居住する那須塩原市の平野部も似たようなものだ。
それでも畑作が成り立つまでになった場所は良い方なのである。
元々は土中には↑写真右側に積んであるような岩がゴロゴロしていて、農業機械を入れることもできなかった。原野を開拓するというのは木を切っただけでは不十分で、こういった異物を丹念に取り除いて土を作っていく気の遠くなるような作業が必要なのである。ここでは、それがまだ道半ばであり、現在も進行しているらしい。
その一番奥まったところに、この地区の小さな墓地があった。
その傍らに、記念碑がひとつ。「鶏頂山開拓賛歌」 と書いてあり、地区の歌が刻んであった。
これが凄まじいのである。 ここを楽土と呼び、本気で骨を埋めようという人たちがいるんだなぁ・・・
戦後、かつての高原宿跡に開拓に入った人たちが築いた農地は、水にもこと欠き、岩だらけの痩せ地でとても楽土と呼べるようなところではなかった。それでも高原野菜栽培に活路を見出し、旧藤原町時代には多角化を目指し、スキー場やゴルフ場を開発して今に至る。開発の半分は失敗しているのだけれど、それでもチャレンジする心根というか根性はすごいな。
そんな開拓地にあるお気に入りのもみじが一本。せっかく来たのだからこれを眺めておかねば。
ここは毎年、燃えるようなオレンジに染まる。 周囲をカラマツの防風林で囲まれているせいか台風が直撃しても葉は比較的綺麗だ。
ここでなにか気の利いた一言でも出ればよかったのだけれど、熱が上がってきてさすがにキツいので撤退することにした。帰宅すると発熱は39℃。やはり体調の悪い時に遠出するのは良くないな、ということで綺麗なオチがないけどここまで。
※この後はおとなしく寝込みました(笑)
<完>