2009.01.03 那須波切不動尊 金乗院で護摩行を見る (その2)
■金乗院(那須波切不動尊)
さて東那須野神社からR4を越えて南に進むと、一転して明治から平安時代へと時計の針が大きく戻ることになる。クルマがすれ違うことも困難なこの細道は、かつての街道の名残である。この先に、密教寺院である金乗院がある。この周辺では最も古い時代に由緒をもつ寺院だ。
金乗院の位置を地図で示すと↑のようになる。那須塩原駅の南およそ2kmにある稲荷山(298m)の鞍部に位置し、その目前を古道が通っている。古道は大田原/石林方面と東小屋/黒磯方面を結んでおり、ちょうど地名にもなっているように、かつてここには沼があった(現在は埋め立てられて水田になっている)。
金乗院は本院と奥の院で構成されている。駅側からアプローチするとまず奥の院に到達してしまうので、そちらから紹介することにしよう。
※稲荷山は地元では峰山(みねやま)とも呼ばれている。人によっては "イナリヤマ" では通じない。
さてこれが奥の院=地蔵堂である。ちょうど修復工事中で内部は真っ暗であり、本尊の子安地蔵尊はみえなかった。
現在の建物は大正時代の築だが、金乗院の原型はここに建てられた古い地蔵堂であったらしい。由緒によると弘仁年間(810-824)に弘法大師がここに立ち寄り、霊夢を見て地蔵菩薩を祀ったことに始まるとされているが、空海本人がこの時期に下野国を訪れたとする公式記録はどうやらなさそうだ。
ただし空海は弘仁6年頃、当時の有力な僧であった徳一(会津)、広智(下野薬師寺)などの東国有力僧侶の元に弟子たちを派遣して経典の書写を依頼しているので、彼らがその途上この付近を訪れ地元の行者に講釈を垂れた可能性はある。この地に密教の種が撒かれたのがそのときだとすれば、空海存命中のことであり由緒としては極めて旧(ふる)いといえる。
金乗院は空海を祖とするだけに、当然のことながら真言宗である。真言宗における "真言" とは、諸仏や宇宙の真理などを記号化して言葉に置き換えたもので、要するに呪文のことだ。直訳すれば真言宗とは 「呪文を唱える宗派」 ということになって、その性格を理解しやすい(※かなり乱暴な解釈)
真言とはたとえば地蔵尊の場合は 「奄(おん)訶(か)訶(か)訶(か)尾(び)娑摩(さんま)曳(えい)娑婆訶(そわか)」 などと唱える。梵語(インド文字)→漢字と翻訳されて日本に入ってきており、漢字の読み方も呉音、漢音のバリエーションがある。基本は呉音らしい。
ところで、密教の出自をたどっていくとインドのヒンドゥ教にたどりつく。オリジナルの仏教、つまり釈迦の唱えた "自己研鑽と悟り" の教えが次第に変わっていったのは、祈祷や儀式を多用して現世利益に直結するヒンドゥ教との勢力争いだったと言われている。
信者を獲得するために人の持つ煩悩や欲望を肯定して入り口のハードルを下げる一方、加持祈祷系の儀式要素が極端に突出したのが密教で、そこには昨年の金精神シリーズで示したように性的な陰陽二元論なども含めた雑多な要素が含まれている。その真の奥義は限られた伝承者以外には秘密とされ、ゆえに秘密仏教=密教の異名がついた。
加持祈祷の類なんて大昔の話だろう、という指摘があるかもしれないが、現代でも行われている "開運" "厄除け" などの呪(まじな)いは加持祈祷そのものだし、お守りやお札、縁起物などもその範疇に含まれる。密教的な要素は案外身近にあって、時代は変わっても人間の求めるものの本質は何も変わっていないといえそうだ。
さて、こちらは200mほど離れた本院である。結構な人手で賑わっていて、門をくぐると無料で餅などを配っていて随分景気がよさそうだった。ここでは正月3が日は毎日、それ以外は週末に護摩行を行っている。開運/厄除けなどインドでヒンドゥ教に求められたのと同質のニーズが根強いことが伺える。
敷地内は若干バブリー(時代的に)な感はあるけれど御利益のありそうな仏のオンパレードである。これはご本尊にもなっている不動明王。
稚児を抱えてキンキラキンなのは子安観音。
そして弘法大師空海の像があり…
さらに大日堂には空海の守り本尊である大日如来が鎮座する。
そして大聖歓喜天。目立たないが密教を構成する諸仏の一要素として祀られていた。この異形の仏は秘仏として一般に公開されることはない(だから蓋が閉まっている)が、儀式としては仏像を油で煮る "油浴" の儀などが知られる。
さて護摩行について尋ねてみると、ちょうど30分後にやるという。筆者は加持祈祷の実際を見たことがなかったので、名目はなんでもいいのでひとまず厄除けということで申し込んでみた。野次馬根性と言われればそれまでだが、まあそこはそれ。
それにしても面白いのは、仏教寺院だというのに神道の巫女がお札の販売をしているところだろう。「なにゆえ仏教寺院なのに巫女さんなのですか?」 と素朴な質問をしてみたところ、昔は寺も神社も一緒だったのでその名残だとの返事が帰ってきた。うーむ。
ちなみにこの寺院の立地する丘陵は稲荷山といい、かつて金乗院は稲荷神社と習合していたことをうかがわせる。現在では稲荷社の存在感はまったくといっていいほど感じられず、どうやらこちらは明治維新以降は衰退してしまったようだ。
<つづく>