2009.02.01 ~五族協和の夢の跡~ 南ヶ丘牧場(その2)
■戦後
さて戦後の国際状況について語りだすとこれまた長くなるので、日本の負けっぷりを地図で確認するだけに留めよう。太平洋戦争開戦前の大日本帝国の領土(委任統治領含む)は↑このような広大なエリアだった。これが…
敗戦後は↑ご覧の通り。そして米軍の爆撃で社会インフラの壊滅した本土に、失われた領土や満洲から数百万人の復員者が戻ってきた。
まもなく食糧難と失業対策から全国で荒地の開墾事業が始まり、那須地域はその中でも大規模な受け入れ候補地となっていく。事業のスポンサーは戦前に満蒙開拓団を大々的に送り出した東京都だったようで、一応なんらかの責任を果たそうとしたような形跡が伺えるが、詳細はよくわからない。
那須地域における戦後の入植活動は、農地解放等GHQ政策の影響もあり旧華族農場の跡地や旧家の田畑、廃止された軍用施設、および未開拓の山林などが対象となった。岡部氏一家もこの入植募集に応募したが、条件の良い場所は既に埋まっていたようで、割り当てられたのは山裾の傾斜地(原野)でお世辞にも条件のよい土地ではなかった。それが現在の南ヶ丘牧場である。
参考までに那須野ヶ原以北の戦後入植地を↑に示してみた(出典:那須の太平洋戦争/下野新聞社 より)。茶臼岳に近い斜面は火山灰地で土地は痩せており、特に燐酸分がほとんど無く 「焼畑をして豆も育たないのはここだけだ」 などと言われたらしい。
しかし、ここで満洲の草原での経験が生きることになる。岡部氏は日本の伝統的な開拓手法ではなく、ここでロシア式の酪農を展開しようと考えたのであった。
その後は一応のサクセスストーリーということになるので詳細は社史にでも譲ることにしよう。ともかく、いまこの牧場は従業員70名ほどを要する中堅企業して成功しており、福島県にも第二牧場を広げている。大陸で零下50度を耐えたおやじは伊達ではなく強かったのだ。
園内を歩くと、開拓初期の遺物があちこちに残っていた。観光パンフレットで紹介される牧場は、かなりチャラチャラとした記事で 「楽しさ」 が全面に押し出されている感があるけれど、大人が渋く散策するには、やはりこの牧場につながる満蒙開拓の物語を知っておくべきだろう。 装飾オブジェのように敷地内に置かれた旧い荷車なども、もとは飾り物ではなく実際に使用されたものだ。
やや目立たない場所に、初代社長夫妻の銅像が建っていた。最初にこれを見たときは 「自分で自分の銅像を建てるオッサンてどうよ」 …などと思ったものだが、どうやらこれは御本人が自己顕示欲で建てたものではなく、旧開拓団関係者や付近の入植関係者の寄贈品のようだ。岡部氏=初代社長は、満洲でも那須でも開拓団の世話人のようなカネにならない仕事を率先して引き受ける人物だったようで、人望は厚かったらしい。
※ただ見川鯛山氏(那須湯元を題材とした"山医者"シリーズでローカルに有名な作家)の贈った碑文があまりに感極まった内容で、英知あふるる勇者!とかロマンの勝者!…等々とにかく派手なのには苦笑するw …書かれたご本人はこれを見て卒倒したんじゃないだろうか(笑)
さて背後で人の気配がするので振り返ると、ハム・ソーセージ館の前に人影が。
…ウホッ、この真冬にソフトクリーム目当てで来ているお客さんなのか!?
ソフトクリームもいいけれど、筆者的にはやはりロシアの黒パンが密かにポイントが高い。我々がよく目にするイースト発酵のパンではなく、ドロジーというパン種(天然酵母)を使ったものだ。満洲の開拓村では潰した馬鈴薯とホップ(麦)を混ぜて培養したものを濾過して使ったらしい。有名シェフに弟子入りして伝授してもらったものではなく、辺境の農家のおばちゃんに習ったという点で正真正銘のホームメイドの一品である。
せっかく来たので放牧場も見てみるか…と思ったけれど、馬も牛も羊も見当たらない。どうやらみなさん畜舎のほうに引っ込んでおられるようで。
ツンドラほどではないけれど、凍った大地。靴で踏むとシャリシャリと音がした。
それにしても…キミたち、ここが那須で良かったねぇ。満洲だったら今頃零下50℃でバナナ釘の世界だよ。
■ペチカの前で
さて、いいかげん腹も減ったので食事といこう。冬季は客が少ないのでレストランは小さいほうの建物(旧い農家の改装移築らしい)でのみ営業している。希望すれば宿泊もできるそうだ。
中はこんな感じである。椅子もテーブルも天然木のフルスクラッチでなんだかワイルドだ。先客は3組ほど。数は少ないけれど、来る人はいるんだな。
ここの暖房はペチカである。よくある "もどき" ではなく、本物の薪で暖をとるヤツだ。重厚な石造りの暖炉に、太い薪をゴロンと並べてパチパチと燃やしている。煙は壁の中の煙道をめぐって部屋全体を暖めるように作られているようで、時々係員氏がやってきては、薪をひっくり返していく。
ちょうど暖炉の前の席が空いていたのでそこに陣取ることにした。
せっかくなのでまずは濃い~牛乳をくはーーーっと飲み干し…
とりあえずボルシチセットなどを食ってみることにする。
ボルシチの赤色はトマトなどではなく赤根テンサイ(テーブルビート)に由来するものらしく、サワークリームを入れて食べるのが本場のお作法らしい。これが旨いのである♪
こちらはペロシキ。一般的には "ピロシキ" だと思うのだが、ザバイカル・コサックの連中には多少の訛(なま)りがあったのか、三河の日本人開拓民には "ペロシキ" の発音で理解されたらしい。一言でいえば惣菜パンで、本場ロシアでは焼くタイプと揚げるタイプがある。日本で一般的なのは揚げるほうで、ここで出されるのも揚げパン式だ(…というか、筆者は焼いたピロシキは今まで見たことがない)。 味は洋風ギョウザといったところだろうか。そのままファーストフードに出来そうな感がある。
そして黒パン。ザクっとした食感で、硬く "みっちり" 感のあるパンだ。店の人曰く 「ミルククリームをたっぷりつけて食べると美味しいですよ」 とのこと。黒パンは酸っぱいと言う人もいるけれど、ここの黒パンはそんなことはない。もしかしたら日本人向けに多少のアレンジは入っているかもしれない…が、筆者はグルメ評論家ではないのでロシアンな雰囲気が味わえて腹が膨れればとりあえずOKである。
一通り食べ終えて、食後はコーヒーでゆったり。
窓の外には舞い散る雪。ペチカに萌える…いや燃える炎をゆらゆらと眺め、静かなる時を過ごす…。なんだか、もの凄く贅沢な時間のような気がした。下手なBGMなどが流れておらず、遠くに聞こえる風の音と、ときどき聞こえる薪のパチパチ弾ける音だけが静かに聞こえてくる。これが実にいい。
こんな雰囲気を手軽に味わえるのも、ここが入場料をとっておらず誰でも敷地内に入れるからなのだが、これには初代社長氏の哲学があるらしい。曰く、国立公園内で酪農を営む者がそのような行為をするのは適当ではない、お客様に非礼に当たるとのことである。……このセリフを聞かせてあげたい観光事業者には心当たりが沢山あるけれど、そこは大人の対応で黙っておくことにしよう。
それにしても、こんな (…と言っては失礼なのだけれど) 地元民にしてみれば当たり前のように存在している牧場ひとつにも、その背後には実にダイナミックな歴史というか、積算した物語があるのだなぁ…。
那須近郊の開拓史には、江戸期の用水路開削の試み、明治初期の華族農場時代、そして戦後の復員者による開拓と大きな波が3回ほど訪れている。その戦後から現在に至る第3の流れを理解するには、どうしても第二次大戦の前後を知る必要があるのだけれど、手を伸ばせば届くようなその時代を筆者の世代は驚くほど知らない。
敗戦、占領という経験を経て、意図的に消されてしまったその時代の残照のようなものが、ここにはほんの少しではあるけれど残っているような気がする。そんなことを思ってみた冬の午後だった。
<完>
■あとがき
半日ドライブで飯食っただけなのにここまで引っ張るかよ、とツッコミを受けるかもしれませんが(笑)、調べだすと結構面白いもので "教科書に無い昭和" の一面を見ることができたような気がします。満洲国は結局国際連盟では承認されず、それを理由に日本は連盟を脱退するのですが、日ソ不可侵条約では満洲国の存在を認めた上で内容が批准されていたりして "建前と実際" は相当違っていたような印象があります。
さて五族協和のスローガンの中に露人というのは含まれていなかった(→数が少なすぎて)のですが、のちに南ヶ丘牧場を開く岡部氏の入植地=興安嶺を越えたモンゴル平原側は、奉天/新京といった都市部とちがって遊牧民や酪農民の世界であり、日本人開拓団と最も付き合いの深かったのがロシア人集落でした。それは一般的な満洲のイメージ(="中国"の東北部)とは随分違った広大な草原の文化圏です。戦後の那須にあって最も過酷な土壌条件の土地でそのロシア式の酪農が有効だったというのは、物語としても農業経営論としても大変おもしろい事例のように思えます。
【戦後の状況】
さて戦後、日本人が一掃された三河の農地は無人の草原に戻ったといいます。"無人の" というのは実はロシア人も居なくなってしまったからです。満洲を占領したソ連軍は日本人兵士をシベリアに連行して強制労働に使役しますが、同時に三河のロシア人達をも連れ去りました。彼らの行き先はドイツから分離したオーストリアで、ソ連は新たに占領した東欧諸国にスラブ民族系の住民を入植させることで人口比を変え、影響力を強化することを目論んでいたようです。
…こうしてみると、あの三河(サンガ)という草原の地で露人と日本人が出会って共有した10余年の月日というのはまさに一期一会のような貴重なものであって、その結果いま那須山麓に黒パンとペロシキが伝わっているというのは奇跡のようにさえ思えてきます。なんともスケールの大きな物語なのですね。
現在では南ヶ丘牧場は経済的に成功し、南ヶ丘以外に磐梯、山形、岩代に牧場を開墾しています。筆者はこのうち磐梯に行ったことがありますが、猪苗代湖畔から数キロほど無人の原野を通った先に開けた牧場は那須の農場よりも広く、牧場に至る林間の砂利道には無数の桜が植えられていました。もちろん入場は無料で、ロッジのメニューはロシア料理。やはり、哲学としてなにか確かな一本の芯が通っているような印象を受けます。
ところで "満洲国" というと、なにか日本の暗黒時代のような宣伝や報道が繰り返されていますが、世界恐慌で米欧がのきなみ低成長に喘いでいた中で高度成長を続けたノウハウは、満鉄をはじめとする日本人の創意工夫の結晶でもありました。実は戦後日本の復興~高度経済成長を支えたのはこの満洲から引き上げてきた人脈によるところが大きいのですが、今回は牧場の話なのでそのへんは割愛しておきましょう。
最後に、本編を書く当たって多くを参照した書籍 「三河その青春の碑」 から、著者の古澤敏雄氏の後書きを一部引用しておきます。
戦後、満蒙開拓事業については、日本の大陸進出の片棒を担いだ行為であり全く無意味かつ悲劇の歴史であったとの観念が一般に定着しかけている。これは満蒙開拓の背景となっている満洲国の建設そのものに対する評価とも一致する観念である。しかし現実に存在した歴史的事実を後世より一定の政治的観念を以って論評しこれにひとつの判断を下すことは許されることだろうか。歴史はその創成に加わらなかった後世の人々の論評判断に関係なく、それ自身の力で厳として存在する実在なのである。私共が歴史に対するときに必要なのはこうした政治的観念という偏った眼鏡でこれを見ることではなく、歴史的事実そのものを知り、学ぶという態度なのである。筆者は現在滔々とした風潮の如くに流れているこうした政治的観念のために、私共後世の者にとって必要な歴史的事実そのものが蔽いかくされたまま消し去られてしまうことを何よりも恐れる。
これが書かれたのは1976年ですが、21世紀の今でも通用する含蓄のある文章です。当時は戦前の日本を全否定し諸悪の根源のように言う論調がいわゆる "進歩的文化人" を中心に幅を効かせていました。現在でも日本の言論界(新聞、TV報道含む)は実態としてこの延長線上にあるように思えますが、話が生臭くなるので詳細は控えましょう。
そんな日本悪玉論も、ちょっと近代史を紐解いてみればツッコミどころは山のように出てくるもので、その検証を容易にしたインターネット等の検索インフラは現代を生きる我々にとってやや遅れてきた福音と言えるかもしれません。
<おしまい>