2009.03.27 雪の信越線:直江津~妙高高原~長野(その1)
直江津から長野まで信越線でのんびりと揺られて参りましたヽ(・∀・)ノ
急な用事で北陸に入り、帰路がちょうど休日に当たったので鈍行で山岳路線に揺られてみようかと思い立った。時間優先ならほくほく線で越後湯沢に抜ける方が早いのだが、時間が許すなら信越線で長野に抜けて新幹線に乗り継ぐというのも悪くない。この日は移動だけで時間には不自由しなかったので、この時期に妙高高原で山を眺めるのも一興だろう…という程度の軽いノリで出かけてみた。
とはいえこの路線は残念ながら2時間に1本くらいのダイヤで、そう頻繁に下車する余裕はない。そこで最も山奥?の妙高高原でちょっとばかり散策して、あとは直江津と長野をチェックすることにした。事前準備はなにもない。とにかく行くだけ行ってみよう。
なお、直江津、妙高高原、長野ともそれぞれ趣の異なるところなので、レポートは短編3分割でお送りしたい。
■直江津
直江津は今年の大河ドラマ 「天地人」 の序章における舞台である。上杉謙信の所領=越後国にあって直江兼続が整備した港町とされるが、かつては今津と称した。日本海側の拠点港としての歴史は古く、奈良~平安時代に遡る。かつては越後国の国府がおかれた。
現在の新潟県都=新潟市近郊は戦国期以前は広大な湿地帯で、拠点都市/港湾としての機能は直江津のほうに集中していた。特に奈良~平安時代は温暖化の進んだ時代で海水面も高く、新潟平野は遠浅の海である。よって越後国の領内では平野、港湾、河川の揃った直江津で海路と陸路が接続することとなり、交通の要衝となっていた。そういう経緯からみると、直江津の発展は時代の下った直江兼続の功績というよりも、まず奈良時代にここに国府を置いた律令の官僚たちに負うところが大きいかもしれない。
ちなみに日本の古代の港湾の多くは、河口港である。直江津は関川の河口にあたり、ここが天然の掘込式港湾として利用された。また関川の穿った渓谷を遡れば妙高高原を経て長野ににつながり、そこから東山道に抜けることも可能である。特に長野に抜ける陸路としては新潟平野から長岡~十日市~飯山を経由するよりはるかに短距離であり、都と東国を結ぶにはこちらのほうが有利であった。
さて写真は本稿の↑前日夕刻、直江津駅前の様子である。駅から海岸までは800mほどで、住宅街の向こうには日本海が見えている。用件が済んで宿に入った頃にはもう日が暮れて明かりがぽつぽつと灯っていた。…空模様は素敵な曇天である。暖冬のためかもうすっかり雪の気配はない。
しかしこの日、発達した低気圧が通り過ぎていったことで夜半になって雪が舞い始めた。夜中にTVをつけてみると静止画像で延々と天気予報と県内各地のお天気カメラの映像を流しているチャンネルがあって、どうやら山岳部は大雪注意報が出ているようだ。
そして翌朝5:30… おお、世の中が白くなっている…♪
朝食の前に一丁市内電撃観光でもしてみるか…と午前6時前に外に出てみた。あたりは北陸特有のシャーベット状の雪が "でろんでろん" になっていた。これは道路から水を撒いて融雪しているせいだ。
この中をまともに歩くにはブーツ状の完全防水シューズが最適なのだが、今回は公用で来ているのでそんな装備は持っていない。そこで多少の出費は覚悟してタクシーを拾うことにした。といっても田舎では流しのクルマなど期待してはいけない。こういう時は駅前で客待ちしているタクシーの運ちゃんに声をかけるのである。しかし…みんな熟睡していて窓をコンコンやっても起きてくれない。
それでも5台目くらいの運ちゃんは目を覚ましてくれ、ようやく足が確保できた。こんな時間に乗る客なんて普通はいねーよ、などと言われるかと思いきや意外と愛想はよい。…さて、かるく行ってみようか。
■安寿姫と厨子王丸の供養塔
さてそんな訳で早朝から尋ねてみるのは、直江津駅からほどちかい 「安寿姫と厨子王丸の供養塔」 である。話題性という点では直江兼続を追いかけるのがスジかも知れないが、筆者は最近の軟弱大河ドラマを見ていないのでなんとも食指が動かない。 聞いてみると運ちゃんもあまり見ていないようで、「まあ御館の乱が終われば、もうここは舞台じゃありませんからねぇ」 などと 飄々としていた。
※御館の乱とは謙信亡き後の上杉景勝/景虎の相続争いで、ドラマ序盤の山場である。天地人は関ヶ原を経て米沢転封まで続く話で、舞台は次々と変わって多くの観光地がそこにぶら下がる…というとミもフタもないのだけれど、NHKもなかなか商売が巧いものだなと思わざるを得ない。
話を 「安寿姫と厨子王丸の供養塔」 に戻そう。最近の子供は "安寿と厨子王" の物語など知らないかも知れないが、日本の昔話のなかでは定番中の定番である。子供向けの絵本にもなっているので日本人なら一般教養として知っておきたい。
江戸時代には既に浄瑠璃などの演目になっており、物語の成立は中世(鎌倉~室町時代)と言われる。話の元となった歴史的事実があったかどうかは定かでないが、物語ゆかりの各地には史跡が残り様々な民間伝承が伝えられている。直江津では直江津港脇の関川河口に供養塔が残っている。
ここで安寿と厨子王のストーリーを簡単に説明しておこう。物語は900年ほど前の平安時代中期、岩城(現在の福島県いわき市)郡を治めていた岩城判官正氏が讒言により官位を剥奪され一族とともに筑紫(九州)に流罪になったことに始まる。正氏の妻子は冤罪を晴らそうと京都を目指すが、直江津から船に乗ろうとしたところで人買いの山岡太夫に騙されて子供の安寿(姉:14歳)と厨子王(弟:12歳)は丹後国の山椒太夫に売られ、母は佐渡に売られてしまう。船が出港した後、親子の船が別々の方向に離れていくのを見て騙されたことを悟った安寿・厨子王の姥・竹は嘆きのあまり船から身を投げて死んでしまう。
丹後国の由良湊に連れてこられた安寿と厨子王は奴隷として働かされるが、姉の安寿は自らを犠牲にして弟の厨子王を逃がし、自らは沼に身投げして死ぬ。厨子王は国分寺の和尚のもとに逃げ込んで身を隠した後、京に上って役人として出世する。そして父の汚名を晴らし、山岡太夫、山椒太夫らを討ち取ったのちに佐渡の母と再開するのである。
雪のなかを関川河口に向かうと、海沿いの一角に塚があり、供養塔が大小三基並んでいた。説明書によると、ここは身投げした姥竹を土地の者が憐れんで供養したのちに、さらに安寿の死を知って隣に小さな塔を追加したものだという。三基目が誰のものなのかについては記載がなく、不明である。
塔の形式は五輪塔で、墓石の形式としては平安時代まで遡るため建立時期は少々特定しにくいが、風化の具合からみて江戸時代頃の作のように思える。小さい3基目はもしかすると代替わりした古い供養塔だろうか…?
…よく見ると、供養塔にはまだ新しい生花が供えられていた。誰が置いていったものかは知る由もないが、もはや史実か創作かの垣根も曖昧になっている古い物語に対してこうして供養塔が建てられ、維持管理されている…。
地味ではあるけれど、なにかとてもあたたかい景色のように思えた。
■芭蕉の句碑
さて安寿と厨子王の供養塔に隣接して琴平神社があり、芭蕉の句碑が建っていた。奥の細道の道程、松尾芭蕉がここを訪れたのは元禄二年(1689)7月のことであった。芭蕉がわざわざ安寿と厨子王の供養塔を見に来たかどうかはよくわからない。碑は何度か火災に遭って焼けており、現在のものは慶応年間(幕末)の建立という。
文月や 六日も常の 夜には似ず
…と書いてあるのだけれど、濡れているせいもあって判別はちょっと難しいな。 この句は七夕の前夜を詠ったものといわれ、作は元禄二年(1689)七月六日とされている。句意は "七夕を前にして前日の六日の夜も普段とは違った趣があるものだにゃん♪" といったところだろうか。何故に七夕当日ではなく前日?…という気がしないでもないが、どうやら芭蕉はこの日に付近の俳人に招かれて句会に参加したようで、この句は連歌の発句として詠んだものらしい。
それにしても、筆者の居住地である那須近郊に立ち寄ったのがこの年の4月初旬である。松島を経由して遥々3ヶ月以上かけて芭蕉はここ直江津にたどり着いたということになるが、いい歳こいたおっさんの筈なのに、もの凄い健脚だな。
さて芭蕉よりは遥かに若い筈の筆者だが…このシャーベット状の雪で足元はかなりおぼつかない。 やはりこの靴で歩くのには厳しいというか、いつものトレッキングシューズを持参すればよかったな。
■日本海
関川の河口から少々西よりに移動し、せっかくなので日本海を撮ってみる。湿った重いボタ雪がもりもり降ってくる中、公園のような一角に入ってみたのだけれど…やはり視界は効かない。
荒れる日本海どどーん! …やはりこういう景色には、ハードボイルド映画の独白場面なんかが良く似合う。恋に破れた女がコートの襟を立てて一人さまよい歩くシーンなんかにもぴったりだ。孤独、失意、挫折、そして逃避行…この季節の日本海には、そんなイメージがよく似合う。
しかしタクシーの運ちゃんに同意を求めたところ 「そりゃ偏見ですよ、晴れた日にはいいところです」 と逆にツッコまれてしまった。…いや、いいんだけどね(笑)
■府中八幡宮
海岸道路を1kmほど進んで駅のほうに転進し、ヨーカ堂裏にある府中八幡宮にも寄ってみた。ここは越後国の総鎮守社であり創建は養老年間(奈良時代初期)にあたる。直江津は当初は越中国に含まれていたが、府中八幡宮建立の頃には越後国に組み替えられ、以後国府が置かれることになった。おそらくは当時、ここより以北に国府を置くに足る拠点都市が存在しなかったための措置だろう。
しかしそんな由緒ある鎮守の社も、現在ではすっかり俗世の空間=駐車場に様変わりしていた。本来ならもっと長く延びていた筈の参道もヨーカ堂によって潰されてしまっており、歴史ある古社の割には寂しい状況である。
さて前にも触れたが平安時代の海面は現在より数m高い(→平安海進)。試しに50mメッシュのMAPに5mぶん(ちょっと過剰に)のオフセットを乗せてみると↑このようになり、現在の市街地付近が大きな入り江になっていたことが分かる。
府中八幡宮、安寿と厨子王丸の供養塔は、この湾の出口に突き出した岬の上に建っており、入出港する船を見守るような位置関係にあった。なるほど、こういう地形なら冬季の日本海の荒波からも停泊中の船を守ることができ、それを守る鎮守としての八幡宮がここに建っていることも納得がいこうというものだ。
湾の水深は八幡宮付近が最も深く、東端側は海というよりは湿地帯だったように思われる。ちなみに浅い部分の現在の地名は大潟町といい、かつて干潟であったことをうかがわせる。
※平安海進についてはまだ諸説あるようで、+50cm~+5mくらいの説が入り乱れている。江戸時代頃になると寒冷化が進んで海水面が徐々に下がり、現在の海岸線に近づいたと言われている。
それはともかく、拝殿を見てみよう。屋根の作りがいかにも雪国仕様らしい急勾配なのが面白い。呪術的には春日山城の鬼門を固める位置関係にあり、上杉謙信もここを崇敬していたと解説にある。直筆の扁額の奉納もあったらしい。
神仏混交時代の特徴として、ここにはかつて千手観音を祀る "岡前寺" という仏寺が神宮寺としてセットになっていた。しかし御館の乱で岡前寺は焼失し、以後は八幡宮だけが存続して現在に繋がっている。毘沙門天の再来を自称した謙信が存命していれば寺の再興もあったかも知れないが、既に時代は変わっており、残念ながらそのような展開にはならなかったようだ。
境内にはやはりというか 「天地人」 の幟が立っている… うーむ、やはりNHKの影響は大きいな。そのNHKの差し金という訳ではないだろうけれど、日本のご当地ヒーローというのは大抵は戦国期の武将で、越後にあっては上杉謙信が絶大なる人気を誇る。
可哀想なのは上杉氏が米沢に転封となった後の領主:松平忠輝で、現代まで続く直江津~高田の地割りや城、町普請などをこなした割に、謙信ほどの人気を得られないまま地味に没している。やはり歴史に名を残すのは派手な戦争で活躍した武将のほうが有利ということだろうか。
…と、ここで時間がなくなった。今回の旅は信越線のダイヤで使える時間が決まってしまうので、ちょっと名残惜しいけれどこのあたりで切り上げよう。本来なら直江津は春日山城や親鸞伝説(実はここで流罪生活を送っていたりする)、五智国分寺など見所が多いのだが・・・まあ早朝に行ける所というとどうしても制限が出てくる。まあそのへんの掘り起こしは次の機会に譲ることにしたい。
さて駆け足でタクシー行脚をして戻ったのは午前7時少々前。宿の朝食を済ませて駅に向かう。長野行きの列車は8時である。それを逃すと次は2時間半待ちの10時半……乗り遅れる訳にはいかないのでそそくさと駅に向かった。
……雪は相変わらず降っている。大丈夫かな、信越線は。
<妙高編につづく>