2009.03.28 那須基線:縦道を行く(その3)
■その先にあるもの:千本松牧場
さて普通の那須基線の紹介記事ならここで終わってしまう (終わりにしても良い) のだけれど、花鳥風月的にはそれではつまらないので、もう少し先に進んでみたい。
実は縦道の直線は観象台を過ぎてなお、北北西に向かって5km以上伸びている。それは千本松牧場を縦貫し、さらに戦後開拓された 「日の出開拓」 の機軸線にもなった。那須基線測量の際に草木を刈り取った区間は南北の観象台を結ぶ10.628310589km(寿限無寿限無…みたいだなw)の区間だったが、のちにそれが開拓道路に転用されると、すぐ北に隣接する千本松牧場(松方農場)にもそのまま延長して機軸道路として機能したのである。牧場内には現在もこれを基準とした碁盤の目状の道路が走り、ローカル区画の境界となっている。
千本松牧場の碁盤の目はホウライCC、西那須野CCとも連続しているが、これらのゴルフ場は千本松牧場を経営する(株)ホウライの傘下にあり、ともに旧松方農場の敷地を受け継いでいる。また日の出開拓も戦前はその敷地の一部であった。
週末ということもあり正面玄関付近の駐車場は一杯だったので、少し奥まったサイロ近くの駐車場にクルマを止めた。何も考えずに走っているとなかなか気がつかないが、ここはもう一辺=580mの巨大なマス目で区切られた碁盤の目の内側である。
ここから見える桜並木の歩道が、縦道(→正確には延長部分なのだが面倒なので縦道で統一したい ^^;) である。現在ではレストランや土産物屋の並ぶ一角からサイクリングロードの一部として延びている通路だが、ここがかつての牧場のメインストリートであった。南側から縦道を四区、三区、二区、一区…と北上してくるとそのまま牧場の敷地に正面からつながるとは、さすがは内閣総理大臣松方正義というか、実に堂々とした造りで牧場を普請した形跡が伺える。
あと2週間もすればここは桜でいっぱいになり、観光客も数多く訪れる。しかしここがかつての開拓道路の一部だったと知っている人はどれほどいるだろう……実際のところ、ほとんど居ないんじゃないかな。
そんな観光エリアを抜けて 「どうぶつふれあいひろば」 と称する畜舎を過ぎると、縦道は100年前にタイムスリップしたかのような未舗装道路の顔を見せ始める。化粧を落としたすっぴんの姿…と言うと語弊があるかもしれないが、未舗装であった往時の雰囲気が偲ばれる。
さてこの先の牧草エリアは一般人がクルマでひょいと入れる場所ではないので、迂回してホウライCCの北側に回ってみることにしよう。縦道はゴルフ場の中をも直線状に突き抜けている。その先は日の出開拓のエリアだ。
■日の出開拓
ゴルフ場北端に回ってくると、縦道は割としっかりした作りで抜けてきていた。ここは裏口の通用門のようなもので、造りは簡素だが現在でもちゃんと道路として機能している。周辺は赤松を中心とした雑木林である。
さてここからはいよいよ縦道の終端に近い日の出開拓に入る。もとは千本松牧場の所有地であったが、耕作するには条件が厳しい痩せた土地である。明治以来の開拓事業においてもずっと山林のまま手付かずだったが、太平洋戦争末期になると食料増産のためそのいくらかが伐採されてサツマイモなどが植えられていたようだ。
ここで本格的な開拓が行われたのは戦後の食糧難の時期、復員者を中心とした入植が始まって以降のことである。身一つで原野にやってきた人々がせめて明るく希望をもてるようにと、この地区は 「日の出」 と名づけられた。
しかし開拓事業は一朝一夕には成功せず、木を伐採し根株を掘り、石を除いて "土" を作るだけでも大変な労力であったという。しかもここには水がない。飲み水にも事欠くこの地にようやく簡易水道が引かれたのは敗戦から14年も経った昭和34年のことで、それまでは関谷などの近隣集落や山裾の沢まで水を汲みにいく生活が続いた。
水の問題があったためここには水田などは拓かれず、一面の牧草地となって乳牛/養豚などの畜産農家が林立する開拓形態となった。塩原から那須方面に抜けるとき県道r30(矢板那須線)を通ると、途中に広大な牧草地の広がるエリアをみることになるが、そこが日の出開拓である。
スタート地点=観象台南端からずっと縦道の正面に位置し続けている鴫内山も、ここまで来ると見上げるような山容となって目前にそびえ立つ。冬季、ここから吹き降ろす風は強く樹木がなぎ倒されることもしばしばである。最近では春一番で桜並木が倒されたが、そんなことではこの地の人々は動じない。
縦道沿いに、「日の出集落センター」 なる施設があった。公民館と公園を兼ねたもので、子供たち向けのちょっとした遊具なども整備されている。伝統的なの村落の文法に則れば "寄合所" に相当するものだ。
戦前であれば、こういう場所には間違いなく村の鎮守が祀られたことだろう。しかし戦後に造成されたこの開拓村では、ついに住民の心の拠り所となる神社仏閣がつくられることはなかった。そういう意味では戦後に形成された集落の典型ともいえ、GHQによる思想政策の根深さを感じてしまう事例ともいえそうだな。
…が、それで日本人の魂が鈍(なま)ったかといと、実はそうでもない。集落センター敷地内には開拓の碑が建っていた。ちょうど戦後20年にあたる昭和40年(1965)に建立されたもので碑文は裏面に刻まれている。読んでみよう。
国破れて山河あり。大東亜戦争の終結にあたり戦禍に追はれて裸一貫となり居を失ひし我々を慈母のごとく迎へしここ関谷の原野に集ひよる同志四十六戸、粉骨砕身鍬をふるふこと二十星霜、鍬の響きもいつしかエンジンの轟きと変り、入植時幼なかりし子弟もはや健やかに成長をとげ、祖国再建の礎石たらんと念願せし我々初代入植者の使命は今まさに達成せられんとするにいたる。
この秋にあたり 「初心不可忘」 (しょしんわするべからず) の一しほ宣なるを痛感し祖国ならびに大方の鴻恩に感謝の誠を捧げ、かつ亦子孫繁栄の祈をこめてここに先哲の訓とともに初代同志の名を刻んでこの碑を建立するものなり。
・・・なんというか、そのへんの国籍不明のお花畑言論人どもよ、このおぢさん達の爪の垢でも煎じて飲んでケツカレ!的な想いが読み取れる。これが書かれた昭和40年(1965)といえば学生運動の盛んな時期であった。しかし革命を叫んで火炎瓶を投げていた若造がいた一方で、こうした地に足のついた世代が実社会を支え、日本の復興を担っていたことはもっと真面目に評価されてもいいんじゃないだろうか。・・・おっと、道路の話からはちょっと逸れるな。
さて集落の中心を過ぎてr30を横断すると、そろそろ縦道も終端が近い。あたりは乳牛農家の平和でウシ~な風景が広がっている。
ウシ~のついでに紹介しておきたいのだが、実は那須塩原市は生乳産出額では本州第1位である。市域の構成は大雑把にいって那須疎水の南側が米作エリア、北側が酪農エリアなので、この日の出開拓を含む幅6km長さ16kmの帯状の区間が猛烈に牛乳を産出していることになる。酪農家の皆さんご苦労様です。
そしていよいよ目前に迫る鴫内山。
ついに開拓地の碁盤の目の最奥に達した。ここで道路としての縦道は尽きており、その先は農家の庭先に通じる若干の砂利道が延びている。むむ、ここも一応直線だぞ…
おそらく私道と思われる砂利道の直線部分はおよそ40mほどあり、その終端部がここである。突き当たりにあるのは牛舎で、酪農王国らしいゴールといえばその通りなのであった。ひとまず、花鳥風月的にはここを縦道の最終ゴールと認定したい。
さて…果たしてこの農家の住人氏は、自分の庭先が那須野ヶ原を縦貫する "長大なる直線" の終点にあることを知っているのだろうか。多少の興味を持ってみたけれど、質問しようにも周囲には暇人そうな人影はなかった。うーん惜しい。
…ということで、レポートはここまでとしたい。ちゃんちゃん。
<完>
■あとがき
那須基線については、興味のある人、ない人で話をしても反応が違いすぎて、なかなか意味のある会話というのは成り立ちません。たいていは 「なにそれ?」 という状態で、説明をしても 「ふーん」 で終わってしまいます。だいたい道路が真っ直ぐだから何だよ、というのが一般人の感想ではないでしょうか。
しかし日本の測量史の中ではこの那須基線の測量というのはかなり重要な位置を占めています。伊能忠敬以来の近代的測量技術の習得における実習の場として、また日本の正確な地図作りの基準を決める試みのひとつとしてその価値はもう少し一般の方に知られてもよいだろうと筆者は考えています。
那須野ヶ原が基線測量の候補地に選ばれたのは、言うまでもなく平坦な地形と、障害物となる樹木/市街地などがほとんどなく、見通しが良かったためでした。そして測量そのものは約3ヶ月で終了するのですが、視界を確保するために草や樹木を払った後の直線路が開拓道路として転用されていきます。草地試験場、千本松牧場北部、ゴルフ場など一般人が道路として利用しにくい区間はあるものの、その総延長は15.7kmに及ぶ真っ直ぐな道として現在も那須野が原を縦貫しています。(※千本松牧場の部分は測量後に延長されたものと思われますが)
測量の拠点となった観象台は、調べた限りでは具体的な高さがよくわかりませんでしたが、10km以上遠方から視認できる格好の測量目標として機能し、特に北端側はR400(赤田山方面/関谷集落方面とも)、那須疎水、千本松牧場内道路(縦道延長線部分) が一点に集中するという得意な場所となりました。現在残っている "モニュメントとしての観象台" は小さな塚に過ぎませんが、地図をよく眺めるとその存在意義の大きさがよくわかります。
ところで、目で見て分かりやすいのは道路の "直線性" ですが、技術的には "距離精度" が重要でした。基線測量で用いられたヒルガード桿は長さ4mの金属棒で、これを物理的に当てがいながら10km以上の直線を計測するというのは気の遠くなるような作業だったと思われます。材質は伸縮の少ない合金で出来ていたようですが、それでも熱膨張を考慮して温度計を確認しながら補正をしていかねばならず、これで5kmあたり1mmの誤差という制度を保証したというのはかなり驚異的です。お雇い外国人の指導があったとはいえ、江戸幕府が倒れて10年ばかりの時代でこの測量を実施できたというのは地味ながらも記憶にとどめるべき実績のように思われます。すごいじゃないですか、文明開化期の先人は!
【おしまい】