2009.05.09 喜連川の歴史を歩く (その3)
■旧市街
喜連川の市街地は奥州街道=r114に沿って1kmばかり続いている。しかし現代に至っては自動車用に道路も拡張され民家も近代然としてしまって、かつての雰囲気は望むべくも無い。
喜連川宿では本陣(大名クラスが宿泊するVIP施設)が固定しておらず、たびたび変動した。財政難対策で御所様が本陣を名乗る権利(本陣株)を入札制にして収入源のひとつにしたためだが、以前取材した大内宿のように 「これが本陣だ」 と一発でわかる建物がみあたらない。郵便局前にある "町の駅" というのが末期の本陣の跡地らしいのだが、今回は未確認である(なにしろ大急ぎで突っ走っているので)
しかしそれでも狭い脇道の奥には、かつての面影がささやかに残っている。クルマで進入すると狭くて大変なのだが、なにしろ400年前の町割りなのでこればかりは我慢するしかない。
荒町寄りの脇道に入り少し進むと、笹竹による垣根…鼈甲(べっこう)垣が見えてくる。これは6代目藩主:喜連川茂氏が家臣の家の塀が板で作られていたのを見て、板ではそのうち腐って補修費が大変であろうと笹を植えさせたというものである。ずいぶんセコい発想のように聞こえるけれど、喜連川藩は下手に格が高いために5000石で十万石並みの体裁を整えねばならず、財政の厳しさからそんな節約策にまで手を伸ばしたらしい。
ちなみに5000石というのは米750トンほどに相当する。これを最近の米価で換算するとおよそ1億8000万円相当となり、現在の感覚だと社員15名ほどの中小企業くらいの経営規模だろうか。これではとても領国経営とか10万石の格式を保って他大名とお付き合いどころではない。
その貧乏藩の収入を助けたのが、奥州街道の宿場としての立場だった。特に東北の大藩:仙台伊達62万石は参勤交代で通過する際、ここ喜連川に貴重な現金収入をもたらした。仙台候くらいの規模になると大名行列は2500人にも及んだそうで、これはなんと宿場の人口(天宝14年で1900名余)よりも多い。上得意様なのである。
喜連川宿の旅籠は最盛期で29軒ほどで、周辺の茶屋に臨時宿泊したとしてもそんなに泊まれるものなのか…と不思議な気がするが、これには多少のからくりがある。大名行列は家格による人数規定を満たすため、道中で臨時のエキストラを調達することが多く、宿場では額面どおりの人数が全員宿泊した訳ではないのである。遠方の大名はおおよそ関東に入るあたりまでは少人数で移動し、江戸が近づいてから昼間だけ体裁を整えていたようだ。喜連川付近ではまだエキストラの調達には早かったかも知れないが、それでも参勤交代の行列は大口顧客であることに変わりはない。
真偽のほどは定かでないが、御所様は大名行列が近づくと宿場の入り口でニコニコしながら立っていて、素通りされないように愛想を振りまいていたと伝えられる。今風に言えばトップセールスによる営業活動といえるだろうが、経費節減したい大名側にとっては義理と格式と懐具合で悩ましい風景だったに違いない。
さて鼈甲(べっこう)垣からさらに細い路地を一本入ると、石造りの堀がある。これは9代目藩主:喜連川煕氏による御用堀である。新田開発のために引いた用水を市中に引いたもので、生活用水/防火用水として活用され、下流側では農業用水として使用された。現在は錦鯉が放され町の景観に溶け込んでいる。
古びた倉をみつけたので1枚。こうしてみると如何にも歴史を積み重ねた城下町という感じがする。さりげなく錦鯉がいるのが密かにポイントが高い。
■幕末 ~落日の喜連川~
さてそんな喜連川藩にもやがて幕末の動乱がやってくる。御所様は西洋式の軍装を整え、戊辰戦争では新政府軍(要するに勝っている方)に付いて戦った。喜連川軍は総勢21名、1小隊のみという小ぢんまりとした戦力であったが、それでも会津軍との戦闘でいくらかの功績はあったらしい。このときの御所様は水戸家から養子に入った綱氏だったが、実は最後の将軍:徳川慶喜とは兄弟の関係にあり、身内同士で戦う格好になった。
徳川幕府が崩壊すると薩長土肥4藩による版籍奉還(明治2年)が行われ、他の藩も続くよう呼びかけがあったが、これに最初に応えたのが実は喜連川藩である。奉還された版籍は日光県に組み込まれ、やがて喜連川町となった。そして領地を失った御所様は華族の身分となって東京に移住した。華族として国から支給された禄は193石であったという。これが多いか少ないかは、よくわからない。
…ともかく、こうして喜連川藩の歴史は幕を閉じたのであった。
明治維新以降の喜連川は、ゆるやかな衰退の中で静かな時を過ごしたといえる。富国強兵、殖産興業の掛け声のもと新生 "栃木県" の北部では那須野ヶ原の開拓が本格化し、それまでの幹線道路だった奥州街道は氏家から大きく新開拓地よりに移動して国道4号線となった。文明開化の象徴である鉄道も国道4号線と併走する形で敷設された。こうして喜連川~大田原~芦野といった古い宿場町は明治10年代を境に脇街道の地位に退けられたのであった。
その流れの中にあって、最後に喜連川にやってきたメジャーな出来事が明治天皇による東北巡幸である。まだ鉄道の開通していない明治9年(1876)、旧奥州街道を通って天皇が歴史上初めて東北地方/北海道に巡幸した。維新の元勲達を引き連れ馬車の列で50日間にもわたる旅程だったが、喜連川から佐久山へ向かう途上、曽根田集落付近で休憩をとり水を飲んだという。その記念碑が今でも残っている。
これをもって、日本史の主要な出来事と喜連川が関わることはなくなった。明治19年、東北本線の開通が成り、那須野ヶ原の開拓に膨大な国家予算が投入され、社会資本が充実しはじめる。それは、相対的に喜連川の落日を意味していた。
その後時代は大きく下り昭和56年、すっかり過疎の町となった喜連川に温泉が湧出する。これを起点に観光開発が進み、以降の喜連川は温泉の町として売り出しているが…それはまた別の物語である。(温泉で一発当てた町長氏は銅像になって公衆浴場にその姿を残している)
そんな訳で、ここで何か気の効いたまとめが出来ればいいのだけれど、少々筆疲れした。 こんなときは、ゆったりと一風呂浴びて帰ることにしよう♪
…ということで、今回はここまでとしたい。
<完>
■あとがき
半日走っただけの取材なので深みがいまひとつの感がありますが(^^;)、とりあえず 「えいや!」 とまとめてみました。如何だったでしょう。
本文中でも触れましたが、現在の喜連川は温泉で売り出していて、それは一定の成功を収めています。あと100年も経てば "伝統の温泉" として歴史の蓄積もできるでしょう。・・・しかし温泉よりも、喜連川塩谷氏による戦いの歴史とか、秀吉、家康といった日本史の主要プレイヤーと絡んで藩政を取り仕切った足利家などの価値ももう少し評価してあげてもいいんじゃないか…と、にわか仕込で勉強しながら筆者はそんなことを思ってみました。
近隣の人間が言うのもナニですが喜連川というのは本当~に地味なところで、コレといった景勝地があるわけでもなく、名産品や全国に知られるような武将がいたわけでもありません。戦国SLG(シミュレーションゲーム)などにも宇都宮家や那須家は出てきても喜連川塩谷氏なんてまず登場しません。 しかし改めて喜連川という集落を見た場合、その奥深い歴史には少々驚かされます。そしてそれは、表通りを走っているだけでは決して見えてきません。一歩奥まったところにさりげなくその片鱗がみえてくる…そんな感じで地味に受け継がれているわけです。これをもう少し巧く使えば良い観光名所になるのに…と、外野ながら思わずにはいられません。
ところで本稿では大雑把に5000石と表現している喜連川藩ですが、江戸時代後期と思われる古地図には1584石余との記述もあり調べていて 「あれ?」 と思う場面もありました。……が、どうやらこれは宿場としての規模を石高で表記したもののようで喜連川藩全体の石高ではなさそうです(宿場の収容キャパシティの比較にでも使ったのですかね?)。
喜連川藩の収入は御用堀開削による新田開発や本陣株などの権利金、酒の専売等によって表高よりは多かったようですが、実態はよくわかりません。特に幕末は戊辰戦争の戦費など臨時出費も嵩んだ筈なのですが、最後は明治維新後の版籍奉還によって 「借金ごと国へ領地、領民を返納」 というウルトラCで処理されてしまったので詳細がウヤムヤなのです。
ちなみに江戸期の喜連川宿は、御所号のブランドもあってか小洒落た茶屋が多くあり、大名行列ばかりでなく一般の旅行者にも人気があったようです。宿場は10~15kmに1箇所くらいの割合で設置され平均的な旅人の1日の移動距離は40km前後だったそうですから、いくつか飛ばして移動して行き適当な場所で宿泊するというサイクルになります。このときに飛ばされてしまうか足を止めてもらえるかでその宿場の賑わいが違ってくるのですが、喜連川宿は下野国では宇都宮に次いで賑わっていたようですからやはりブランド力はあったのでしょう。どんな情景だったのか、見てみたいものです。
<おしまい>