2009.05.23 那須殺生石:御神火祭 (その1)
那須湯元地区の殺生石で御神火祭を見てまいりましたヽ(・∀・)ノ
この季節の定番といえば殺生石の御神火祭、ということで今年も見に行くことにした。この時期の那須はつつじウィークと称してイベントが多く催される。なかでも御神火祭は絵的にインパクトがあるので筆者もよく通っている (残念ながら昨年は雨天中止となってしまった)。
※ちなみに那須観光協会とは多少の縁があり、昨年、今年の祭りのポスターには筆者の提供した写真を使っていただいていたりする。
さてそんな訳で殺生石にやってきたのは午後6時。あたりはイイカンジでツツジが咲いていた。
とはいえ既にロケーションの良い場所は先行カメラマンに占拠されていた。 2時間前では既に遅いか…うーん、なんだか年々競争率が上がっていくような気がするなぁ。
祭りの進行は基本的に毎年同じなので、今回は九尾の狐伝説についての薀蓄(うんちく)などを交えながら写真を並べてみることにしたい。
九尾の狐とは、天竺(インド)~古代中国~日本を又にかけて悪事を働いたとされる日本史上最強の妖怪である。今なお小説や漫画、ゲームなどの題材として取り上げられている非常にメジャーな存在で、ここ殺生石はその九尾の狐が討ち取られ、その怨念が毒石となって後世にまで災厄をもたらした…とされる場所なのである。
さて上図は三国妖狐伝(葛飾北斎,1760)に描かれる九尾の狐である。江戸時代には歌舞伎や謡曲の題材として取り上げられ非常にポピュラーな題材となっていた九尾だが、物語の成立は鎌倉時代初期の "玉藻前物語" からと言われている。妖怪としての九尾の狐の記述はさらに古く、紀元前3世紀頃の中国における山海経(中国最古の地理書)にまで遡る。"其状如狐而九尾、其音如嬰児、能食人" とあることから当初から人食いの化物として認識されていたようだ。
殺生石伝説では、九尾の狐は "玉藻前" という才色兼備の美女に化けて平安時代末期の朝廷に潜り込み、鳥羽上皇に近づいて日本を滅ぼそうとしたと言われている。それを陰陽師の安倍泰成が見破り、九尾の狐は京の都から去るのだが、まもなく那須野ヶ原に現れて再び人食いを始める。それを討つために三浦介義明、上総介広常が8万の軍勢で那須に下り、激戦の末に討ち取るのである。その後、玉藻前の怨念は石に姿を変えて後世まで祟りを為す。それが殺生石と伝えられている。
※玉藻の前は天皇の側近にまで出世した高貴な人物なので、本来なら "玉藻御前" と称されるべきところである。しかし朝廷に反逆した者ということで "御" が外れて "玉藻前" (たまものまえ) になったらしい。
※上図はWikipediaのフリー素材より転載。
しかし一見、ファンタジー風味の妖怪物語にみえる九尾の狐伝説も、登場人物のプロフィールを掘り下げて調べていくと非常に政治的な内容を含んでいることが伺える。
この物語は鳥羽上皇の院政時代に端を発する平安末期の政治的混乱、そして源平合戦から鎌倉政権成立までの政治権力の推移状況を暗黙の前提知識として要求して書かれており、決して子供向けの御伽噺(おとぎばなし)ではないという。ちょっと面白いので今回はその立場で書いてみたい。
鳥羽上皇が権勢を誇ったのはその院政期(1129~1156)である。九尾伝説では病弱でナイーブな印象のある鳥羽上皇だが、実際には相当な強欲スタミナ絶倫おやじで、10人の后(きさき)に合計22人の子を産ませ、その中から3人の皇子を次々と天皇位につけて28年の長期にわたって影のフィクサーとして君臨した。
リモコン操縦される側だった気の毒な3人の天皇は、崇徳天皇、近衛天皇、後白河天皇である。彼らは同じ父(鳥羽上皇)を持つ兄弟ではあったが、母親は異なりそれぞれ別個の政治勢力をバックにもっていた。
このうち崇徳上皇(当時)と後白河天皇が次代の皇位継承を巡って対立し、リモコンの親機=鳥羽上皇が崩御して重石が取れた途端に争いを始めた。これがいわゆる保元の乱で、貴族政治が崩れ武家が台頭するきっかけとなった事件である。この乱以降、鎌倉政権が成立するまでのおよそ30年間が、平家物語に描かれる戦乱の時代にあたる。そして "玉藻前物語" が書かれるのはその直後、鎌倉時代草創期なのである。
保元の乱の元凶となった崇徳上皇と後白河天皇の対立は、先に皇位を次いでいた崇徳天皇(当時)の処遇をめぐって、鳥羽上皇の皇后のひとり美福門院が過剰な干渉をしたためと言われている。
崇徳天皇は鳥羽上皇と待賢門院の間に生まれた第一皇子であったが、美福門院を寵愛する鳥羽上皇は崇徳天皇を無理矢理退位させ、美福門院との間にもうけた皇子(躰仁親王)を近衛天皇として即位させてしまった。近衛天皇は短命で1155年に崩御してしまうのだが、皇統を崇徳天皇側に渡したくない美福門院は、さらに鳥羽上皇に干渉して後白河天皇を即位させてしまう。これが朝廷内の各種派閥の勢力争いに火をつけてしまったのであった。
保元の乱が終息した後も美福門院はさらに次代の二条天皇の即位に関して干渉し、わずか3年後に平治の乱が勃発する元凶となった。武士である平清盛がのし上がってくるのはまさにこのときである。
そのような背景から玉藻前のモデルは美福門院ではないかとの説が根強い。九尾伝説での鳥羽上皇は健康を害して寝込む程度の描写に抑えられ、本来の美福門院の役回りは異国渡来の妖怪変化に置き換えられているが、これはもちろん朝廷側に配慮してのことだろう。
さて那須温泉神社から出発した松明行列が、賽の河原まで降りてきた。毎度のことながら、ここは余計な光がなく松明の明かりだけで浮かび上がるところが渋くてよい。
今回は Nikon D300 の感度に依存して18-200mm(F3.5-5.6)ズームを夜間撮影に使うというちょっとムリヤリなことをしている。 ISO-3200(増感で6400相当まで可)の素性があれば、暗いテレ端でもそれなりの絵が撮れるので便利だ。ノイズが多くなるのはまあご愛嬌といったところだろう。
今回の祭りでは、新趣向として "狐の嫁入り" のモチーフが取り入れられた。実際のカップルによる神前婚である。神主さんに先導されて、松明行列と同じ道を通って温泉神社から降りてくる。
神主氏による御祓いの後、新郎新婦によって大松明に御神火が灯される。
「おおお~」 という歓声と同時に、祝福の拍手が響いた。とりあえず筆者も祝福の念力(笑)を送ってみたが、果たして届いたのだろうか。 ともかくこの風変わりな結婚式に参加した新郎新婦に幸あれ……
ごごごごごご~… と、力強く燃え上がる大松明。
炎に赤々と照らされる中、いよいよ九尾太鼓の奉納が始まった。
<つづく>