2009.06.15 黒滝山/大蛇尾林道 (その1)




黒滝山の大日尊を見てまいりましたヽ(・∀・)ノ



黒滝山は那須塩原駅の駅舎から真正面に見える標高1754mの山である。那須連山や高原山に比べると微妙に地味な存在で、少なくとも遠方から遥々観光客が列をなしてやってくるといった類の山ではない。しかしここはかつて山岳信仰の盛んだった場所であり、現在もその片鱗が微かに残っている。

現在では素人がお手軽に上れるコースはなく僅かに第一礼拝所の大日尊(+お籠もり堂)のみが容易にアクセスできるという状況だが、案外近くにありながらレポートしていなかった場所なので、今回はお手軽に現況確認してみようという趣旨で訪れてみた。




さて当日は若干雲が多く視界がちょっとイマイチだったのだが、これが黒滝山である。

那須塩原駅の駅前道路を山側に向かって進んで行き、途中から旧高林街道に分岐して高林集落を抜けると、やがて木綿畑を抜けて鴫内の集落が見えてくる。(このアングルだと鴫内山、黒滝山、大佐飛山が重なって見えている)




黒滝山信仰が盛んだったのは江戸時代から明治時代にかけてのことである。時期的には三斗小屋の白湯山信仰(茶臼岳)とほぼ同じ頃で、幹線道路であった会津中街道に近いことも手伝ってか、北は仙台から南は江戸あたりまで信仰者がいたらしい。

江戸期は山岳信仰や遠地の神社仏閣巡りが盛んに行われた時代である。それらは物見遊山の娯楽(=旅行)の要素も含んでいたことから町人衆や農民にも人気があった。関所を通る際にも寺社参詣とか湯治を理由にすれば特にお咎めなく通ることが出来たので、"霊場○○ヶ所巡り" などと称するパッケージツアーが多数登場した。

ただし黒滝山はその峻険な参拝コースから、物見遊山というよりは修験の山としての性格が強かったのではないかと思われる。参詣者は入山の3日前から "一の木戸" である大日尊のお籠(こ)もり堂で心身を清めた後、一泊二日の日程で大蛇尾川の渓谷から黒滝山頂上まで険しい登山道を登った。途中には24箇所の礼拝所(木戸)が設けられ、巨岩や滝などの自然物を神仏に見立てて礼拝しつつ山行したという。




おそらくは登山基地になったであろう鴫内集落付近は、那須野ヶ原の端部にあってぎりぎり自然水が得られた集落である。江戸期になると用水掘の開削によって高林、横林などの下流域の集落が成立していくが、もともと水が得られるのは山側ぎりぎりの沢沿いに限られた。それでも水田をひらくような水量は得にくく、ほとんどが畑作地であったという。




そんな鴫内地区に入ると、廃校になった鴫内小学校がみえた。現在は田舎ランド鴫内と銘打って地域体験学習施設となっており、近年では珍しく?なった二宮金次郎の銅像もある。……が、今回はスルーして先を急ごう。




大日尊へはこの小学校脇を700mほど上っていく。




これが大日尊までのアクセス路である。一応舗装はしてあるのだけれど…もともとクルマで上ることを想定していないらしく、道はえらく細い…




途中、扇状地に染み込む前の沢水の流れ(右下)を見る。鴫内集落ではこの水をそのまま飲料水に使っているようだ。




足元をみると岩魚が泳いでいる。




そこからさらに尾300mほど登ると、やがて鳥居と "お籠もり堂" が見えてきた。




いまにも朽ち果てそうな年季の入った鳥居があり…




そこには大日如来の額(?)が掛かっていた。神道の鳥居に仏教の大日如来か…明治政府の廃物稀釈令もここには及ばず、といったところだろうか。

黒滝山信仰は明治時代までは盛んであったが、大正年間に漸減し昭和に入ると途絶えた。明治の開拓事業で鉄道や疎水が通り近代的農場が林立したという時代背景を考えると、明治も中期以降になると信仰登山というのはだんだん流行らなくなったのかもしれない。

…そしてそれ以降半世紀以上にわたり、黒滝山信仰は長く忘れ去られることになる。




やがて時代は下り平成8年(1996)、その参詣登山を地元有志の会が復活した。このお籠もり堂(大日堂)もそのときの再建である。造りは結構、しっかりしている。

"ご縁日" として旧暦4月8日(釈迦の誕生日)、8月8日の日付が書いてあることから、この日に例大祭か参拝登山が行われているらしい。…が、案内板にはそのあたりの状況が書いてなく、詳細はよく分からない。




お籠もり堂の内部はこんな感じで、神式/仏式の折衷様式になっている。これは神仏混交の時代ではよく見られたもので、神道の神も仏教の仏も同一のものであるとの考えからきている。権現とあるのは、仏が神の姿で現れたものを指す表現だ。

黒滝山に参詣登山する者は、ここで三日三晩清めの行を行い、白装束で六根清浄(ろっこんしょうじょう)を唱えながら山に入った。六根清浄とは人の6つの意識=眼根(視覚)/耳根(聴覚)/鼻根(嗅覚)/舌根(味覚)/身根(触覚)/意根(意識)を清らかに保ち、俗世間の不浄を断ち切るという意味の掛け声である。




鳥居の奥には江戸時代に祀られた大日如来像がある。寛政4年(1792)に鴫内、湯宮、木綿畑、百村の4ヶ村を願主として建立されたもので、百村の光徳寺の参拝記念碑(かなり大きい)があること、また地理的に近い高林村(宿駅)が願主に参加していないことから、会津中街道沿いの集落の中では百村(宿駅)から湯宮にかけての山際の村落群がグループを形成していたことが伺える。

※江戸時代の地域区分では高林は大田原藩領、鴫内/湯宮/木綿畑/百村は天領なので、幕府の代官の治める区域内の村が協力して建立したと推察される。




大日尊に寄ってみると、その表情は非常に素朴で最小限の装飾で造られている。仏像は修行中の姿=装身具あり、悟りの境地に達した姿=装身具なしというわかりやすい特徴がある。大日如来は究極の悟りを拓いた宇宙の根源とでもいうべき存在なので、一切の装身具がなくシンプルな恰好をしている (※決して石工さんが手抜きをしている訳ではない)。

日本の山岳信仰は密教と神道が融合しており、そのうちの密教の部分は空海の影響が強い。大日如来は空海の守り本尊であり、日本ではそれがそのまま山岳信仰の本尊として受け入れられた。密教では世界を男性原理/女性原理の陰陽二元論的に捉えており(このあたりは陰陽道とも通じる)、それぞれ金剛界/胎臓界などという。大日如来もこれらに応じた2通りの表現があり、手で結んでいる印の形式が異なる。ここの大日尊は智拳印を結んでいるので金剛界大日如来である。



その隣には、不動明王像(荒沢大聖不動尊)が立つ。仏教ではネズミ算のように増殖した諸仏や他宗派から取り込んだ神々を 「○○の化身」 という説明で体系化しており、そのなかに三輪身という分類がある。

曰はく、仏には3つの異なる現れ方=自性輪身(じしょうりんしん)/正法輪身(しょうぼうりんしん)/教令輪身(きょうりょうりんしん)があるとする説で、そのうちの教令輪身がいわゆる憤怒相の仏(→悪を打ち砕き無理矢理にでも救済する)である。

このあたりは説明し始めると長いので詳細は省略するけれども、要するに修験道や密教で礼拝されることの多い不動明王も大日如来の姿のひとつ…ということになっていることが分かっていれば良いだろう。



案内板を見ると、黒滝山の24礼拝所は↑こんなコースになっているらしい。かなり危険な岩場の連続で、特に大蛇尾川(大佐飛川)谷底から一の滝をいったん登り始めたら途中で降りるのは不可能と言われている。谷底には宿小屋があり参拝者はここで一泊するようだが、実際に登った偉人の記録を見る限り、かなり本格的な装備でないと挑戦するのは難しそうだ。

※案内板には "黒滝神社" と書いてあるが、御神体が仏像になっているなど実態は修験道と思われる。二十四札所の名称も神道/仏教/陰陽道の要素が混在していて興味深い。




さて大日尊からもう若干、道が続いているようなので進んでみたが…




残念ながら200mほどで行き止まりになっていた。

登山道が続いているはずなのだがよく分からなかったので、ちょっとアプローチを変えてみることにした。 少し回り道になるけれども、地図上では大蛇尾(大佐飛)林道と礼拝登山コースがクロスしているようなので、林道側から途中までいけないか確認してみよう。


<つづく>