2009.12.13 足利学校 (その2)




■孔子廟




門をくぐるとすぐに孔子の像が建っていた。

筆者は長崎中華街近くの孔子廟や台湾の孔子廟を何度か訪れたことがある。あちらでは歴代の儒家の立像がずらりと並んでかなり壮観だった。ここ足利学校では参道にある像はこれひとつだけで、孔子廟も中華式というよりは日本古来の神社のバリエーションのひとつとして整備されている。このあたりの解釈の違いは面白い。




足利学校は創建がいつ頃まで遡るのかは定かではなく、奈良時代~鎌倉初期までいくつかの説がある。記録が豊富になるのは室町時代、関東管領:上杉憲実(1410-1466)による再興からである。

室町時代の前半頃には足利学校は衰えていたというが、中期になって登場したこの上杉憲実がテコ入れを行ったことで、学府としての勢いを盛り返した。上杉憲実は儒学に篤く、施設整備の一方多数の書籍を寄贈して足利学校のその後の校風を方向付けている。

さて儒学といえば政治に於いては徳治主義、規範においては仁、義、礼、智、信が思い浮かぶ。思想に於いては特に礼が大切であると説かれ、身分や上下関係の秩序が重要視された。中国漢代に官学となり、官吏登用試験=科挙においても基礎的な教養として扱われている。…教科書的に書けばそんなところだろうか。




ところで中国から輸入された知識や思想としてまず仏教を思い浮かべる人は多いと思うけれど、これは隋/唐時代を扱った教科書の記述のまずさから誤った印象を刷り込まれている可能性がある。日本の受け入れた仏教は国家鎮護の呪術力を期待したものであって、歴史上重要な要素ではあるものの、実際に国家を動かす行政機構/制度などの実務知識とは少々次元が異なるのである。

さて先ほど儒学について "上下関係を云々" …と教科書的な丸めた表現をしたけれど、それは儒学における政治思想のほんの一部を抜き出したものであって、決して全体像を表わしている訳ではない。大雑把にいって、儒学の中心的書物…いわゆる四書五経のうち、四書(論語、大学、中庸、孟子)が政治思想編で、中学校の歴史教科書だとこの部分にちょこっと触れただけで後は省略されてしまう。

一方、五経(易経、書経、詩経、礼記、春秋)が卜占、天文、陰陽道、漢詩、礼儀作法、典礼、政治制度、祭祀、外交、歴史学…などの実用知識/教養編となっており、こちらの方が現代の学校の教科分類イメージに近い。 これに加えて、さらに後世になってから注釈や再解釈が追加されて膨大な周辺文献が登場した。

こうしてみると、一口に儒学といっても内容は多岐に渡り、かなり広範囲な知識群をまとめてワンパッケージにして儒学と称していたことがわかる。これを孔子が全部一人でまとめたとは筆者にはとても思えないのだけれど、彼が没してから儒学が官学(→漢代)として採用されるまでには300年以上のタイムラグがあり、この間に門徒の学者によって色々な整理/再編/追加があったであろうことは容易に想像できる。まあ細かい部分はひとまず置いておいて、ここでは儒学といっても仁義礼智信だけではなく、非常に裾野の広い学問の総称であることを押さえておこう。

黎明期の日本が律令制度を輸入する際には、前提としてこれを学んでいなければならなかった。現代風にいえば西洋文明を理解するためにキリスト教の基礎知識が必要なのと似たようなものだろうか。




さて現在重要文化財となっている足利学校の古い典籍はほぼ上杉憲実の寄進によるもの以降である。時代的には宋代以降の典籍が多い。教科書として使われたのもこの書籍の一部である。

ところで儒学の変遷についてちょっと詳しい方ならば、宋代以降と聞いてニヤリとするかもしれない。孔子の唱えたオリジナルの儒学がだんだんと改変(発展?)されていくのがこの頃なのである。

寄り道が多くて申し訳ないけれど、ここで少しその話をしてみよう。




宋代の中国は、文化的には爛熟していたものの政治的、軍事的にはかなりヘタレな状態にあった。特に後半になると北半分を女真族(のちの満州族)の王朝:金に奪われ、首都開封を失ってしまうのである。臨時の首都として杭州:臨安に遷都するものの、結局旧領土を回復することは出来なかった(最後はモンゴル帝国=元に滅ぼされる)。日本との関係で言えば、遣唐使の廃止以降途絶していた中国との関係を平清盛が再開し、日宋貿易を行ったのがこの "南宋" の時代にあたるのだが、日本が250年ばかり 「中国断ち」 をして国風文化を発酵させている間に大陸の様相はすっかり変わってしまっていた。

この時代は中華思想における 「あるべき世界観」 つまり偉大なる中国皇帝様が世界の中心に君臨して周辺の野蛮人がそれに平伏する……という脳内妄想が崩れた時代でもあった。本来中原の覇者である筈の皇帝が首都を追われて異民族に圧迫されていた訳で、この状況は宋の知識人達には相当なストレスだったことだろう。 「こんなハズじゃない、俺たちはもっと偉大で優秀なんだ、野蛮人はおとなしくしてろ」 …と。

こういう状況を背景に台頭してきたのが儒学における序列や理(ことわり)を極端に重んじるイデオロギー色の強い思想で、のちに朱熹によって再解釈され朱子学としてまとめられた。後に日本の明治維新で盛んに唱えられた "尊皇攘夷" の思想も実はこの南宋時代の産物である。"皇帝を敬い外敵は排除せよ" というスローガンは、当時の南宋の置かれた状況を思い浮かべると実にわかりやすいアジテーションといえる。

ただし平清盛は金儲けの手段としての貿易には熱心だったが、この種の思想を輸入したような形跡はみあたらない。この変形儒学ともいえる朱子学が日本に流入したのは鎌倉時代の後半頃で、後醍醐天皇による鎌倉幕府倒幕運動→建武の新政→南北朝の動乱に影響を与えたと言われている。




このあたりの事情を意識したのかどうかは定かではないが、上杉憲実が再建にあたって記した "学規三条" に面白い記述がある。学校で講義に用いる書籍は、四書/六経/三註/列子/荘子/老子/史記/文選の8つに限定して他は認めないというのである。

つまり学校の独自教科書は作らず、また仏典もその中には加えなかった。宋代以降、元、明代の書籍もシャットアウトである。教科書を外典(それも古典)に限るというのは、朱子学的なもの(→当時思い浮かべたのはまず後醍醐天皇と南朝を巡るゴタゴタだろうか)の排除の他、内部の学閥が勝手に "俺様イデオロギー" を追加していくのを防ぐ意味合いもあったような印象をうける。憲実自身は朝廷と鎌倉府の内紛の中で忠義に苦労した遍歴があるので、原点回帰を目指したい気分が強かったのかもしれない。

そうしてみると、足利学校に寄贈された典籍のうち宋代/元代/明代…というのは、"その時代に写本された、当時すでに古典であった古い文献" という理解をしたほうが自然な気がする。ためしにWikipediaから国宝/重文を抜粋してみると以下のようなリストが出てきた。

【国宝】
宋刊本文選(金沢文庫本) 21冊
宋版禮記正義 35冊
宋版尚書正義 8冊
宋版周易註疏 13冊

【重要文化財】
足利学校旧鈔本 4種19冊
宋刊本附釈音毛詩註疏 30冊
宋刊本周禮 2冊
宋刊本附釈音春秋左傳註疏 25冊
宋版唐書列伝残巻第十七


いずれも宋代の写本ではあるが書籍としては唐代以前のものであり、学規三条の志向とほぼ符合している。 このうち足利学校旧鈔本というのが教科書として多く用いられたもので、その内容は 周易、孝経、論語義疏 などのセットであった。

※何を言ってるのか分からねえ!…という方のために説明すると、文献のタイトルとしては 「宋の時代の本」 となっていても、内容は古代中国の古い文献の写しで、宋の時代特有の過激思想=朱子学の成分は入っていませんよ、ということ。




さて学校門を経て、杏壇門にやってきた。孔子は弟子達に講義するとき杏の木の下に立ったといい、転じて講義を行う場所を杏壇と呼んだらしい。門ひとつにしてもいちいち由緒があるんだなぁ。




そこをくぐると、いよいよ孔子廟である。解説には中国本土の孔子廟を模した…とあるが、デザイン的にはかなりジャパナイズ?されていて、見たところ奈良の大仏殿に近い様式である。江戸初期:1668年の築といい、実は国内に現存する孔子廟の中では最も古い。




ちなみにこれが本場中国風の孔子廟である(撮影地:台湾)。廟の本殿は特に大成殿と呼ばれる。建物名称の由来は孟子萬章編における「孔子聖之時者也、孔子之謂集大成、集大成也者、金聲玉振之也」 から来ており、屋根の装飾にもそれぞれ意味があるのだが、足利学校の孔子廟ではそのあたりは省略され、屋根飾りも鯱(しゃちほこ)に置き換えられている(笑)。




とはいえ大成殿の名称は受け継がれており、たしかにこれは孔子廟なのである。




廟の内部には、かなり黒ずんでしまっているが孔子像が安置されていた(※これはレプリカで本物は別に保存してあるらしい)。筆者的はもう少し中華的?な顔立ちを想像していたのだれど、その風体は日本の好々爺然といった感じなのであった。

中国の偉人図に よくある玉簾のついた冠(冕冠という)は身に着けておらず、頭巾姿で描かれている。何かの故事による姿かも知れないが不勉強な筆者にはちょっとよくわからない。




その横にあるのは小野篁(おののたかむら)(802-853)像である。平安初期の官人/文人で、陸奥守に任ぜられて下向したときに足利に立ち寄り、学校を創建したとの記述が鎌倉大草紙(15世紀)残っている。内容は以下のようなものだ。



上州は上杉が分国なりければ、足利は京郁并鎌倉御名字の地にて他にことなりと、かの足利の学校を建立して、種々の文書を異国より求め納めける。 此の足利の学校は、上代承和六年に小野篁上野の国司たりしとき建立の所、同九年篁陸奥守になりて下向の時、此所に学所をたてけるよし。 その跡いまにのこりけるを、応仁元年長尾景人が沙汰として政所よりこの所に移建しける。 近代の関山は、快元と申絹憬也。今度安房守(=上杉憲実)、公方御名字かけの地をなばとて、学領を寄進して書籍を納め、学徒をれんみんす。 されば、此比諸国大にみだれ、草道も絶たりしかば、此所日本一所の学校となる。是より猶以、上杉安房守憲賛を諸国の人もほめざるはなし。西国北国よりも学徒悉集る。
(鎌倉大草紙)



記録上は小野篁説の最古の文献がこの鎌倉大草紙であるらしい。江戸時代まではこの人物が足利学校の公式な開設者とされており、この像もその文脈に沿ってこの堂内に安置されている。しかし文献に記載されている承和六年(839)には小野篁は遣唐使を任官拒否して一事隠岐に流されているなど符合しない点もあり、現状ではこの説を裏付ける論拠はやや揺らいでいる感がある。

筆者的には伝説は伝説で堂々と掲げていればいいのに…と思わないでもないけれど、廟の解説板には慎重な言い回しで断定を避けるような記述がしてあった。なんというか…嘘や誇張でも平然と宣伝する反日半島国家とか中華大陸国家と違って、割と実直で真面目な姿勢がなんとも日本の施設らしい。




さて足利学校の中心施設として孔子廟があるのは、とにもかくにも儒学の府であったからなのだけれど、上杉憲実の理念はすぐに時代に取り残されてしまうことになる。

1467年、応仁の乱の勃発により戦国時代が到来したためである。当然、乱世であるから "礼" とか "孝" よりも 「如何に敵に勝つか」 が重視され、兵学、医学、薬学、易学のニーズが高まっていく。四書五経に兵学や医学は入っていなかった筈だが、足利学校はそれに応えて科目を増やし、戦国期には飛躍的に学徒数を増やしていった。これは一言でいえば蕎麦屋を開店したつもりがいつのまにかドライブスルーのハンバーガー屋になっていました的な劇的な変化であった。




上杉憲実は、学規三条が破られていくのを見ないままに没した。彼の没年は1466年、応仁の乱の前年である。"徳治" とは対極にある乱世を見ないまま世を去った訳だが、半生をかけて足利学校の再興に尽くした儒者としては、この年のうちに没したことはある意味では幸福だったといえるかもしれない。

<つづく>