2010.03.27 利根川堤防:菜の花ロードを行く(その3)




■中条堤とその内側世界




ふたたびクルマで菜の花街道に戻った。帰省ルートの途中でもありどこかで東北自動車道に乗る必要があるのだが、利根大堰までは川沿いの道を進むことができるので、もうあと5kmほどレポートを続けることができそうだ。

……が、どうやら工事区間があって赤岩渡船から先は多少の迂回が必要のようである。せっかくなので堤防から少し離れたところも見てみよう。




そんな訳で一段下の道の周辺を走ってみることにしよう。ご覧の通り、この堤防沿いには幾本もの道路が平行して走っている。ここに見えているのは3本だが、場所によっては4本になることもある。これは堤防が一度に形成されたのではなく、数次にわたって積み増されてきた名残である。




その堤防工事の記念碑が、菜の花に埋もれるように建っていた。これは、ここに建っていなければならない碑である。 右が大正3年、左が昭和39年のもので、昭和の大工事によってこの付近の堤防が完成することとなった。

この記念碑の周辺事情を調べてみて、筆者は初めてこの利根川の歴史を知ることとなった。割と有名な話のようなので知っている方も多いと思うのだが、二番煎じになることは承知の上で多少の事柄について触れてみたい。




まず前振りとして現在の東京都内(特に低地である東側)の河川状況をみてみよう。細かいことは気にしなくていい。河川改修が進んだ現在でも、これだけグネグネと蛇行する川筋が多いことが分かれば十分である。あちこちに残る三日月湖状の遊水地や水上公園、支流などは、治水事業によるものと過去の洪水によるものが混在している。改めて眺めてみると石狩平野もビックリするくらいの状況で、こういう場所は大雨で増水すると頻繁に川筋が変わってしまい、ゆえに江戸の下町は水害には非常に脆(もろ)い立地であったことが伺える。

このうち、江戸川が本来の利根川である。江戸に都市が形成された1600年前後に東遷事業が行われて、かつての渡良瀬川に水の大半が流されるようになり、都内では河川としての規模は縮小している。しかし上流域で洪水が起これば水が流れ込む基本構造が改まったわけではない。




その一例が、昭和22年のカスリン(キャサリン)台風による洪水だろう。このとき利根川は熊谷より15kmほど下流の加須市付近で堤防が決壊し、それを契機に周辺10箇所ほどでドミノ倒しのように決壊が相次いで、溢れた濁流は春日部~越谷を越えて東京都東部までの広大な市街地を押し流した。死者・行方不明者は合せて1900名以上、流失家屋9000棟、浸水家屋38万軒という未曾有の災害となった。

利根川が "坂東太郎" の異名をもち暴れ川として恐れられたのには、こうした地形的要因が大きい。勾配のほとんど無い洪積平野である関東において、利根川は豪雨があるたびに田畑を押し流して川筋を変える厄介な川だったわけだ。

さて時代が行ったり来たりで申し訳ないけれど、その下流である江戸の地に都市を建設した徳川幕府は、当然この暴れ川の治水対策に頭を悩ませることになった。その対策のひとつが先に述べた東遷事業で、この工事によって利根川の本流は銚子に向かって流れることになった。そしてさらにもうひとつ、上流域である熊谷周辺で、ある工事が行われた。




今回走っている菜の花ロードは、まさにその重要ポイントにあたる。

その地図を、↑視点を少し変えて書き直してみた。 赤線は、古い堤防である。菜の花ロードにあたる堤防が細い線になっているのは、それがとても貧弱なものだったからだ。特に葛和田の付近には堤防がなく "がら空き" になっている。先ほどの記念碑が建っているのはこの付近である。 そして、その南側に中条堤という強固な堤防が造られていた。この中条堤が造られたのは江戸時代初期、1610年代の頃と言われ、江戸時代を通じて強化/拡張が続けられた(原型にあたる堤防がそれ以前に存在したという説もある)。

一言で言えばこれは遊水地である。大雨で利根川が増水したとき、中条堤の内側に意図的に水が溢れるようにして臨時の湖を作り、濁流の勢いを弱めることで下流域の広大な農地と江戸の町に水害が及ばないようにしていたのである。中条堤のすぐ南側には徳川家康の四男:松平忠吉の入城した忍城があり、この手前で水害を食い止めることが意図されたともいわれる。ちなみにこの付近は幕府の直轄地(天領)だったため、反対するような藩主もおらず工事は幕府の方針通りに着々と進められた。

この東西10kmにもわたる広大な水没エリアに住んでいた人々は、何故自分達の生まれ育った村ばかりが繰り返し洪水の被害に遭うのか疑問に思ったであろうし、抗議もしたようだが根本的な解決は成されなかった。中条堤を挟んで被害の多い村と少ない村には対立が生まれ、それを幕府が強権的に押さえつけるという構図が明治維新まで続いたらしい。今は合併によって熊谷市の一部となってしまった旧妻沼町は、ちょうどこの水没エリアと一致する不幸な土地柄であった。




やがて明治時代に至り、幕府の統制が解けて治水論議がもめ続ける中、この中条堤をも破壊して下流域を水没させる大洪水が明治43年に起こった。このときは荒川も大規模に破堤し、東京の下町一帯が水没した。これを契機に、妻沼一帯を犠牲にする従来の治水方法への非難が続出し、中条堤を復旧させるか利根川沿いに新堤防を造るかで埼玉県政は大混乱に陥る。そしてその結果、妻沼を犠牲にする従来の治水モデルは廃されて、菜の花ロードの原型となる大規模堤防が建設された。その工事の竣工は大正3年である。

記念碑を読むと、このとき堤防建設のために移転した家屋は616戸に及んだと書いてある。つまり現在の堤防の位置にはそれだけの民家があって、洪水のたびに水を被っていたということなのだろう。




結果的に、この堤防工事は妻沼の不幸な歴史に終止符を打つ効果をもたらした。しかし妻沼一帯の "遊水地" としての機能が失われたことで、増水時の濁流はストレートに下流域に流れ下るようになり、利根川全体でみると治水能力は大幅に減退することとなった。

そこにやってきたのが昭和22年のカスリン(キャサリン)台風で、このとき妻沼は新堤防により守られたが、ほんの10km下流の加須で堤防の決壊がおこり、東京都23区の東半分までの広大な地域が水没する事態となったのであった。遊水地を失った代償は、結果的に非常に高くついたわけだ。

その被害の再来をを防ぐためにさらに強力な堤防を築いたのが昭和39年竣工の工事であり、以後はより下流域で堤防の厚みを極端に増やして町ごと嵩上げしてしまう、いわゆる "スーパー堤防" が造られるようになった。少年漫画で次々と強力な敵が現れて主役がインフレ的に強くなっていくのと一緒で、巨額の予算を投じて果てしない土木工事のインフレが続いているのが、利根川の治水の姿の一面といえる。残念ながらそれが正しいかどうかの判断は、素人である筆者には出来ない。




さて迂回路を通って、かつて洪水のたびに遊水地として水に沈んだ葛和田地区を行く。見れば堤防が壁のように農地を取り囲んでいるのがわかる。黄色く見えるのは一面に咲く菜の花だ。

河川沿いの耕作地なのに此処には水田は殆んど存在しないようで、見渡す限りの畑作地である。昔はいわゆる水損地…つまり洪水で荒れた土地が多く、用水路を引いてもすぐにまた水害で破壊されてしまうので田を拓かなかったらしい。今では水利も随分改善されたと思うのだが…案外、農家というのは保守的なのかもしれない。




目を南西方向に転ずれば、そこにも堤防が見える。これは利根川の支流=福川の堤防で、これがかつての中条堤に相当するものだ。

現在の福川は治水工事で川筋が直線化されて昔の川筋からはズレてしまっているが、堤そのものは土手としてその痕跡をみることができる。残念ながら今回はその痕跡を追いかける余裕はないが、このあたりをうまくまとめることが出来れば、郷土史としてはちょっとしたインパクトのあるレポートが書けそうな気がする。

※写真で↑見える付近は恐らく改修後の新しい堤防と思われる




そんな治水の歴史の積み重ねの果てに、現在の巨大堤防は存在しているんだなぁ…

少し離れたところから見る堤防は、周囲に余計な構造物がないぶん空とのコントラストが明瞭でとても開放感のある風景だった。サイクリングロードを行くMTBな人たちを借景に、黄色い絨毯もよく映える。



ちなみにサイクリングロードからは、この記念碑は背面しか見えない。何かがあることは見えてもおそらく一瞬で通り過ぎてしまって、記憶には残らないだろう。

でもここを訪れる人には、やはり一度は見ておいて欲しい "土地の記憶" のようなものだろうと筆者は思ってみた。



葛和田地区の終端で、農地から菜の花ロードに上がる畦(あぜ)道が極楽のような花絨毯になっていた。・・・これは本当に見事だ。




おそらく植物相的には、新たに盛土された堤防面に植物が進出していく際に、荒地に強いアブラナ科の植物がまず定着して…などと説明できるのだろう。しかし筆者はもう少し情緒的に、苦労の多かった土地の人々に神様が贈り物をくれたんだよ、と表現したほうが美しいような気がした。




■菜の花の先




菜の花ロードに上がると、すぐ目の前に福川の水門がある。クルマでいく場合、水門を渡って右岸側に抜け、さらに堤防脇を南下していくことになる。




…しかし水門から先には、菜の花はほとんどみられなくなった。意図的に芝でも植えてあるのか、除草されてしまったのかはよく分からない。行政区としては熊谷市から行田市に入ったところで、もしかすると市域によって河川管理の思想が異なっているのかもしれないが、今回はそこまで突っ込んでは調べていない。




犬の散歩らしい女性が歩いていたのでワンポイントになってもらった。…これはこれで、見通しの良い景色ではあるな。




その先は、市街地になってしまい堤防までの視界は遮られがちになった。ようやく見晴らしが聞くようになるのは利根川大堰の付近である。都内に飲料水を供給するための取水口だ。




ここから下流側(左岸)は、ふたたび菜の花が点在する景色が続くが…残念ながらクルマでは抜けられそうにない。菜の花を追いかける旅も、今回はここまでにしておこう。ちなみにここから下流側は明和町(群馬県)である。

河川敷の中はいまだ枯れ草色…。これから緑に萌えあがっていくのだろうけれど、まだそれはしばらく先のことだ。今は、菜の花の黄色い色だけが何処までも続いていた。

<完>