2010.04.02 靖国神社~千鳥ヶ淵界隈(その2)




■靖国神社




さて市ヶ谷駅から10分ほども歩くと、突然周囲の近代建築とは様相の異なる和風の土壁が現れる。よく見ると本物の土ではなく着色石膏のような材質なのだが、形式は平安時代の頃の土壁を踏襲している。




瓦をみると菊の紋章…どうやらここが靖国神社の外縁らしい。




壁は延々と600m以上も続いている。市ヶ谷駅からアプローチすると靖国神社の入り口はちょうど反対側になるので、裏側から壁伝いに歩く恰好になる。その間、ずっと桜並木も続いていく。




通りの案内板をみるとこの界隈には外国の大使館が多く記載されている。外国人に桜を愛でる感覚があるのか筆者にはよくわからないけれど、春になると一斉に咲くあの花は何だ、という気付きくらいはあるのではないか。

ちなみに日本の警察庁の本部は皇居の桜田門前にあって、そのシンボルマークは桜の御紋あるいは代紋と呼ばれる。正確には日章といい日の光のデザインということになっている。戦前は日本軍の将校の帽子の紋として使われていたものが日本の敗戦により廃止され、GHQの占領下にあった昭和23年に改めてそっくりのデザインで定められたものだ。占領下であるから当たり障りのない説明になったと思われるが、俗称として桜の御紋という呼称はあり、まあそういうことなんだろうなと筆者は思っている。




途中、通用門らしい入り口を見た。結構な人通りがあるな。筆者は正面から堂々と入りたいのでここは素通りしていく。




正面入り口が近づくと、外壁も随分立派になり高さも増してくる。このあたりは飯田橋方面にむかって地面が傾斜して九段坂などと呼ばれたそうで、参道の水準を維持するために礎石の部分を積み増しているようだ。




■一の鳥居~大村益次郎像




そしてたどり着いた正面玄関はこんな感じになっていた。これは一の鳥居である。ちょうどこの日は桜祭りをやっているようで、周囲は出店と花見客でいっぱいであった。




鳥居をくぐってまず目に付くのは、大村益次郎の銅像である。 靖国神社とは縁が深い人物だが、戦後の歴史教科書からはその存在がほぼ抹消されており 「…それって誰?」 という方もいるかもしれないので、ここで簡単に紹介しておきたい。

大村益次郎は幕末の長州藩士で、のちに新政府軍の原型となった奇兵隊を指揮した人物として知られている。奇兵隊とは農民(徴兵)と長州藩士を混成した歩兵部隊で、"戦闘は武家が行うもの" というそれまでの常識を覆した日本の近代的軍隊のさきがけと言われている。

平民を採用したのはもちろん人員不足を補うための苦肉の策として始まったものだが、第二次長州征伐では大村益次郎率いるこの奇兵隊が幕府軍を破り、"訓練さえすれば平民でも武士に勝てる" ことを示した。続く戊辰戦争でも大村は平民混在の新政府軍を指揮して幕府軍を次々と破り実績を上げ、維新後は現在の防衛省にあたる兵部省のトップとして新政府の軍制の基礎を築くことになるのである。

この明治維新における平民混成軍の強さが、後に士農工商の身分制度撤廃のきっかけとなった。明治新政府はこのとき四民平等を唱えて耳触りの良い説明をしたけれども、そこに西欧的な平等や博愛の精神があったと考えるのはいささかナイーブに過ぎる。 もっと実利的に、欧米列強に対する強い日本を作るためには人口の1割しかいない武士階級だけでは不足で、残り9割の平民の力が必要だと判断した筈なのである。



戊辰戦争の終結後、大村益次郎はその戦没者を弔う施設を作ることを提言し東京招魂社を設立した。これが後の靖国神社で、彼の銅像がここに建っているのはそのためである。

既に百万都市だった江戸(東京)の中心地にまとまった敷地を確保するため、千鳥ヶ淵に隣接していた広大な御用地がそれに充てられた。もとは江戸城の騎射馬場だったところで、場所は徳川御三卿の屋敷跡 (後に近衛師団駐屯地になる) の真正面…もちろん超一等地である。

そして、そこには慰霊の意を込めて大量の桜が植えられたのであった。




さて周辺を見渡してみると、芝生の上はこんな感じで庶民はもうすっかり花見酒。 神社敷地内には銀杏並木と桜並木があるのだが、銀杏のほうはまだ枯れ木の様相で、花見客はもちろん桜に近いところに陣取っている。

テキヤは二重の列で並んでいて、おそらく100以上はいるのではないだろうか。世の中が不況の真っ只中であってもさすがに花見の席ではそれなりに景気は回っている。高額商品に回すカネはなくとも、タコヤキくらいなら筆者でも買うことは出来る。そんな訳で筆者も幾許か日本経済に貢献してみた。




■ "同期の桜" の周辺について




大村像の足元では "同期の桜を歌う会" なる催しが開かれていた。…おお、やはり居るんだねぇ、この系統が。

しかし戦中派の軍国老人ばかりかと思えばそうでもなさそうで、装甲車みたいな宣伝カーもなく、いやゆる街宣右翼の仲間ではないらしい。話を聞いてみるとここに集まっているのはどうやら先の大戦の軍人軍属やその遺族/関係者なのである。…その主張は "戦没者を政争の具にするな" というシンプルなものであるらしい。




旧日本軍は最終的には500万人弱の規模があったようで、その約半数が戦死して終戦を迎えた。統計上の戦没者は230万人(この他に民間人が80万人)あまりいて、彼らの家族/親類まで含めれば確かに数千万人の "靖国の輪" が存在してもおかしくはない。しかしそういう人々の声が新聞/TVなどを通じて聞こえてくるかというと、まずないのである。いわゆる左翼フィルターで 「いないこと」 になってしまうからだ。




さて筆者はバリバリの無党派(なんだそりゃ)なのでこの種の団体や運動に積極関与するつもりは無いのだけれど、署名は遠慮しつつ資料としてペーパーだけは貰ってみることにした。ん~…なになに、英霊にこたえる会? ポジションとしては中道右派といった感じだろうか。保守系の国会議員も幾人か名前が出ているな。

あとで調べてみたところ、この会は元最高裁判所長官:石田和外氏が発起人となって創られた会員数120万人(!!)という途方も無い規模の団体なのであった。しかも協賛イベントのペーパー表紙に使われているのは昭和天皇の御真影。これは宮内庁も好意的に対応していると思って良いのかね。




さて今回は桜がテーマなので、軍歌の代名詞ともいえる 「同期の桜」 についても触れてみよう。戦後の日教組教育でひたすら自国の軍隊に嫌悪感を刷り込まれた人は多いと思うけれど、実際の軍歌を知っている人はどのくらいいるだろう。筆者は知らなかったので、これを機会に歌詞を拾ってみた。そこにはもちろん靖国の桜が登場する。

貴様と俺とは同期の桜
同じ兵学校の庭に咲く
咲いた花なら散るのは覚悟
みごと散りましょう国のため

貴様と俺とは同期の桜
同じ兵学校の庭に咲く
血肉分けたる仲ではないが
なぜか気が合うて別れられぬ

貴様と俺とは同期の桜
同じ航空隊の庭に咲く
仰いだ夕焼け南の空に
未だ還らぬ一番機

貴様と俺とは同期の桜
同じ航空隊の庭に咲く
あれほど誓ったその日も待たず
なぜに死んだか散ったのか

貴様と俺とは同期の桜
離れ離れに散ろうとも
花の都の靖国神社
春の梢に咲いて会おう

初めて通しで読んでみたけど、なるほどこんな内容だったのか。詞の出典は雑誌:少女倶楽部(講談社:昭和13年1月号)に掲載された詩人:西條八十による詩である。これに後に日本音楽著作権協会を設立することになる人気作曲家:大村能章が曲をつけた。筆者は軍歌というからにはもっと厳(いかめ)しい出自かと想像していたのだけれど、まさか少女雑誌とは驚きである。

改めて歌詞を見れば 「敵を叩け」 とか 「進軍せよ」「正義の戦い」 といったイケイケドンドンな要素はなく、出征する兵士の心情を綴っただけものだ。…これに比べたら、砲弾や爆弾が飛び交い 「彼等の邪悪な足跡は彼等自身の血で贖(あがな)われたのだ」 などと言い切ってしまうアメリカ国歌の方がよほど勇ましい。




この歌は 「桜=美しく散る」 のイメージに重ねて、特に特攻隊の兵士が好んで歌った。大戦末期の特攻隊といえば十代後半から二十代の若者たちだ。 その生き残った世代が、80歳前後の年齢になって今また靖国でこれを歌っている。これは映画的な叙情感のある風景でこそあれ、批判の対象にはなるまい。




■神門~拝殿




さてもうすこし奥に進んでみよう。

靖国神社の参道は隣接する白百合学園(その先100mで朝鮮総連本部というのが冗談みたいな位置関係だが)から靖国通りに抜けるバイパス路が横切っていて、途中でクルマの往来を渡ることになる。 向こうに見えるのは神門で、門の向こう側が拝殿/本殿を含む中心部である。




拝殿前には人々が行列を作っていて、しばらく待たされることとなった。
門の扉に掲げられているのは巨大な菊の紋章…やはりここは、ジャパニーズ・ロイヤルな聖地なんだな。ちなみにここにある菊の花弁は十六葉八重表菊といって皇室の正式な紋章になる。




さて神門をくぐると、いよいよ神域中枢である。中門鳥居(三ノ鳥居)に続いて拝殿がみえる。あたりは一面の桜の林である(→並木ではない)。その数は600本ほどもあるらしい。



振り返ってみる神門。昭和9年の築だそうで、ここは奇跡的に空襲でも焼けることはなかった。満開の桜といいカンジで落ち着いた雰囲気を演出してくれている。




敷地内の桜は数種類が混生しているようだが、圧倒的に多いのはやはりソメイヨシノである。この600本の桜のうち、いずれか3本が気象庁の基準木となっていて開花予想に使用されていた。ただし民間気象会社が林立してきたこともあって、気象庁が行う桜の開花予想は今年から取りやめになっている。

余談になるが、どこの新聞記者かは知らないけれど一時期しつこく気象庁の職員につきまとって基準木を特定しようとした輩(やから)がいたといい、一方気象庁はこれを公表しなかった。非公表の理由は明らかにされていないが、おそらくは下手に公表したらそれを損傷しにくるけしからん者がいると踏んだのではないだろうか。

※さくら前線(開花予想)の発表からは撤退したものの、気象庁は開花の観測そのものは今後も続けるのだそうで、しばらくはやはり靖国が東京の桜の基準であり続けるらしい。




さて内閣総理大臣がここに立つと何やら理不尽なバッシングに遭うようなのだが、筆者にはそんなものは関係ないので堂々と参拝してみる。

財布を探ってみたところ5円玉が無かったので奮発して百円硬貨を奉納し(笑)、いつもの如く家庭円満と武運長久、さらには交通安全に景気回復etc…そしてついでに鳩山政権の崩壊(^^;)を祈願する。




境内には奉納された絵馬も飾ってあった。さてここに来る人々がどんな願い事をしているのか眺めてみよう。

割合としては学業成就系が多いように見えたが、やはり場所柄 「国家安泰」 を願う人もそれなりにいる。衝撃的?なのは現政権を容認する声が皆無で、すべて批判的内容というところだろうか…( ̄▽ ̄;)。




それにしても、なんというか…




これだけ色々と祈願されると…




英霊の中の人も…




大変な気がするなぁ…




去り際に、もういちど靖国の桜を見上げてみた。"同期の桜" の精神からいうと、この花の一輪一輪に英霊の魂が宿っている…という理解で良いのだろうか。
戦後教育を受けて育った筆者には、戦前あるいは戦後間もない日本人がどのような心情でこの桜を見上げたのか、もはや正確に理解することはできない。

…それを知っているのは、もはや鬼籍に入りつつある80歳以上の世代だ。しかし彼らはまもなく居なくなることが確実で、その後は物量的に宣伝力のある勢力が歴史を固定していくことになる。全共闘に狂奔した団塊の世代には期待するだけ無駄だろう。その後に続くのは、新人類とゆとり…もはや、勝負はついてしまっているのかもしれないな…orz

<つづく>