2010.04.30 東野鉄道の廃線跡を訪ねる:前編(その4)




■ 金丸原




JUKI大田原工場を過ぎて西に向かうと、国際医療福祉大学を過ぎたところで道が二手に分かれている。このうち左側の男性2人が歩いている方が、東野鉄道の軌道跡である。どうやら道路に転用された後に周辺でバイパスが何本か作られたようで、そのためこうして比較的往時の姿を残す部分が残ったようだ。




分岐部から旧道=軌道跡を500mほど進むと、JA(農協)の精米施設が現れる。ここが金丸原駅の跡地らしい。

現在では非常~に地味な立地の場所となっているが、戦前はここは極めてメジャーな駅であった。今はほとんど痕跡が残っていないがここは滑走路を2本備えた陸軍の飛行場だったのである。明治45年にまず陸軍演習場が出来、昭和9年頃から航空学校として機能した。戦局が厳しくなった昭和19年からは実戦用の飛行隊が置かれていた。




地図をみれば分かるとおり、ここは駅を降りるともう目の前が滑走路という立地であった。鉄道開通前からここは演習地として使用されており、東野鉄道にとって陸軍は貨物輸送の大口顧客だったことだろう。

…しかし、戦後は日本軍は解散となり飛行場も閉鎖されてしまった。占領軍=GHQは日本軍の装備/施設を現状復帰できないよう徹底的に破壊する方針だったため、ここは民間空港に転用されることもなくバラバラに刻まれて復員者に払い下げられ、わずか数年で一面の畑に変わってしまった。(現在の国際医療福祉大はこの飛行場跡地に建っている)

東野鉄道が戦後立ち行かなくなっていく理由として、よくモータリゼーションの進展で旅客需要が減少して…というストーリーが語られているが、筆者はこの飛行場の閉鎖(=大口顧客の消失)も要因として大きかったのではないかと推測している。燃料/弾薬/建築資材などの重量物は飛行機で運ぶより鉄路の方が効率がよく、この絶妙な立地の鉄道が活用されなかったはずがないのである。

※…が、困ったことにどの程度の貨物需要があったのか記録が残っていない。まあ基地に何をどのくらい運んだかというのは軍事機密だろうから記録が抹消されていても不思議ではないのだけれど、それにしても真面目に調べようとすると、謎が多いんだよなぁ…ここの周辺はw




さてそれはともかく、周囲を見回してみる。JAの施設付近にはいくらか建物の痕跡のようなものは散見されるが、それが駅の遺構かどうかは良く分からない。

JAももう少し気を利かせて説明板の1枚くらい作ってくれても良さそうだけど…まあ精米所のおっさんにその種の機転を期待するのはちょっとお門違いのような気がしないでもないか。




駅前通りにあたる路面からJAの施設を見ると、重厚な石壁の向こうにやはり石造りの倉庫が見えた。近くの商店の方に聞いてみると、やはりあれが駅の跡地だという。現在は石塀の中は大部分が更地になってしまっているが、かつては物資の集積場であったことは想像に難くない。JAがここに巨大施設を作ったのも、やはり倉庫の建物を有効利用したい思惑があってのことのようだった。

迷惑ついでに筆者は同じ商店であれこれ聞いてみた。…が、40代半ばかと思われる店番氏には鉄道に関する明瞭な記憶はなかった。やはり廃線から40年も経過してしまうと、相当なご老体でもない限りリアルな記憶は持ち合わせていないのかもしれない。

ただしそれでも店番氏は、東野鉄道の軌道跡について 「今でもこの辺では線路道(せんろみち)と呼んでますよ」 と貴重な情報をくれた。こういう生きた情報は、ありがたい。




JAの精米所を過ぎると線路道(せんろみち)は八雲神社の脇を切り通しで抜けていく。このあたりは廃線となった後もあまり手を加えられた形跡がなく、地方ローカル線の鄙(ひな)びた雰囲気が残っている。




そのまましばらく、ちょうど単線の軌道1本分の未舗装路が続いた。

運転しながらあまり妄想に浸ってしまうと事故のもとなのでホドホドにしないといけないが(笑)、写真をみてお分かりの通り、この景観は 「電車でGO!」 そのままである。ゲームに感化された訳ではないけれど確かにこれは線路道(せんろみち)なのだなぁ…などと思ってみた。




■ 白旗城址前




しかしマターリした気分も束の間、至福のドライブは約400mで終了してしまったw …なんと、こんなところで道路工事をやっていたのである。ええい何てことだ、無粋な奴らめっ…!! w




仕方がないので迂回路を通って、余瀬の付近で軌道跡に復帰。蜂巣から西教寺を経由して来る名無し市道との交差点に差し掛かった。

ここが白旗城址前駅のあったところだが、この辺りではもうすっかり道路(=線路跡)が拡張されてしまっていて、遺構らしいものは見当たらなかった。さきほど遭遇した工事も、こんな拡張をしようというものなのだろうか。




道路を整備するのは地方自治体の役目としてそれなりにやってくれれば良いのだろうけれど、やはり古いものを壊してサヨウナラ…というのばかりではちと寂しい。せめて 「ここは○○跡」 と小さな標識だけでも残してくれるセンスが欲しいところな……などと筆者は思う。




■ 黒羽




白旗城址前から黒羽にかけては、ふたたびのどかな雰囲気で軌道跡が伸びていく。この付近はセンターラインもない 「単に舗装だけしてみました」 という風だが……




それも市街地に入った途端に対面通行用に拡張された道路になる。まあ住民の生活の利便性を考えれば、鉄道跡のロマンなんてものは屁のような存在だろうからこれは致し方ない。

さてそれはともかく、もう終点(※営業終了時点での)は目の前だがここで何気に重要なカーブミラーがあるので注目しておきたい。



カーブミラーといっても、着目すべきなのはミラー本体ではなくそこに括りつけられた小さな標識の方である。もうほとんど風化して読めなくなっているが、ここには 「きしゃにちゅうい」 と書いてある。ここはゆるやかなカーブを描きながら黒羽駅構内に侵入していく経路にあたるのだが、もしかするとローカルな踏み切りなどがあったのかも知れない。

この標識は5~6年ほど前の記録を見るとまだ文字が読める程度の塗装が残っていたのだが、現在ではすっかりそれもハゲて急速に風化が進んだ感がある。もうあと数年もしたら完全に朽ちてしまうのではないだろうか。鉄道現役時代の本物の標識の中で、ほぼ唯一現存しているものらしいだけに非常に惜しい気がする。




その標識からおよそ100m、農業倉庫が見えてくると…もう黒羽駅の構内である。ここの倉庫は鉄道現役の頃の面影を非常によく残している。

倉庫の手前が貨物ターミナルだったようで、現在キリスト教会のあるあたりから構内線が分岐して整備場などに繋がっていたらしい。




現在ではホームセンター「コメリ」 が建っているあたりが黒羽駅の旅客ホームだった。駅舎の正確な位置がよくわからないのだが、道路の状況からみて現在さかいりショッパーズになっているところがそれに相当するように思われる。




さてここでふたたびネコ・パブリッシング社の 「東野物語」 から当時の黒羽駅の様子を引用してみよう。上の写真と比べると、倉庫の状況は今とほとんど変わっていない。…まさに、"ここ" である。

黒羽駅は機関区(=車両整備場)を兼ねていて構内は非常に広かったらしい。現在の道路状況から推計すると構内は幅100m、長さ250m程度はあったように思われる。これが古い黒羽の城下町の西端にぴたりと吸い付くような立地で位置していた。




黒羽は、戦後まもなくの東野鉄道にとっては貴重な収入源だったらしい。戦後の復興期、特に林業の盛んな黒羽産の材木は首都圏の旺盛な住宅建設需要に支えられて飛ぶように売れたそうで、その輸送を担った東野鉄道も大いに潤ったらしい。さきに述べた金丸飛行場の消失による損失は、この材木需要が補う形になってうまく相殺されたらしい。

…しかしそれもやがて一巡し、いよいよモータリゼーションで自家用車も普及し、さらにトラック輸送が盛んになってくると東野鉄道の輸送機関としての優位性は次第に揺らいでいった。そしてついに昭和43年、鉄道からの撤退と、バス路線を中心とする業態への転換(※)が図られていくことになるのである。

その最後の記念列車はこの黒羽駅から発車していった。昭和43年(1968)12月15日のことである。

※補足:東野交通はタクシー事業、ロープウェー事業なども行っておりバス路線オンリーではない。




かつて整備場のあった付近は現在でも東野交通の敷地として残っていた。その殆んどは更地になっていたが、取材時にはバスが1台停まっており、その一角には小ぢんまりとした乗務員休憩所が建っていた。…今は、これだけである。

鉄道というのは巨大な不動産の塊でもあるのだけれど、それらを処分して身軽になりバス路線に特化した東野交通は、現在では驚くほどダウンサイジングして徹底した効率化を追求している。

…しかしそれにしても、この今昔の装備/施設の厚みのなんと違うことか。




時代の流れとはいえ、交通インフラが生き残るというのは、本当に大変なことなんだな。


<後編につづく>