2010.04.30 東野鉄道の廃線跡を訪ねる:後編(その3)
■ 終点:那須小川の風景
さていよいよ終点:那須小川駅に向かって進んで行こう。鉄橋跡から南側700mほどの区間は水田の区画整理が行われて線路跡は既に失われているが、那須官衛遺跡と上川原集落のちょうど中間地点から小川中学校に向かう道路は健在で、現在でも一般道路に転用された鉄道のルートを辿ることができる。
……しかしかつての鉄路の跡も、現在では絶賛拡張工事中で既にその面影は無かった。それにしても、こんなに路幅を広げてそんなにクルマが通るのかね。
やがて市街地に入り終点が見えてくる。ゆるやかなカーブを過ぎると最後の約1kmの直線区間の果てに……
小川中学校が現れた。ここがかつての那須小川駅の跡地である。おお、やっと着いた~♪
この中学校の開校は戦後間もない昭和22年だそうで、昭和14年の鉄道路線廃止から大東亜戦争を挟んでまもなく用地転用されたものらしい。東野鉄道は借金返済と財務強化のためこの区間の廃止直後にレールを撤去して売却(※)していたため、機関区をはじめ構内の大部分は更地の状態だったと思われる。
※当時は日中戦争の最中で鉄の価格が高沸しており、敷設時の3倍の価格でレールが売れたという
駅の周辺を地図にあらわすと↑このようになる。さきに述べたように小川集落は東野鉄道にとっては中継点のひとつという位置づけで、駅前集落もそれほど大きなものではない。合併前の小川町の人口は6000人そこそこで、おそらく駅前集落はその半分にも満たない規模だろう。戦前はさらに少なかった筈だ。
地元の人々にとってこの鉄道は福音であったことは確かだろうが、しかしそれは鉄道会社に利益を約束するような状況ではなく、路線延長が困難になった時点で早晩破綻がやってくるであることは避けられなかったともいえる。
…そしてやがて、ここから馬頭を経て大子に向かうか、喜連川を経て氏家に向かうか、その結論を得ないまま路線は不況の波間に消えていった。黒羽~那須小川間に鉄道が稼動したのはわずか15年という短い期間だった。
中学校正門の方に回ってみた。なにやら工事中で写真栄え的にはちょっとアレなのだが、目標としていた校舎前の2本のプラタナスは見ることができた。この木は那須小川駅が現役の頃に植えられたものだそうで、今では中学校の校舎正面に位置している。当時から残るほぼ唯一の遺産である。
その先には東野交通の営業所が慎ましやかに…というよりは "廃墟の一歩手前” という風格?をもって建っていた。今はアスファルトもぼろぼろになりつつある駐車スペースは、かつてはバスでも停まっていたのだろうか。
現在ではタクシーの営業所として使われているらしいが、周辺の民家と比べても明らかにお金をかけていないことが見て取れ、ここだけが昭和30年代くらいで時が止まったかのようだった。…かつては那須野を縦横に走った鉄道会社は、今では巨大なる不動産の塊=鉄道路線を処分して、かつての駅構内の数十分の一にダウンサイジングして存続しているのだった。鉄道を廃業したので現在の社名は東野鉄道(株)から東野交通(株)となっている。
なお東野交通の名誉のために申し添えておくけれど、建物はボロボロでもクルマの手入れは行き届いており車体はツヤツヤである。企業経営では設備にお金を掛けないことは美徳でもあるので、これはこれで決して悪いことではない。我々がバスやタクシーを利用する場合、べつに営業所の建物が立派だから乗るわけではなく、サービス内容や利便性を評価して乗っているわけだからこれで正しいのである。
むしろこれだけクルマが普及した現代において、地方で交通業を営み利益を出して従業員に給与を支払っているというのは大変なことなのであり、その努力は認められてしかるべきだろう。
※でも心情的にはもう少し運ちゃんの休憩所に "憩い" とか "潤い" があっても良さそうな気はするなぁ…
■ 老人と駅
さて、もう見るべきものは見たということになるのだろうけれど、他に何か残っていないものかカメラ片手に雨の中を散策してみた。中学校脇に古い塀の跡があるので何だろう…と調べていると、一人のご老体に 「何か探しものかね」 と声をかけられた。事情を話すと、あんたみたいな人は最近も来たよ、と言う。
ご老体はどうやらここの地主らしく、なんと現役時代の東野鉄道を知っていた。聞けば駅の遺構はやはり建物としては残っておらず学校建設とその後の追加工事でほぼ完全に撤去されてしまったらしい。
「向こうに、学校の駐輪場に入っていく小道があるでしょう、あれが本線の跡ですよ。ホームは向こう側にあった」
そういって指差す先には、クルマ一台通るのがやっとという小道が続いていた。70年前の鉄道の記憶をもっとも忠実に残す区間は、こんな目立たない通学路の末端として存続していたのだ。
駅前は、意外なことに何も無いところだったという。広大な土地を持っていた地主が土地を手放そうとせず、駅前の開発は停滞したままで中心市街地のあったR294までの300mほどは、ただ桜並木があるだけのだだっ広い野原だったらしい。麦や米の収穫期には、そこに荷を積んだ馬車がやってきて並木に馬をつないで一服している光景が見られた。春には桜が一面に咲き、まだ少年だった老人の心にを感動をもたらしたという。
鉄道が廃線になったのち、さきの地主氏は事業に失敗して土地を手放したらしい。高崎のほうから誰それ(個人名も聞いたのだが失念してしまった^^;)がやってきてその土地を買占め、やがて紡績工場が建って町は潤ったという。
鉄道の話から始まった雑談は次第にあっちこっちに飛んで多少の迷走を伴ったが、筆者は黙って聞き入っていた。老人の人生がこの駅前の変遷とともにあったことがよくわかり、その内容は書籍やネット検索では見つからない類のものであった。事情を知らない人が見ても何の興味も持たないであろう住宅地の一角には、驚くほど濃密な個人史が刻まれていることを、そのとき筆者は知ったのであった。
これは駐車場の仕切り壁だよ…と、ぐるりと話題が一回りして戻ってきた。いかにも駅の遺構と紛らわしく残っているのは、さきの紡績工場の関連施設らしいのだった。
…しかしその工場も、今はもうない。ついでに言えば小川町というかつての自治体も今は馬頭町に吸収合併されて無くなっており、合併後の名称は那珂川町となった。鉄道の郷愁はいまや遥か遠くに去り、時代はめまぐるしく変わっているのであった。
「ぜひ、あれを見ていってくださいな」 …と、最後にご老体は商店街の一角にあるらしいレリーフのことを教えてくれた。この町で唯一の記念碑ということになるらしい。そこで筆者はご老体に礼を申し述べて、それを見に行くことにした。
人口が少ない(+予算が少ない)割に、合併前の小川町は中心市街地の整備にはそれなりの投資をしたらしく、通りに面した部分は電線も地中化され小洒落た雰囲気になっている。雨も降っているので一旦は通り過ぎてしまったのだが、慎ましやかに建つ記念碑は割と簡単に見つけることができた。
これが、その記念碑である。大正から昭和にかけて、たった15年間ではあったけれどこの町を東北本線に接続して交通の大動脈に結んだ夢の鉄道…。今は、このレリーフただ一基のみが、その終点であった小川集落においてその雄姿を伝えている。
老人の言葉ではないが、他にはもう何も無いのであった。そう…今は、これだけである。
【完】
■ あとがき
暇人の1日ドライブではありましたが、まとめようとすると結構調べることが多くて時間がかかってしまいました。いつものごとく最後は 「えいや…!」 でしたが如何だったでしょう。
日本の鉄道史を紐解くと、特に戦前の地方鉄道は最初から最後まで貧乏国の悲哀に満ちていまして(笑)、関東では本格的な長距離路線は高崎線から始まったと思いますが、これは私鉄として敷設されたものを後に国有化していますし、東北本線も同様で、最初は華族などの出資で敷設された路線がたくさんあるわけです。(※日露戦争前の鉄道は7割が私鉄だったそうで…)
日露戦争以降、鉄道国有法によって主要路線が国有化されるのですが、やはり国の予算が足りなくなって鉄道整備は停滞し始めます。そこで軽便鉄道法(明治43年)が施行されやはり地方の鉄道はある程度私鉄で路線を充実させようという一種の規制緩和が行われました。これが契機となって全国で鉄道敷設ブームが起き、今回取材した東野鉄道もそのムーブメントに乗って設立されたものです。
郷愁の野州鉄道(随想舎)を参考に栃木県北部の鉄道網を絵に起こしてみたのが↑これですが、今は廃線になってしまった路線が多いものの、かつては様々なローカル線が県内を縦横に走っていたことがわかります。特に戦前は道路の舗装率が2%程度でしたから、安定して大量の貨客を運ぼうとした場合、やはり鉄道を敷設するのが一番手っ取り早かったのでしょう。
しかし、こういった交通インフラの整備は常に利権と表裏一体で、特に政治家の介入で票目当ての路線変更などは珍しいことではありませんでした。本編で触れた烏山線の伸長などはその典型で、背後にいたのは森格らしいのですが、この人物は軍部にも近く発言力も大きかったのできっと東野鉄道もビビりまくりだったことでしょう。戦争の拡大で結局烏山線は馬頭以東まで伸長することなく、現在のような "東北本線のヒゲ" のような路線でとまってしまいますが、このゴリ押しがなく当初の予定通りに東野鉄道が茨城県まで伸長していたら、水戸線と接続してまた違った発展を那須野ヶ原にもたらした筈で非常に惜しい気がします。
さて国内における地方鉄道の黄金期は戦後の高度経済成長期くらいまでで、その後は本格的な自家用車/トラック輸送の普及で次第に斜陽化が進んでいったのはよく知られている通りです。昭和40年代はそれが臨界点に達して全国でローカル線の廃止が相次いだ時代で、東野鉄道もまたその波に飲まれていきました。
東野鉄道の廃線に決定的だったのは、やはり鉄橋の建設資金による財務悪化でした。昭和41年9月25日、台風25号の襲来で蛇尾川の鉄橋が倒壊/流失し、突貫工事で復旧が始まったものの3ヶ月以上も通行が止まってしまいます。
翌年1月に工事は完了し通行再開したのですが、この費用の調達で会社経営は立ち行かないところにまで揺らぎ、ついにその翌年、東野鉄道は鉄道事業そのものの継続を断念したのでした。
その歴史、51年あまり。
…しかしその歴史も、すでに廃線から43年が経過し、人々の記憶からも抜け落ちはじめています。幸い西那須野~大田原間は 「ぽっぽ通り」 として記憶の保全が曲がりなりにも図られましたが、それ以外の区間では遺構は破壊される一方で誰も気に止めている様子がありません。
まあ産業遺跡というのは創業停止直後は粗大ゴミみたいな存在ですから扱いが難しいのは事実ですが、実際に路線跡を走ってみて、やはり地域に貢献したインフラだったのですから、小さな立て札程度でよいから何らかのシンボルは残して欲しいな……と旅人は思ってみたのでした。
<おしまい>