2010.07.19 熊谷市籠原:夏祭り ~消えてしまった牛頭天王の系譜~




熊谷市の籠原夏祭りを見てまいりましたヽ(´ー`)ノ


 
熊谷の秘密基地にほど近い高崎線:籠原駅前で夏祭りが行われていたのでちょこっと行ってみた。

熊谷の中心市街地ではではウチワ祭りと称する結構な規模の祇園系の祭りがある。しかし平日開催ということもあってさすがに首の皮一枚の底辺サラリーマンの身の上ではちょっと行きにくい。その代わりといってはナニなのだけれど、祝日(海の日)に合わせて開かれていた籠原の方の祭りを見物してみようと思い立ったのである。

籠原の鎮守社は駅の南口にある諏訪神社だ。商店街は駅の北口側に形成されており、祭りはこの商店街側で行われている。ここは目前を走る中山道≒R17においては熊谷宿、深谷宿のほぼ中間にあたり、江戸期には立場(継場)として旅行者のための休憩所が置かれていた。両隣の宿場の陰に隠れて知名度としてはややマイナーではあるが、集落の歴史はそれなりに古い。なお神社には隣接して大正寺という仏寺があり、位置的にみるとどうやらここが神宮寺にあたるような気もするのだが詳細は調べていない。


 
さて祭りの区間にはクルマは侵入禁止なので、R17側から歩いてアプローチしてみよう。山車がぐるぐると付近を巡回しているようで祭囃子が賑やかに聞こえてくる。

…が、すっかり都市化してしまった幹線道路沿いでは 「祭りなど知ったことか」 とでも言いそうなクルマの列が行き交っていて、伝統行事もすっかり喧騒の中に埋没してしまっていた。昔は祭りといえば地域が一体となって盛り上げた筈であろうに、なんとも21世紀の日本というのは味気ないなぁ…


 
それでも駅前商店街までたどり着くと、ちゃんと縁日の風情が生きていてホッとしたw


 
ぐるぐると付近を練り歩いている山車(だし)は、ちょうどこのときガード下で2基が競り合って囃子合戦をやっていた。

大提灯には 「本町」 「籠原」 と書いてある。本町とはJR籠原駅から東側に伸びる商店街一帯の集落をいい、籠原とは駅前から中山道(R17)方面に伸びる道すじの集落を指すらしい。祭りは、この二大集落が互いに山車の絢爛豪華さや囃子の激しさを競う形で行われるようだ。祭りの形式としては祇園系である。



 
ちょうど腹が減っていたので露天をハシゴしながらあちこち見て回る。
・・・まああまり奇抜な出し物というのはなく、いたって常識的な縁日風景といった感じかな。



 
そんな超絶混雑している出店の列の中を、囃子合戦の一段落した山車がごごごご~と通り抜けていく。この人ごみの中を通るのか!? …と少々驚いたが、まあ祭りなので何でもアリと受け止めよう。

山車は20mほどの綱2本で引かれていく。正確な人数はよくわからないが30~40人ほどの町衆が掛け声を上げながらそれを引いて練り歩いていくのである。どこへ行くのかというと、本町~籠原の繁華街を抜けていったん中山道(R17)に出てまたぐるりと戻ってくるようで、この1週1kmほどのコースをぐるぐると何週も回っては囃子合戦を繰り返すらしい。これはかなり体力勝負のガチンコ系である。


 
駅前までやってくると、神社の出張境内らしきものが臨時に造られていて、御祓いサービスを行っていた。貧乏サラリーマンの筆者も武運長久と生活の安定(…切実なので ^^;)を祈願してお払いをしてもらう。

これで宝くじで3億円くらい当たれば左団扇で写真道楽ができるのだが……しかしそのためには 「宝くじを買う」 という筆者にとっては馴染みの無い行為をしなければならないのでまだ少々ハードルは高いかもしれない(笑)



 
ところでこの夏祭りには日本の信仰の歴史を考える上で少々面白い側面が見え隠れしている。それは集落の鎮守社が祭りのときだけ八坂神社に早代わりすることである。神社のつくりとしては間違いなく諏訪神社なのだが、ここでは諏訪大神の影は限りなく薄い。

駅前にどどーんと飾られた絵図を見ると、記紀神話に描かれる素戔男尊(スサノオ)神のヤマタノオロチ退治であった。オロチの首が1つしか書かれていないので少々分かりにくいが、背後に櫛名田姫(くしなだひめ)、そしてて手前に酒を満たした瓶が置いてあるのでヤマタノオロチ退治の場面であることがわかる。

地域最大のお祭りで神社の名称が変わること、あるいは地域に直接関係の無さそうな(※ヤマタノオロチは出雲の話である)スサノオノミコトが出てくることの理由は、祭りの案内書をみても何も書いていない。


 
今回は短稿なのでいきなりネタをばらしてしまうが、これは明治時代の廃仏毀釈の影響が色濃く残っているものだ。

もともとここに祀られていたのは牛頭天王(ごずてんのう)という仏教系の神様で、それが明治維新のときに抹消されてスサノオに置き換わったのである。 祭りの形式だけが牛頭天王時代の名残を留めていて、そこにスサノオがちょこんと乗った構造になっているので 「あんた誰?」 的な唐突感のある状況が生まれているといえる。

 


■諏訪大社、そして八坂神社の周辺事情



 
さて駅の陸橋を渡って神社本体を見てみると、「村社諏訪大神社」 と書かれた神域が広がっている。これがこの神社の表向きの顔である。…といっても別にフェイクというわけではなく、おそらくは諏訪神社としてのありようがこの神社の最も古い形態なのだろう。

諏訪神社はもとも鎌倉時代の北条氏の所領に多い神社である。諏訪神社(長野)本家の神官でもあった諏訪氏は鎌倉時代、執権北条氏に幕府官吏として仕えており、関東周辺で一定の宗教的権威をもっていた。祭神の建御名方神(諏訪明神)が軍神であることから、武家の棟梁である北条氏の本拠地=関東に多数の諏訪神社が勧請されて祭られたという経緯があり、おそらくここもその末社のひとつということになるのだろう。


 
しかし年間の行事予定をみると、一番盛大な夏祭りのときだけ八坂神社になっている。諏訪神社で八坂に通じるものを探すと、諏訪明神=建御名方命の妃の名が八坂刀売命であり、多少のムリヤリ感はあるが一応繋がっている。

もっとも日本の中世の宗教史では言葉遊びのような語呂合わせは珍しくはなく、ご利益さえ見込めればイロイロな神様を雑多に合祀してまとめて祈る風景はよく見られた。祭りが八坂神社形式ということは、近世においてこの集落の人々が最も関心をもった神様の祭礼が、本家諏訪大神の人気を上回って主客逆転したように思える。

…その神様とは、さきに述べた 牛頭天王(ごずてんのう)である。

牛頭天王は簡単に言えば仏教の守護者であり厄除けの神だ。武士階級に人気のあった神の筆頭が八幡神、諏訪明神などの武神とすれば、一般庶民に現世利益を約束し人気のあった筆頭がこの牛頭天王といえる。



 
八坂神社の神は、この牛頭天王である。出自としては仏教系の渡来神で日本の土着神ではない。歴史を溯ると元々は疫病神ということになるのだが、それが転じて疫病封じの神 (=厄除けの神様) として平安時代以降の日本で広く信仰の対象となっていた。このあたりの経緯は怨霊から転じて学問の神となった菅原道真(=天神様)とよく似ている。

仏教に於いては、牛頭天王は釈迦の眷属として描かれ、釈迦の開いた最初の寺院=祇園精舎の守り神ということになっている。牛頭天王を祀る祭祀が祇園祭の通称で呼ばれるのはこのためである。日本でこの祭祀が行われたのは平安時代初期(貞観五年=863)の祇園御霊会からと言われており、このときは都の疫病の流行を鎮めるために朝廷が祭祀を行った。京都祇園祭はこれが起源といわれている。

ここでいう眷属とは要するにお釈迦様の子分のことである。仏教の巨大なホトケ様ファミリーには、かつてはインド各地のローカル神や悪鬼の類だった精霊などが取り込まれ、〇〇天とか〇〇明王などの名称で教団の用心棒的な地位に就いているものが多い。もちろん釈迦の唱えた原初の仏教にこんなものはなく、飽くまでも後付けの設定である。ゆえに今風に表現すれば、ヒットした少年漫画で次々とキャラクターが増えていってそのうちツッコミどころ満載の矛盾が出てくるように、整合性の取れない部分や "キャラの被り" のような現象がおきてくる。

※上図はWikipediaのフリー素材から引用
※密教の曼荼羅に登場する仏の数は1800以上おり、それでも全てを網羅したわけではないといわれる



 
仏教ではその矛盾やキャラ被りを "化身" という説明でなかばムリヤリ丸く治めようとしており、日本で神道と混交した際にも本地垂迹としてこのロジックが使われている。

牛頭天王について言えば、日本神話に登場するスサノオ神の本地として説明された。つまり慈悲深い牛頭天王は、いきなり仏法について語っても理解できないであろうヤマトの民に対しては、まず彼らに理解しやすいスサノオという形になって現れ法を説いたのだ…という理屈である。

そんなご都合主義な……と思う方もいるかもしれない。しかしこういうロジックを考え出したことで、仏教は日本に浸透していく際に深刻な宗教戦争を起こさずに済んでいる。お陰であらゆる事象がゴチャマゼのわけのわからない信仰形態が出来あがったとも言えなくもないが、それは筆者の責任ではないのでここではスルーしよう。

※上図はWikipediaのフリー素材から引用
※ちなみにその牛頭天王自身も、実は薬師如来の化身ということになっている



 
さてそんな牛頭天王ではあるけれど、幕末までは厄除けの神として広く民間の信仰を集めていたものの、明治維新でその運命は暗転する。

王政復古によって一躍歴史の表舞台に躍り出た明治天皇は、宗教的には神道の大神主の地位にあった。その権威を高めるためには仏教系の寺院にあまり大きな顔をされては困る、というのが明治政府の立場で、これが神仏分離令、およびその後の廃仏毀釈に繋がっていった。神仏分離令の出た時期は非常に早く、鳥羽伏見の戦い(→戊辰戦争勃発)の僅か2ヵ月後、江戸城の開城目前というタイミングであった。

こうして明治初期のわずか5年ばかりの間にそれまで日本各地で同じ境内で共存してきた神道的なものと仏教的なものが分離され、あるいは仏寺としての体裁を抹消して神社/神宮へと切り替わった。まさに激震が日本の宗教界を吹きぬけ、その勢力地図を塗り替えたと言っていい。


 
そのなかで牛頭天王も排撃の対象となり、京都でこの神を奉じて祇園際を執り行ってきた祇園感神院(仏寺)は名称を八坂神社と変えた。八坂は神社の所在地名で、特にこれといったひねりはない。牛頭天王については本地垂迹の理論上はスサノオの姿になることから、主客逆転してスサノオに読みかえられた。

日本神話の英雄を祀りながら祭祀が何故か仏教系という中途半端な状態は、あと数年廃仏毀釈の運動が続いていたなら完全に神道系のものに統一されたかもしれない。しかし仏教勢力の中にも浄土宗など新政府を支援した勢力があり、ある程度の巻き返しが図られた。その結果、仏教解体を目論んだ過激な国学派志士はやがて退けられ、祭祀行政を担当していた神祇官、神祇省の解体とともに廃仏運動は尻すぼみとなっていった。それが、現代に尾を引く八坂神社(神道)+スサノオ(出雲の英雄)+祇園祭(仏教儀式)のセットの近代的成立の顛末である。

※過激な宗教改革でもあった廃仏毀釈が数年で終了したのは、神道の強要を過度に進めすぎると欧米列強との関係上キリスト教の扱いが問題になるとの側面もあったとの指摘もある。…が、長くなるのでここではカット。



 
こうして祭の主役であるはずの牛頭天王は、各地の神社から一斉にいなくなった。そして 「読み替え」 によっておびただしい数のスサノオ神を祭る神社が誕生したのである。

祭りが祇園系で祭神がスサノオ神という組み合わせの神社は、おそらく明治維新以前にはいずれも牛頭天王を祀っていたものと思われる。その数は全国で2000社を越え、ここもそのうちの一つということになるのだろう。

そのあたりの事情を聞いてみようと法被(はっぴ)を着ている実行委員らしいおっさんに質問をしてみたが… だいぶお酒が入っているらしく 「あぁん? 祭りの時だけ戦(いくさ)の神様になるんだぉ、がはは!」 以上のことは聞けなかったw …まあ細かいことはイイんだよ、ということで実に日本的な回答ではあるな。


 
さて駅前で山車が何度目かの囃子合戦を始めている。明かりがともってイイカンジになってきた。


それにしても、普段は何の特色もない小さな駅前なのに、祭りとなると生き生きとした風情が感じられるのはどうしたことだろう。宵の残照と、明かりと、囃子と…やはり、非日常性の為せる技なのかね。



タコヤキを頬張りながらウロウロしていると、やがて3基目の山車がぐるりと周回コースを巡ってやってきた。屋根の上にはお祭り男が乗って気合を入れている。高いところが好きな奴はナントカの特性があるというけれど、まあ冗談はともかくこういう手合いがいるからこそ盛り上がる祭りもある。

祇園祭で派手な山車が登場したのは室町後期の頃と言われ、それ以降は山車=祇園祭のイメージが定着していく。本来の疫病封じの祭祀という意味合いは現在では希薄になっており、おそらくその種の神事は今でも行われているのだろうけれど一般参加者の意識からはすっかり遠のいた感がある。それが良いことなのか悪いことなのか筆者にはよく分からないが、そもそも祭りとは神様とやりとりする儀式の側面と、民衆がそれに乗じてドンチャン騒ぎする側面があって、いわゆる 「盛んな祭り」 というのは圧倒的に後者の割合が大きい。

祭りは参加する人々が減ってしまえば衰退する、まさに "興行" の側面のある催し物である。こうしてたくさんの人が詰め掛けてくるというには、きっと良いことなのだろう。



 
やがて3基そろった山車の囃子合戦が始まった。駅前は人々で埋め尽くされ、まさにお祭り騒ぎとなっていく。

囃子合戦は夜中まで続いていくらしかったが、さすがにそこまで見ている訳にも行かないので筆者は途中で引き上げることにした。

普段の生活では考えられないような瞬間人口密度を達成した祭囃子の空間は、まだあと数時間は続くだろう。その喧騒は通りを幾本も隔てた先まで、かすかに響いて聞こえていた。

<完>