2011.01.01 初詣:塩原八幡宮
初詣に塩原八幡宮に行ってまいりましたヽ(・∀・)ノ
塩原八幡宮は、那須塩原市の中でも相当奥まった塩原温泉街の外れ(もみじラインの登り口付近)にある塩原盆地の鎮守社である。冬季は道路が凍結するためノーマルタイヤで上るのは少々厳しく、また温泉街に宿泊するならともかく平地から深夜に出かけていくにはやや遠い立地になる。そのためか由緒のある古社の割に初詣で訪れる人は少なく、正月の人出は例年2000名程度と言われる。平地にある乃木神社が例年5万人程度の人出で賑わうのと比べると、非常に対照的な "山間の社" といえるだろう。
塩原八幡宮の創建は平安時代草創期の大同2年(807年)と伝えられる。塩原温泉で最も古い元湯が発見されたのが大同元年(806年)といわれるから、開湯とほぼ同時期までその歴史は溯る。今回はその古社に初詣をしてみようという趣向である。
さてそんな訳で大晦日の午後10時半頃にゆるゆると出発した。道路はすっかり凍結している。途中の渓谷路は明かりもなく真っ暗だが、那須塩原駅を基点にしておよそ40分ほどで温泉街の明かりがみえてくる。四駆+冬タイヤでなければこの季節の夜間に訪れるには少々勇気のいるシチュエーションだが、しかし思ったほどの雪はない。
温泉街には人気(ひとけ)はなく、ひっそりと静まり返っていた。年越しの宿泊客もいる筈だが、さすがに氷点下の屋外をホイホイと徘徊している人は居なさそうだ。スタッドレスタイヤの氷を踏むシャリシャリという音だけが響いていく…
■源義家のことなど
さて本サイトで塩原八幡宮に触れるのはおそらく初めてと思われるので少しばかり紹介をしておきたい。
塩原八幡宮は温泉街から少し溯った崖の中腹の湧水地にあり、観光スポットとしては境内にある二本一組の杉の巨木が有名である。その名を逆さ杉(さかさすぎ)といい、国の天然記念物に指定されている。伝説では平安時代中期の奥州での大乱=前九年の役のとき、奥州に向かう途中の源義家がここを訪れ戦勝祈願したといい、その際に箸の代わりに杉の小枝を二本折って食事をし、それを逆さにして地面に刺して立ち去ったところ後に根付いて大樹となったと言われている。
源義家は清和源氏初期の有力武将(棟梁)である。京都の岩清水八幡宮で元服したことから八幡太郎義家を称したといい、塩原八幡宮とはもちろん八幡神つながりで縁がある。ただし本人が本当にここに来たか…というと、それを明示するような一次資料は残念ながら見当たらない。
※八幡神は源氏の氏神であり、のちに源頼朝が鎌倉幕府を開いた際にもその鎮守社は(鶴岡)八幡宮であった。戦勝祈願で祈る神は基本的にはその武家の氏神であり、有名なら何でもいいという訳ではない。源氏の軍であればその氏神=八幡神に祈りを捧げるため行軍途中でいずれかの由緒ある八幡宮に立ち寄った筈であり、奥州との国境を目前にした下野国北部で参拝したとする伝説はそれなりに話の辻褄は合っている。
さてそんな訳でいよいよ塩原八幡宮にやってきた。辺りでは乾いた雪がサラサラと風に乗って流れていく。写真ではなかなか伝わりにくいがかなり底冷えのする寒さである。
篝火(かがりび)に赤々と浮かび上がる門柱。まだ人は少ない。
…と言うより、ほとんど居ないな。
さて年が明けるまで少々時間もあるので八幡太郎義家の話を少し続けよう。
源義家は、平安時代中期にあってなお朝廷に完全には服属しない奥州で、独立の気運を持った地栄えの有力豪族 (安倍氏、清原氏)を平定する功績を挙げた武将である。奥州との関わりは父である源頼義が陸奥守に任ぜられて以降のことであり、のちに本人も陸奥守/鎮守府将軍(北方の軍事を掌握する役職)として多賀城に赴任した。
奥州の戦乱は多少の緩急を伴いながら 前九年の役(1051~1062 vs 安倍氏)、さらに 後三年の役(1083 ~ 1087 vs 清原氏) と続いて一応の収束を得たのだが、その後は奥州藤原氏が台頭してやはり半独立の状態を保ち続けた。その意味では朝廷側が完全勝利したとも言いがたくスッキリ感もいまひとつである。
しかしこの断続的な戦争を通じて武士の組織化、意識変革がすすみ、むしろそちらの方が歴史的な意義は大きい。それまであまり大きな組織的まとまりを持たなかった個々の武士が、ピラミッド状の主従関係を結んで大きな武士団を形成していくのがこの頃なのである。
主従関係が強まった象徴的な事例は論功行賞のゴタゴタであった。特に後三年の役では朝廷の官符(命令書)が出ていない状態で戦闘がはじまり、事後承認が認められないまま戦線が拡大したことから問題が大きくなった。
後三年の役は安倍氏亡き後に奥州最大の豪族となった清原氏の内紛が発端であり、源頼義はこの機を突いて清原氏の勢力を駆逐することに成功した。その点では朝廷の長年の宿願を果たしたともいえるのだが、しかしこの戦いは正式な手続きが行われないまま兵を動かしたことから 「私戦」 とみなされて朝廷からは戦費も恩賞も出なかった。それどころか義家は戦乱の終結後に陸奥守を解任されてしまい、動員された武士たちは給料も支払われず捨て置かれることになったのである。結果的に朝廷は、その果実だけを手に入れて戦功著しい有力武将を政治的に抹殺し、末端の武士は切り捨てた格好になった。
※写真はWikipediaのフリー素材より引用
しかしこのとき、義家は自らの財産を処分して配下の武士に恩賞を与えるという実に男気なことをするのである。義家本人は陸奥守解任後、10年間にわたって朝廷に参内することを許されず出世もなく、また荘園も停止されるなど政治的、経済的にイヤガラセをうけており、懐にそれほど余裕があったとは思えない。しかしその境遇にあってなお部下を大切に扱ったことで、在野の下級武士の支持を集めることとなった。
奥州合戦で動員された武士には関東出身の開拓農民出身者が多く含まれていたらしい。そもそも義家は武蔵守、下野守、相模守など関東諸国の国司を歴任しており、前九年の役 (このときは主役は父:頼義で義家は元服間もない若武者である) では鎌倉に兵を集めてから奥州入りしている。その意味ではこの頃から関東に基盤を築きつつあったといえるが、やはり決定的だったのは後三年の役のときの私的恩賞下賜だろう。この時代、朝廷の権威など存在しなくても恩賞と奉公の関係が成り立つというのは実は非常に画期的なことだったのである。
これがおよそ100年後に、子孫である源頼朝が関東で武家政権を樹立する際に、一斉に在地の武士団が蜂起して味方についたことの伏線になっていく。
そのような次第で、これらの物語を知った上で奥州と朝廷の関係、および下野国北端部のおかれた地理的条件(=奥州との境界)をみていくと、この地に残された義家伝承の面白さが浮かび上がってくる。閑散とした山間の古社であるけれど、そこには大きな歴史の流れとちょっとしたロマンが秘められている。
※写真はWikipediaのフリー素材から引用
■神域にて
さて歴史談義はほどほどに、えらく暗い境内を奥に進んでいく。
奥にいるのは氏子の皆さんで、一般客はほとんど見えずテキヤも一軒も出ていない。…というか、儲けが期待できるほどの人出がないので露天が並ぶような光景にはならないのかもしれないな。
しばし火に当たって時を待つ。静寂とパチパチ燃える篝火の音。そして静かに舞う粉雪…。やはり、新年を迎える儀式というのはこういう雰囲気のほうがいい。
TVもラジオもない時代、もちろん人々は紅白歌合戦を見るでもなく、静かに大晦日を過ごしていた。大晦日は 「おおみそか」 の他に 「おおつごもり」 とも読む。太陰暦でいう月の終わり=月末を晦(つごもり)というが、それに「大」をつけて一年の終わりを表わした。
古くはこの大晦日に翌年の年の神を迎えるために深夜まで起きている習慣があったそうで、子の刻(深夜0:00)に年が改まるのを境に神社仏閣に連続してお参りする "二年参り" が行われていた。それはつまり、いま筆者がやろうとしていることと余り変わらない。正確な時計のなかった頃にはどうやって子の刻の正確な時間を計ったのか少し不思議なところもあるけれど、おそらくは現代の原子時計とは別次元の、もっとおおらかな時間単位で運用されていたに違いない。
ところで本来、初詣でお参りする神様とはその家の氏神である。細かいことを述べだすときりが無いので丸めた表現になってしまうが、自分の一族を守る神、さらには住む土地を治める鎮守の神=産土神を詣でるのが本来の趣旨ということになる。それは集落単位でどこの村にもあったお社を指すのが一般的だった。
しかし現在ではムラが合併に継ぐ合併で大きくなり、筆者の住む那須塩原市なども端から端まで移動するのにクルマで1時間もかかるような規模になっている。地元=市内と置き換えると、該当する神社仏閣はいくつもあり、特定の神様に帰属するという意識は希薄になった。新興の開拓地や造成されたニュータウンでは、鎮守社そのものが存在しない。筆者の氏神も、実はよくわからない。
正月にはもうひとつ、歳徳神という新年の幸運を運んでくる神様を迎えるという意味合いもある。歳徳神は正月にやってきて松の内が明けると天に帰ってしまう臨時の神様だ。その間、鎮守社に一次的に間借りしてシェアハウスよろしく同居するという形になるのだが、元の主たる神様とどういう賃貸契約になっているのかはいまだによく分からない。筆者的には年間労働日数が2週間というこの神様の平時の暮らしぶりが気になって仕方が無いのだが、誰も説明してくれないところをみると、きっと誰もわからないのだろう。
さてそろそろ時間なので神橋を渡って拝殿をめざす。
漆黒の闇の中、篝火に浮かび上がる逆杉。しばらく来ないうちに特徴的だった枝が随分と払われていた。樹勢回復処置によるものらしいが、ずいぶんとさっぱりしてしまったな。
杉の傍らには若水湧水の篝火がみえる。これもまた趣がある。
ここに神社が建った理由は、おそらくこの湧き水の存在によるものだろう。塩原渓谷で最も古い集落は現在の元湯温泉の付近で、現在の温泉街(江戸時代に形成された)は開湯当初は存在していない。おそらくは水源を神とした原始的な拝所があったのだろう。そこがのちに八幡神社に変わったのではないかと筆者は推測している。
拝殿にはデカデカと塩原八幡宮の大提灯が灯っていた。この社の祭神は誉田別命(=八幡神)ただ一人で、別の神は合祀されていない。八幡神は奈良時代の末期頃に応神天皇と習合しその後は玉依姫や神功皇后とセットで祀られることが多いのだが、ここでは単独で宮を形成しており非常に珍しいケースといえそうだ。もしかすると習合以前の古い形を残しているのかもしれないな。
…そうこうしている間に、祝詞が聞こえ始めた。
この段になって、人々が集まり始めた。神主が祝詞を読み上げ、氏子が頭(こうべ)を垂れる。やがて太鼓が打ち鳴らされ、新年が明けたことが告げられた。平成23年、西暦2011年の到来である。
新年を迎える儀式はずいぶんと手の込んだもののようで、いくつもの祝詞を読み上げてはなにがしかの所作が続いている。内容はよくわからないが 「オオオォォ~~~ン、オオオォォ~~~ン …」 と何かを唱えている声が聞こえている。
…面白そうなのでもう少し見ていたかったが、後ろを振り返るといつのまにか長蛇の列が出来ていたので早々に祈願を済ませて退場した。いったいどこから沸いて来たんだろう。
そういえば昨年祈願した鳩山政権の崩壊は無事に成就したのであったな。今年は菅政権の崩壊と日本の再生と筆者の武運長久と家庭円満とを祈願してみた。…案外、小市民的なささやかな願いである(え?)
境内では氏子さんが甘酒とお汁粉を配っていた。甘酒で飲酒運転が問われるとは思わないが(^^;)、一応念のため用心してお汁粉の方を頂く。氷点下の冷え込みの中ではこれが実に暖かい。
さてそのような次第で、今年もゆるゆるとやっていこう。厳しさの増す世相のなか住環境としてはいつまで熊谷との二重生活が続くのかさっぱり先は見えないけれど、幸せの基準を 「路頭に迷わない程度」 まで引き下げれば何が起こっても動じないでいられる。ともかく、潰れないように、壊れないように。そして多少の伊達と酔狂と心のゆとりを。
そのためにも、相棒の X-Trail と D-300 にはもう少し頑張ってもらおう。そして笑うのだ。あれやこれやと不幸探しをするよりそのほうがよほどいい。笑う門には福が来るという。そんな年であって欲しい。
<完>
■あとがき
初詣がメインテーマなので歴史談義的には割りとさらっと流した記述としましたが、本年最初のふらふらレポでした。いかがでしょう。
さて京から陸路奥州に向かう主要幹線路はなんと言っても東山道ですが、下野国衙から陸奥国に至るには白河を経由するルートと、会津を経由するルートが2大幹線道路ともいうべき地位にありました。文献からは源義家がどちらを通ったかを示す明確な記述がなかなか見当たらないのですが、国境に近い代表的な八幡系の古社として那須神社(大田原市)、および塩原八幡宮(那須塩原市)の伝承を調べてみると、那須神社が坂上田村麻呂+那須与一、塩原八幡宮が源義家となっていてダブリがありません。これは少々興味深いことです。
筆者は当初てっきり義家はメジャーな官道である東山道を通った=白河ルートで奥州入りしたのではないか…と思い込んでいたのですが、調べてみると白河の関は奈良時代~平安初期の頃は機能しているのですが、どうやら平安も中期頃になると廃止されてしまったようで、義家の時代には会津ルートを通った可能性も捨てきれないとの印象を持つようになりました。まあこのあたりは歴史ロマンに属する領域なので、旅人としては伝説の余韻を噛み締めつつ山間の古社を散策する自由を謳歌するのがよろしいかと思います。
…ところで十数年ぶりに訪れて筆者も驚いたのですが、最近出来た逆さ杉の案内板では逆さに箸を挿した伝説がなくなって、既にあった杉の大木に神気を感じて戦勝祈願したとの表記に変わっていました(爆) 筆者が子供の頃は遠足で来た折などに 「箸を挿した説」 を繰り返し聞かされたのですが、どうも最近は違っているようなのです。
人づてに聞いた話では何年か前に杉の樹勢回復処理を行った際に樹齢が1500年と診断され、源義家の年代(950年前)と計算が合わなくなってしまったのだそうで、その結果箸を挿した説が引っ込められてしまったとか。 …個人的には、伝承は伝承としてあまり由緒をコロコロ変えないほうがいいんじゃないかと思うのですが…まあ、日本人はそれだけ律儀なんだろうなと理解しておきましょう。
<おしまい>