2011.02.26 南房総:フラワーラインを行く:後編 (その2)
■安房神社
砂丘を眺めた後は、視界の利かない防風林の中をゆるゆると南下していく。やがて平砂浦の南端である相浜の集落に到達すると、フラワーラインは急峻な崖沿いを縫って南房総市との境界線を越えていく。
この相浜集落から少し奥まったところに、安房国の総鎮守である安房神社がある。創建はなんと皇紀元年(!!)で、これは紀元前660年にあたり、額面どおりなら縄文時代末期ということになる。九州に興った弥生文化はこの時期、まだ関東には及んでいない。
その由緒は初代天皇である神武天皇が、その孫である天富命(あめのとみのみこと)に東方(※)の開拓を命じたことに始まる。天富命はまず阿波国(現在の徳島県)を開拓したのちに、その阿波の豪族:忌部(いんべ)氏の一部を引き連れ海路黒潮に乗って房総半島南端に到達した。その最初の征服地に建立されたのが安房神社であり、占領された新・征服地は阿波と同じ発音を当てて安房と名づけられた。
これは神話における神武東征とリンクした征服と開拓の物語で、律令国の総鎮守としては非常にユニークな由緒といえる。ここではのちに開拓者である天富命も祭神に加えられ、下宮(同じ敷地内ではあるが)に祀られている。
※神話では神武天皇は九州を本拠地とし、東征して大和に入り初代天皇を名乗ったことになっている。
まあ皇紀元年の算定根拠にはご都合主義的なところもあるので多少割り引くとしても、居住地としても港としても圧倒的に優れている館山平野周辺には当初縄文系の先住民が住んでいただろうから、弥生系の忌部氏一族が入植したのが半島南端の僻地だったというのはいかにもありそうな話ではある。
その征服手段が武力的なものであったか文化的なものであったかはよく分からない。ただ、由緒では麻穀をもたらして広めたとあるので、その手法は 「良いものを授けよう」 式の布教型だったのではないかと想像したい。そうやって館山平野を掌握してしまえば、あとは地理的な要塞性がこの土地を堅固に守ることになる。安房国の原型とは、こうして律令の頃までに固まった "弥生の飛び地" の残照のような領域なのかもしれない。
さてあまり妄想に浸っていてもアレなので、さっそく参道を進んでみよう。
菜の花やポピーが満開なのになぜか桜並木が開花していないのが不思議なのだが、植物学的にはこれもまた温暖な気候の影響ということになるらしい。桜は一度冬季の寒波にさらされてから春を迎えないと "開花のスイッチ" が働かない。つまり明瞭な冬のない南房総では中途半端に暖かいだけの2月には桜は咲かず、結局さらに気温の上がる3月末~4月初旬の頃になってじわじわと開花に至るというのである。
一方で梅はちょうど見ごろのようだった。…が、これも水戸の偕楽園より一週間ほど早い程度で、やはり劇的に早いという感じはしない。どうやら植物の種類によって気候状況に鋭敏に反応するものとそうでないものがあるようだ。
こういう土地柄では、季語を駆使する俳句や短歌は非常~に詠みにくい気がする。安房守に任じられてやってきた律令の貴族などは、気の利いた和歌を詠もうとして 「マジかよ!」 とセルフツッコミを連発する場面もあったのではないかな(笑)
さて話を神社に戻そう。ここの境内には古い海食洞(※)があり、縄文土器や土師器の他、22体もの人骨が発見されている。どうやら古代にあっては墓所であった時代があるようで、神社の由緒と直接つながるものかどうかは断定できないまでも、古くからある種の聖域であったことは確かなようだ。
日本のいわゆる神社というのは、元は山野の自然神や祖先の霊を素朴に祀っていた聖域(磐など)に、弥生文化の象徴たる高床式建物が載って社殿=神の座となったもの…と大雑把に理解してよい。弥生文化とはここでは渡来した忌部氏一族が持ち込んだものと解釈するのが自然な気がするが、神話時代の話でもありここではロマンのひとつとして理解するにとどめよう。
※ここは標高約30mなのだが、海食洞があるということは海面がここまで来ていた時期があるということで、もしそうであれば当時ここはリアス式海岸の入り江だったということになる。
さてこれが、拝殿である。
主祭神の天太玉命(あめのふとだまのみこと)とは天孫降臨の際に瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に随伴した五伴緒の一人とされる。神話においては、高天原にいたときは天岩戸から天照大神を引き出す際に卜占を行った役で知られ、このことから祭祀をつかさどる神とされ、のちに産業の神ともされた。安房を開拓した忌部氏はこの神の子孫ということになっている。
記紀神話で神の子孫として描かれるのは、古事記、日本書紀の編纂された頃(飛鳥時代~奈良時代初期)に中央で力をもっていた氏族である。天皇が太陽神アマテラスの子孫として権威付けされたのと同じように、それに順ずる地位にあった有力貴族はそれぞれ神話の中に自らの物語を持った。当時はそれが貴族としてのステータスでもあったわけだ。
忌部氏はのちに斎部氏と姓を改め主に祭祀を司る一族として続いたが、残念ながら次第に権勢は落ちていった。
飛鳥時代には同じく祭祀を司る中臣氏(後の藤原氏)と覇を争うほどであったのだが、中臣鎌足が大化の改新で大出世し、さらにその息子の藤原不比等が奈良朝で中央政界を牛耳った後は完全に歴史の脇役となった感がある。
そして奈良時代を経て中央政界が藤原一族の独占状態になっていく過程で、他の中央貴族と同様に都落ちして地方に土着していくコースに乗ったらしい。ただし武力で地方をバッタバッタ…と切り取ったような伝承はあまりない(※)。
結局のところ、彼らは祭祀担当としての枠内に小ぢんまりと収まって、しかし細く長く続くこととなった。安房の国の政治的な支配者はその後コロコロと変わったにも関わらず、である。
※織田信長がその系統であるとする説があるが、信長本人は平家の末裔を主張している
その子孫が、現在も安房神社の宮司をされていると知ったのは帰宅した後のことであった。そういえば境内で貫禄のありそうな神職氏と何度かすれ違ったのだが、もしかすると彼がその人だったのだろうか。
神代から続く家系図を持つ人物なんて皇室以外にどれほどいるかと思えば、立ち話のひとつもしておくのだったな。
時間が押してきていたので深く考えずに神社を後にしてしまったのだが、事後そのあたりが少々心残りとなった。
…やはり、下調べはしておくものだねぇw
■R410の界隈
さて安房神社を過ぎてからはフラワーラインは狭い崖っぷちを縫うようにして抜けていく。
館山市から南房総市に入って、ここからは野島崎を目指していくことになる。このあたりは細かい紹介をしているとキリがないのでさらっと飛ばして行こう。
まずはフラワーパークである。ここも菜の花とポピーがイイカンジなのだがそのへんはばっさりカット。
ちょっと面白いのがこの浮世絵であった。こんな耽美的な姿の海女(あま)さんがいるものかよ、と当初は思ったものだけれど、調べてみると戦後の割と最近まで褌一丁のトップレスという格好で漁をする海女さんというのが日本各地にいたらしいのである。別に露出狂というわけではなく明治以前からのスタイルで、近年になってもウェットスーツは着用すると動きにくいという理由であまり普及しなかったようだ。…が、それでも1970年代くらいを境にスーツ着用式に切り替わっていったらしい。
白浜では毎年夏になると海女祭りが行われている。もちろん浮世絵のようなトップレスではなく、ちゃんと(?)白装束を着用しているので下心で見に行ってはいけない(笑)。筆者は海の祭りというのを見たことがないので多少の興味はあるけれど…はてさて、見る機会というのはあるのだろうかw
さてフラワーライン=R410は、屏風岩を過ぎた直後に二手に分かれる。
どうやらR410には新道と旧道があるようで、Google Map では旧道=フラワーラインとなっているようだが、ここは観光道路=海沿いの方と判断して新道を進むことにする。
※後で分かったことだが旧道沿い(=山側)のほうが花畑は多いらしい。
それにしても・・・ここも飛び砂の砂丘がすごいことになっている。道路が砂に埋もれて、どうやら除雪ならぬ除砂?を行っているようにみえるけれど…なんだか管理が大変そうなところだ。
防風林として植えられているらしい僅かばかりの松の木は、頭だけをチョコンと出して埋もれていた。台風が来た翌日などはどうなってしまうのだろう。
ここは砂山の上に草が繁茂して枯れた状態・・・とりあえず根で砂を抑えようとしているようだが…
結局砂が飛んでくれば埋もれてしまうようだ。
正直なところ、能天気にポカポカと暖かい地方で花がいっぱい…という景色を想像して来たのだけれど、実際には砂との戦いの印象のほうが強く残ってしまいそうだ。
砂浜の続くのは平砂浦によく似た南西に向いた地形の4kmほどの区間である。海岸から離れた山側いっぱいのあたりに砂取などという地名があるところをみると、やはり相当奥のほうまで砂地が続いているらしい。
向こうが島崎…と呼ばれるあたりだろうか。野島崎はあの向こう側である。
そろそろ、もう相模灘ではなく完全なる外海=太平洋に面した海岸線だ。
<つづく>