2012.01.01 初詣:板室温泉神社(その2)




■板室温泉へ




ダム事務所から r369 を下ってくると、川向こうの断崖の上に東屋が建っているのがみえてくる。あれは板室温泉の奥地にある "上の原園地" である。一応散策路などもあるのだが、本当に何もないところなので実は登る人はほとんどいない(^^;)




これから向かう板室温泉神社は、温泉街側の一番奥まったところから高さ70mほどの断崖を登った上にある。さきほど見えた園地からは反対方向の崖縁にあたる。

現在の温泉街は那珂川の穿(うが)つ谷底に、r266に沿って長さ600mほどにわたって連なっているが、江戸時代はr266のヘアピンカーブの先端から先の部分、つまり最奥部の一角のみが旅館街であった。大雑把にいってこの最奥部にあるのが歴史の古い老舗旅館ということになる。




板室温泉は平安中期の康平二年(1059)頃の開湯と伝えられ950年あまりの歴史がある。 鹿狩りで山中に分け入った那須三郎宗重なる人物による発見と伝えられており、源頼朝の那須野巻狩が行われたのがその130年あまり後であったこと併せれば、この一帯は余程良い鹿狩りの猟場であったのだろう。

そののち元禄8年(1695)に会津中街道が開削されると、板室は宿場として整備され交通量も増加したため、温泉もまた盛んとなった。"下野の薬湯" と呼ばれるようになったのがこの頃のことで、付近には湯治客が傷病快癒の感謝を込めて山神像を奉納した籠岩神社や、やはり湯治客が奉納した道標などが残されている。明治維新後は会津中街道が途絶したためややマイナーな立地となったが、しかしお陰で古い情緒が保たれることとなった。

近年では環境省が効能や周辺景観の優れた温泉地を選定する "国民保養温泉地" としての指定を受けている。指定は温泉法に基づくもので、仮に有名であっても開発が進みすぎて人工物が多くなった温泉地は除外され、登録されているのは静かで鄙(ひな)びた温泉地が多い。栃木県内では日光湯元と板室の2箇所のみがその指定を受けている。




そんな温泉街をずんずん奥に進んでいく。

ライトな日帰り客などは温泉街の対岸にある共同浴場 「グリーングリーン」 のみに立ち寄って帰ってしまう人も多いのだが、やはり r266 のヘアピンカーブを超えて奥まで見ないともったいない。




最奥部までまっすぐやってくると加登屋旅館の本館がいい感じでレトロな雰囲気を醸し出している。どちらかというとこちらは庶民向けの宿で、江戸時代の高級旅館は那珂川寄りの大黒屋、一井屋の方であった。

江戸時代の頃の温泉旅館は板室本村の隠居したお年寄りが副業で経営していたようで、現在のコンドミニアムのような営業形態であった。米、味噌などの食料品は湯治客の持ち込みで、自炊しながら何週間も滞在したのである。




この加登屋旅館の裏側が、温泉神社参道の登り口になっている。一井屋の方からも登れるのだが、こちらからだと湧き水にアクセスしやすいので筆者はいつもこちらから登っている。



小さな橋を渡ると、写真右側の崖に巻き道が見える。眼下を流れるのは湯川である。板室温泉には20あまりの源泉が沸いているが、この川沿いに自然湧出していたのが最も古いという。

この橋より上流側は急峻なV字谷になってしまうので建物はもうない。橋のすぐ奥側にある老舗旅館江戸屋の建物で最後である。




板室温泉の発見シチュエーションは、個人的な印象としては鹿狩りというより岩魚を釣りながら川を遡ってきて湯煙が立つのを見つけた…と考えるのが一番しっくりと来る。…が、不思議なことに温泉の発見縁起には "魚釣り" というのはまず登場しない。真面目に統計をとってみた訳ではないのだけれど、大抵は偉いお坊さんの神通力で湯が沸いたか、高名な武将が狩りで山中に分け入って発見したか…という類の話が多いようだ。

発見者とされる那須三郎宗重は那須氏宗家の系譜をみてもちょっと名前が出てこないのだけれど、江戸時代文政年間の歌舞伎 「玉藻前御園公服」 に那須宗重の妻というのが登場しており(※)、鳥羽上皇の時代の那須氏の郎党の一人ではあるようだ。小領主クラスの武士ではあっただろうから、やはり "狩の最中に" というのが格好もついて良かったのだろう。

※内容を確認していないのでどんな登場の仕方なのかは不明(^^;) 縁起に語られる年代が九尾の狐伝説=鳥羽上皇の時代と100年ばかりズレているのは…まあご愛嬌かw




参道の上り口のところには、湧き水が沸いている。現在は 「板室福運水」 との名称がついているが昭和45年頃までは温泉街の生活用水であったという。お茶を淹れるのに一番旨い水と言われており、実際に飲んでみると非常にまろやかな飲み口である。もちろん自然の湧き水なので水道水のようなカルキ臭とは一切無縁だ。

崖上には手水舎が無いのでここがそれを兼ねたような立地になっている。神社までは登らない人もこの水はぜひとも味わっていただきたいところだ。




さて水場を過ぎてからは一本道である。粛々と登っていく。




途中には石灯篭がいくつも建っている。結構な重量の筈なのにこの崖っぷちによく持ち上げたものだな。

年越しのときにはこの灯篭にも灯が灯ったりしたのだろうか。宵の頃など、派手さはなくともいい雰囲気にはなりそうだ。




見上げると急斜面に九十九折(つづらおり)でまだ幾分道が続いている。高さそのものは18階建てのビルを階段で登る 程度なので大したことはないのだけれど、ここに道を開いた先人の労力にはちょっとばかり敬意を表したい。



 

■温泉神社境内




そんなわけで漸(ようや)く神社に到着♪ ヽ(´∀`)ノ

山間の小社なのでど派手なところは無いけれど、ちゃんと注連縄も更新されていて正月仕様になっている。


 
温泉街にとってはこの断崖全体が神奈備(→神の鎮座する場所)だったのだろう。板室温泉神社の縁起というのは実はよくわからないのだが、日本の温泉の文法から言って、開湯後ほどない頃には何らかの祠が置かれたことはまず間違いない。そしてやがてそこには殺生石(※)のある那須温泉神社から神霊が勧請されたのである。

※温泉発見時にはまだ九尾伝説は未成立なので別の呼び名があった筈である




さて拝殿はかなりガランとした構造でヤッツケ仕事っぽいつくりなのだが、奥にある本殿(文政十年:1827)はかなりの労作である。会津中街道が賑わった頃のもので、解説文によれば当時の神社世話人であった柏屋治右衛門、大黒屋利兵衛、江戸屋藤右衛門の寄進によるとある。大黒屋と江戸屋は現在も営業している旅館で、こんなところからも歴史の長さが伺える。




それにしても豪勢な造りだなぁ…麒麟、象、狛犬、龍…さらには松竹梅の透かし彫りか…。




これだけのものが奉納できたということは、江戸時代の板室というのは相当に豊かだったのだなぁ




拝殿には、扁額も多く置かれている。湯治客が奉納したものらしい。




ここは那須温泉神社の祭神を勧請したものなので、九尾の狐をモチーフにしたものが幾つか見られる。




こちらは熊退治の様子だろうか。白木に顔料絵具と墨線で描かれており、比較的色持ちは良さそうにみえる。




こちらの安政五年(1859)とある扁額には板室温泉の俯瞰図が描かれていた。手前が那珂川本流、右奥側が湯川のようで、幕末の頃の神社と温泉街の様子がよくわかる。板室温泉には詳細な温泉史は残されていないため、これは当時を知るための貴重な資料といえそうだ。




こちらのモチーフも玉藻前=九尾らしい。やはり伝統的に、この付近で温泉神社といえば九尾伝説なのだろうな。




山間の小社であるがゆえに、なにか大規模なイベントがある訳でもなく幟や旗が立っている訳でもない。ただ静かで清浄な空間があるだけである。

しかしこういう状態こそが、本来の日本の神社のありようなのだろう。




そんな訳で、武運長久、家内安全、招福万来、家運隆昌、交通安全、国家鎮護…などを祈願してみた。

さらに震災復興、原発収束、そして反日国家の滅亡などももついでに…(笑)




■身代り悪病神叩き出し像




さてとりあえず参拝を終えて…園地に向かうのは雪もあるので控えるとして、最近作られた身代り悪病神叩き出し像なるスポットを眺めてから引き上げることにした。




もう後が無い崖っぷち…という立地にそれはある。温泉神社の氏子諸氏による建立で、解説文には以下のように書いてある。


今日の医療機関、医学、お医者さん達の研究開発はすばらしいものです。 にもかかわらずいくらお医者さんに見て頂いても病が一向に良くならない多くの方々がいます。 そんな方々の為に、また訪れるお客様一人一人の健康を願って、板室温泉ではここ温泉神社に身代り悪病神叩き出し像を建立しました。 心の病、身体の病、悩み事等色々ありましたら備え棒を持って大きな声を出しながらぶっ叩き出してください。


なるほど…さすがは下野の薬湯と言われた温泉だけはある。不治の病に対しても心配りができている。


 
…しかし ストレス解消に気のすむまで叩いてはいかがでしょう というのはサービスのしすぎだったかもしれない。




神様の像は、たちまち原型をとどめぬほどにボコボコに叩き折られ、雪の中に突っ伏していた。

…世の中、ストレスの溜まった人って物凄く多いのねん…( ̄▽ ̄;)




さてそんなわけで神社拝殿を後にした。


 
見下ろせば、眼下は温泉街である。…なるほど、神様の目線はこうして温泉街の人々を見守っているらしい。

大きすぎる何でも屋の神様と違って、ここに鎮座する神は "温泉街と湯治客を守る" ことに特化しており目的もテリトリーも明快だ。住民との祀る/祀られる関係も相互に明確で、揺るぎがない。




・・・そういう在りようは、ちょっとばかり羨ましいものだ。

人間でも 「あなたは何のために生きるのか」 と問われて即座に答えられる人は、きっと幸せなのである。残念ながら筆者はその域には達しておらず、何かが見つかる頃にはもう寿命がきているかもしれない。…しかしそれでも人は生きていかねばならない。…えーと、住宅ローンがあと何年のこっているんだっけ orz

ともかくそんな訳で、よくわからん締めになってしまたけれども、とにかく頑張るのさっ♪ ヽ(´∀`)ノ

<完>