2012.01.01 初詣:那須神社




初詣に那須神社に行ってまいりましたヽ(・∀・)ノ



那須神社は、大田原市にある那須氏ゆかりの古社である。なんといっても有名なのは平家物語における那須与一の 「南無八幡台菩薩…」 の件(くだり)で、ここで述べられる八幡大菩薩とは、この那須神社に祭られる八幡神(応神天皇)のこととされている。

まあ八島の段における那須与一のセリフは 「南無八幡大菩薩、わが国の神明、日光権現、宇都宮、那須の湯泉大明神、願はくはあの扇のまん中射させて賜ばせたまへ。これを射損ずるものならば弓切り折り自害して人に再び面を向かふべからず。いま一度本国へ迎へんとおぼし召さばこの矢はづさせたまふな。」 …というもので実はイロイロな神様に割と無差別に祈っているのだが(笑)、 とはいえその中でも一番最初に名前が出てくるあたり、当時の那須における神社仏閣の中でもステータスは高かったのだろう。




その那須神社は、R461沿いの金丸(かねまる)という地区に鎮座している。すぐ隣に道の駅 "那須与一の郷" があり、その敷地内には与一にちなんで伝承館なる資料館もある。神社は那須氏の崇敬篤く、那須氏宗家の没落後はその配下にあった黒羽藩:大関家によって保護されてきた。

また戦前はここに隣接して旧日本軍の金丸演習場と飛行場があり、八幡神が軍神である繋がりからか、軍馬の供養塔が参道沿いに建てられるなどやはり地域の由緒ある古社として丁重に扱われてきた歴史がある。

…今回は、その那須神社に初詣をしてみよう。




■那須神社への道




さてそんなわけで22:40頃に自宅を出て、大田原方面に向かってクルマを走らせる。雪はなく、枯れ草色の田園風景がライトに浮かび上がって流れていく。

那須というと "寒いところ" とか "雪" のイメージを持つ人が多いかもしれないけれど、積雪があるのは山岳部であって那須野ヶ原の平野部では根雪が残ることはほとんどない。降ったとしてもせいぜい1~2日で融けてしまい、「俺は雪山には絶対行かないぞ!」 …と心に決めていれば、ノーマルタイヤで冬を越すこともそう難しい話ではない。

那須神社は、そんな乾いた田園風景のなかにある。二年参り(=午前零時をまたぐ)の時間帯に来るのは、そういえば初めてだけれども…(^^;)




ものの20分ほどで神社に隣接する道の駅の駐車場に到着。




さっそく参道に足を踏み入れたのだが…あれれ? 真っ暗だぞ…( ̄▽ ̄;)




灯篭とか、雪洞(ぼんぼり)とか…なにかあっても良さそうなものだが、辺りは漆黒の闇である。これはちょっと予想外の展開というか、実は大晦日は明日でした…とか、そんなことは無いよな…w

…と、思ってよく見ると、奥のほうに僅かばかりの明かりが見える。

あれは社務所だろうか。とにかく行ってみよう。




■社務所前




さて社務所まで来ると、一応人がいて新年を迎える準備をしていた。ここは車で社務所近くまで入れてしまうためか、どうやら参道の入り口の方までは明かりを灯していないらしい。有名な割には意外に小ぢんまりとしているんだな。

火に当たっている氏子さんに 「どもー」 と挨拶すると、やや、どちらからいらしたのですか…と珍しそうに聞かれてしまった。「いやー、隣の那須塩原市の住人ですよ、はっはっは…」 と雑談混じりにいろいろ話をしてみたのだが、聞いて見ればやはり由緒ある古社の割に財政は厳しいようで、維持管理は結構大変であるらしかった。



「もう少し、私らが盛り立てて行かないといけないんですけどね…」 という氏子氏によると、今年(…というか記事を書いている時点では昨年になってしまうのだが^^;)はやはり震災の影響が大きく、鳥居や灯篭、石塔などが倒壊してその建て直しに労力が必要だったらしい。

それで何が大変かというと、文化財に指定されている関係上、地震で損傷しても簡単には修理できない設備が多いのである。たとえば江戸時代に大関氏(=黒羽藩の殿様)が奉納した灯篭などは文化財として栃木県教育委員会に登録されており、その許可が出るまでは手を触れることができない。楼門なども勝手に補修してはいけない。




「あの鳥居も、倒れてしまって」 といって指差す先には、足元を補強して復活したニ之鳥居があった。こちらは氏子の奉納した比較的新しいもので、文化財の指定はされていなかったという。おかげですぐに修復に着手できたそうだが、費用は全額神社側≒氏子持ちである。…なるほど、それで金策が尽きてしまったということですか(^^;)




調べてみて驚いたのだが、文化財というのは国や県が指定して "リストに登録" するだけで、維持管理には基本的に何の支援もないらしい。災害で損壊した場合も、修理費用は所有者の自己負担なのである。

今回の震災では被害があまりに広範囲に及んだため、さすがに県も国に対して損傷文化財に対する財政支援を要請しているようだが、その反応は鈍い。結局地方の神社仏閣はそんなものを待たずにできる範囲で自己修復を進めているというのが実態で、それを教育委員会があれこれ注文をつけては足を引っ張る(?)という構図になっている。
筆者はその内情を知る立場にはないけれども、なかなか難しいものだな…とは思ってみた(´・ω・`)




■神社の由緒など




さて前振りが長すぎのもアレなので、ここで神社の由緒について述べておきたい。

那須神社の起源は古く、仁徳天皇の頃(257-399)に下野国造であった奈良別命が金の玉を埋めて塚を築き祠を建てたことに始まるという。仁徳天皇は記紀の記述を額面どおりに受け取ると142歳(!!)まで生存したことになり 「そんな訳ねーだろ」 的な存在なのだが(^^;)、まあ神話の時代でもありもっとおおらかに受け止めるべきものだろう。下野国造であったという奈良別命は崇神天皇から数えて5代目にあたる皇族で、4代前の豊城入彦命は下毛野氏の始祖とも言われており、下野国とは縁が深い。

奈良別命はまた二荒山神社を建立したことでも知られ、二荒山神社の由緒によれば毛野国が下野国と上野国に分けられた際に下野国造として赴任したとある。なお毛野国の分裂時期は明確にはわかっておらず、仁徳朝~孝徳朝とかなり広めに推定されている。

塚に埋められたとされる金の玉は、これも額面どおり受けとれば極めて貴重な品である。なにしろ律令以前の時代、日本に金は産しない。本当に金であったとするなら100%大陸からの輸入品で、貿易権を持っていた有力者から下賜されたものであることが暗喩されるのである。地鎮の呪物としては十分な希少性があっただろう。

ともかくこの故事をもって神社の座する神聖なる土地は "金丸" (かねまる)と呼ばれるようになった。 奈良時代の好字二字令(713)以前はもしかすると金玉塚(?)のような名称であったかもしれないが、これは想像の域を出ない。いずれにしても非常に古い地名である。




ここに祀られた原初の神は天照大神、日本武尊、春日大神であった。このうち春日大神は武甕槌命、経津主命、天児屋根命、比売神に因数分解でき、さらにそのうちの天児屋根命、比売神は藤原氏(中臣氏)の祖神であるから、この由緒の現実的な年代は中臣鎌足の大出世した大化の改新直後くらいがしっくりとくる。

この頃であれば下野国は大和朝廷の支配下に入っており、なおかつ金はまだ国産化されていないのでなんとなくではあるが辻褄に無理がなくなるのである。



さてそんな原初の塚社が八幡宮になったのは、坂上田村麻呂(758-811)の蝦夷討伐の際に応神天皇(八幡神)を合祀して戦勝祈願したものである…と、神社の由緒には記されている。応神天皇は神功皇后の三韓征伐の折に既に胎内にあり戦勝の帰路出産したとの謂れをもつ。それゆえの武神という扱いであるらしい。

この神を祀ったとされる坂上田村麻呂は征夷大将軍として奥州平定に活躍した人物で、奥六郡で蝦夷の棟梁:阿弖流爲の降伏を受け入れたことで不動の名声を得た。具体的な戦闘記録は残念ながらあまり残っていないが、武人としては有能であったらしく、奥州と都を往復するうちに功を重ね位階は正六位上から正三位にまで上昇している(死後従二位を贈呈)。いわゆる貴族としての身分が五位以上であるから、坂上田村麻呂は実力で一介の武人から貴族階級に上ったことになる(※)。

そのヒーロー性のためか彼は日本各地に数々の伝説/伝承を残しており、悪鬼百鬼魑魅魍魎の類を出張サービスで倒しまくったことになっている。古代史においては中央に従わなかった地方の豪族などを鬼になぞらえることがままあるのだけれど、どこまでが真実でどこからが創作かはよくわからない。

※画像はWikipediaのフリー素材から引用
※田村麻呂の実父坂上苅田麻呂は道鏡追放の際の "姦謀發覺す" の密告を行った功績(これ自体はあまりカッコ良くないのだが…^^;)で陸奥鎮守府将軍の座を得ており、田村麻呂の奥州への縁はその頃から始まっているともいえる。





そんな曖昧さを多分に含んだ坂上田村麻呂だが、この付近を通過した可能性は実はそれなりに高い。と言うのも、当時は官道である東山道が現役で、行軍のルートになったことはほぼ間違いないからだ。

那須地域というのは下野国の北端=奥州への入り口にあって、東に八溝山地、西に那須山地を有する回廊のような地形になっている。そのうち西側の那須野ヶ原は水が得られないため人は住まず、東山道は東端である那珂川沿いを北上していた。奥州入りを目前にした朝廷軍が最後の補給を行ったのは地理的にみて那須官衙(国衙)であった筈で、那須神社は補給後の軍勢が白河を目指す道の途上にある。白河の関まではおよそ20kmで、行軍半日といった距離感であった。




まあ実際に田村麻呂本人が正式に立ち寄ったのか、本隊に先行して進軍先の情報収集に当たった斥候(偵察隊)がローカルに手を合わせた程度なのかは今となっては確かめようも無い(^^;)

初詣のネタとしては、そんな古い伝承にロマンを感じるのみである。




■楼門、拝殿…そしてお金の話(^^;)




さて少し時間があるので楼門、拝殿などを見ておくとしよう。
…それにしても暗いなぁ(´・ω・`)

手前にある枠のような構造物が、楼門である。…が、照明が届かずちょっと見えにくい。こんな歴史ある古社が、こうも寂れた正月風景と言うのは筆者的にはあまり納得がいかないところもあるのだが、こればかりは浮世の栄枯盛衰の流れによって落ち着いてしまったひとつの平衡点であり、あるがままを受け入れるしかない。




こちらが拝殿である。 境内を灯す明かりは裸電球1個…(^^;)  これはこれで、栄枯盛衰を感じさせる渋い演出と受け止めたい。



このアングルだと明かりが近いので楼門を見るにはちょうど良いか…と思って見たのだが、やはり光量が足りない。仕方が無いのでここはフラッシュを炊いてみた。感度を目一杯上げているのでザラついた印象の写真になってしまっているけれども、ここはこの神社の一番映える建物である。石塔の類と違ってこちらはそれなりに地震には耐えたらしく、損傷らしい損傷はみられなかった。



 
一方、派手に倒壊したのがこちらの灯篭群である。一番大きく目立つのが黒羽藩主大関高増公寄進のもので、教育委員会の許可が出るまで復旧に手が付けられなかったものだ。…といっても各パーツに致命的な損傷はないようで、素人目には単に積み上げ直しただけで復元できているような印象をうける。




さて拝殿から本殿を見通して見た。この本殿は天正五年の築といい、信長の時代のものである。こちらも大きな損壊はなかったようだな。




今回は明かりの無い状態で撮っているため暗い領域の石碑/石塔/合祀神社等があまり写っていないが、本来この神社はとても広い。本殿の後ろには真・本殿ともいうべき金丸塚があり、さらに鎮守の森がその周囲を覆っている。




かつてはそのほかに神領がいくつもあった。那須神社の神領は広く、平安時代に首藤(須藤)権守資家=那須氏の祖先が八丁四方(880x880m)ほどを寄進し、源平合戦で那須与一が帰還した後にさらに乙連沢村、桧木沢村、亀山村が神領に加えられた。 村がまるごと神領ということで、そこに住む人々は自動的に神人(じにん)=神社に奉仕する人々ということになり、ちょっとした小領主のような状況となった。

その後江戸時代にも50石ほどの加増があり、さらに福原に分社が祀られてここは八幡村と称された。また現在の参道脇にある馬場地区は実際に馬場であり、流鏑馬(やぶさめ)などがここで行われていた。これに加えて那須神社は黒羽藩主:大関家の氏神としても崇敬されており、境内の整備修繕には黒羽藩から宮大工/人足などが派遣されていた。この頃が、那須神社のもっとも壮麗で盛んであった時代だろう。




しかしその後、神社の財政状況はジェットコースターのように激しいアップダウンを繰り返すことになる。

まず明治維新の大政奉還、版籍奉還に伴い、神社の神領はいきなり消滅してしまった。明治4年、同6年の太政官布告によって全国の神社の土地が国有財産として召し上げられてしまったからである。これはかなり乱暴な措置で、のちに境内分については申請すれば無償で国から貸与するなど多少の救済措置が行われたのだが、直接の収入源=封田がなければ神社の経営は成り立たない。明治と言えば廃仏毀釈に神道の隆盛……という印象を持つ方が多いかもしれないが実態はこんなものである。

この貧乏一直線の状況が改善したのは明治42年、神饌幣帛料供進指定神社(しんせんへいはくりょうきょうしんしていじんじゃ)となってからであった。これで神社の扱いは官幣社/国弊社に準じたものとなり、祭祀のたびに県知事から神饌幣帛料が支払われるようになった。金額は明治帝の勅令(95号)によって内務大臣が定めたという。

神饌幣帛料供進指定神社になったのは、ちょうど神社の南側が陸軍演習場/飛行場として整備された時期と重なっている。軍事施設の鎮守としては那須神社は充分に由緒のある経歴をもっており、いくらか箔をつけて恰好をつけたのかもしれない。




その後、第二次大戦の敗戦を経て神道はGHQの排撃の対象となり、神社に対する国家の関与は禁じられた。国有であった境内は昭和22年成立の "社寺等に無償で貸付してある国有財産の処分に関する法律" (通称:法律53号) によって処分されることになり、那須神社においては昭和24年、"国有神社境内地譲与申請" によって宗教法人としての那須神社に払い下げられた。これが現在の那須神社の領域となっている。

なおこの間、神社に隣接していた広大な旧日本軍の演習地/飛行場は日本軍の解散に伴って復員者の入植地として払い下げられ、田畑に姿を変えた。…が、そこに入植した人々は必ずしも昔からの地元の縁者と言うわけではなく、多くが海外からの引き上げ組であった。特に満州などの遠方からの帰国者は神社に対する帰属意識も持ち合わせてはいない。知名度が高い割に氏子の組織力が弱くて資金難…という現在の那須神社のありようは、実はそんなところにも要因があるのかもしれない(※)。

※あくまでも筆者の推測です(^^;)




■星




さてふたたび火に当たりに社務所にふらふらと戻ってきたところ、甘酒でもどうですかと勧められた。 もうそろそろ午前0時を回りそうで、ちらほらと人が集まってきている。底冷えのする夜であったので遠慮なく戴いて一服してみる。

…これが、なかなかに旨いのである。

別段、特殊なレシピで造られている秘伝の味!…とかそんなものでは無いのだけれど、冷え切ったところに差し出される一杯の甘酒は、飽食の宴席で提供される豪華メニューなどよりもよほど五臓六腑に染み渡る。



派手な明かりのない境内は、見上げると星がよくみえた。…なるほど、山間の神社では雪雲で隠れてしまう星々も、那須野ヶ原の末端付近まで下ってくればこんなふうに見えるのだな。



こうして、静かなる境内で星を見ながら迎える新年と言うのも、悪くない…と、思ったところで年が改まった。




歳神を迎える祝詞が聞こえてくると、初詣の参拝客がぞろぞろと集まりだす。平成24年の幕開けである。

筆者もその列に並んで神前に幾許かの浄財を投げ、武運長久と家族の健康、そして日本の平和と野田政権の崩壊をささやかに祈願してみた。




神職さんの初仕事の様子をみると、公称1700年の歴史をもつ古社の新年の儀であるにも関わらず、なんとダンボール製の "りんご箱" で行われていた( ̄▽ ̄;)

いや~…大変なんだなぁ、イロイロと…(笑)




お参りを済ませた後は、縁起物を見て見ることにする。筆者は貧乏なので値の張るものは手が届かないが…




いつものように庶民的な御札をGETしてみた。ついでに、せめて来春はダンボール箱からPPコンテナ箱\980くらいには設備がグレードアップしてくれるよう、ささやかながら追加の祈願もしてみた。

…がんばれ那須神社! …がんばれ氏子さん一同! …がんばれ震災で被災したすべての人々! …そして、がんばれ自分! (´^ω^`)ノシ



…そんな訳で、本年もゆるゆるとやって参ります♪

<完>




■おまけ


 

おまけですw 本編で載せた鳥居と星空の写真は、実際にはもっと綺麗でした。焚き火の明かりの届かない本殿前で絞り開放20秒で空を撮影したのが↑この写真です。都会ではこんな夜空はちょっと望めませんよね(^^;)

<おしまい>