2012.02.09 越後湯沢 ~川端康成の「雪国」~ (その1)
越後の雪景色を眺めて参りましたヽ(・∀・)ノ
北陸の雪が結構な積もり具合になっているそうなので、今年も越後湯沢に出かけてみた。季節は厳冬期…雪の世界を味わうには丁度よい頃合である。ただし毎度毎度 「雪だ~ヤッホー」 で終わってしまうのもアレなので、今回は川端康成の 「雪国」 の雰囲気を味わいつつ、ゆるゆると巡ってみることとしたい。
今回のテーマがなぜ川端康成なのか…ということについては、実はたいした意味はない。たまたま湯沢に関連した有名人でもあるし、雪に絡んだ小説を書いているのでまあ取り上げてみようという程度の動機である。…といっても凡百の作家と違って 「日本人初のノーベル文学賞受賞」 という看板を背負っているだけに、その存在感には一定の重みと権威がある。日本人であれば教養のひとつとして知っておくべき作家といえるだろう。
…しかしながら筆者はこの作家の作品をちゃんと読んだことが実はなかったのである(笑 ^^;) 大慌てで書店で文庫本を買い込み、斜め読みで内容をチェックしたのは内緒だw
ちなみに筆者の購入した新潮文庫版は既に145刷。戦前の作品なのにいまだに現役で売れているというのはちょっと驚きで、新潮文庫の売れ行きランキングでもなんと歴代7位だそうである。…いったいどんな人が買っているのだろう。
※ちなみに 「雪国」 は有名な割に実際には読まれていない小説ランキング(なんだそりゃ)の上位にも安定して入っているらしい。往年の岸恵子目当てに映画だけ見て済ませた人も多いのではないかと思うのだが、当時筆者はまだ生まれていないので残念ながら映画の記憶というのはない。…かすかに覚えているのは、子供の頃に見たTV番組で川端康成の特集を放送していて、そこに雪の中を走る蒸気機関車のビデオ映像が流れていたことくらいである。
■越後湯沢への道
さてそんな訳で熊谷の秘密基地を発進し、花園ICから関越道に乗って関東平野をゆるゆると北上していく。
この日は冬の関東らしい良く晴れたカラカラの天候具合であった。日本海でたっぷりと水分を補給したシベリアからの季節風は、北陸の山岳地帯で大量の雪を降らせて水分を吐き出し空っ風となって関東平野に吹き降ろしてくる。
その境界線となっているのが向こうに見える谷川連峰である。標高2000mに満たない山々の連なりだが、これほどまでに劇的な気候区分を現出している山列というのも珍しく、律令の草創期からここは地域の境界区分として中央に認識されていた。即(すなわ)ち上野国、越後国の国境である。
かつてはこの山脈を越えるほとんど唯一の道(※)が、三国峠(みくにとうげ)を通っていた。現在では国道17号線となっている三国街道(みくにかいどう)である。 急峻な谷川連峰のピークを避けて少しでも低くなだらかなルートを通るように作られた道で、その起源がいつごろまで遡るのかは定かではないが、万葉集(巻七、第一三六七首)に
三国山こずえに棲まふ
むささびの鳥待つ如く
我待ち痩せむ
と峠のある山が歌われていることから奈良時代には既に人の往来があったものと思われる。
ただし "街道" とはいっても実質的には登山道に毛の生えたような時代が長く続き、雪が降れば交通は途絶した。大量の物資を運べるほどの道幅もなく、道路整備が進んでクルマが峠を越えられるようになったのは時代が大幅に下って、なんと昭和も30年代になってからのことである。それまでの間、特に冬季の長期間の途絶は、長い歴史を通じて上州と越後の情緒の違いを醸成してきた。今筆者が湯沢に向かっているのもその情緒の残照のようなものを求めている訳で、この地方における雪の風情というのは今でも上質の吟醸酒の趣をもって我々を引き寄せている。
その一方で、近代になって造られた鉄道および高速道路は、最短ルートで谷川岳をぶち抜いて水上(みなかみ)から湯沢に抜けるコースをとっている。こちらは情緒だの歴史だのといった甘っちょろいものとは無関係に、費用対効果を算盤勘定して最も投資効果の高くなるように造られた。おかげで在来線、新幹線、高速道路がほとんど同じコースを通って谷川岳の山腹にトンネルを穿(うが)つことになり、人家の稀な山中で交通インフラの奇妙な密集状態を生じている。
これらの新・交通インフラの開通年代は、国鉄(当時)の上越線が昭和6年(1931)、上越新幹線が昭和57年(1982)、関越自動車道が昭和60年(1985)であった。国道17号線が自動車で通れるようになったのは昭和32年(1957)だが、当初は未舗装の隘路であり、苗場で開業したばかりのスキー場に群馬県側からクルマで乗り込むのでなければ、上越線で湯沢に抜けてそこからバスに乗ったほうがよほど快適に移動することができた。
※谷川連峰から福島県寄りの清水峠を通る古道もあったが、湯沢を経由しないルートなのでここでは言及しない。
※三国峠を車が通れるようになった最大の要因は、急峻な峠の頂上部をトンネルでショートカットしたことである。
川端康成が湯沢にやってきたのは昭和9年のことである。上越線の開通からわずか3年、まだまだ古い情緒を残していた湯沢の集落に、当時最新の交通機関(電気機関車に牽引された旅客列車)でこの小説家はやってきた。
残念ながらその季節は厳冬期ではなく6月だったそうで、小説の情緒とは微妙に一致しない。この初回の訪問で川端は鄙びた湯沢の風景を気に入り、その後何度も通うようになっていくのである。彼が雪を見たのはその年の3回目の訪問の時であった。
当初川端康成は群馬県側の水上温泉を訪れていたようで、宿の人に薦められてトンネルを越えた湯沢までやってきたらしい。「水上よりよほど鄙(ひな)びていた」 と後に川端は好意的に述べているが、その後の展開をみれば水上温泉にとっては逃がした魚はピラルクー並みに巨大だったともいえるかもしれず、なんとも惜しいことをしたものである。
水上温泉はほぼ同じ頃に太宰治や北原白秋、与謝野晶子、若山牧水などが逗留していて、谷川岳の関東側の山麓に開けた利便性から湯治場としては湯沢よりよほど発展していた。川端康成のノーベル賞のインパクトがなければ、関連する作家数の多い水上温泉のほうがよほど観光資源には恵まれているのである。
さて狭い山間の盆地でもあり、湯沢ICから降りるともう温泉街なのだが、今回はひとまず温泉はスルーして谷川岳に向かって逆走してみることにした。
どうしてそんな奇行(^^;)をするのかと言えば、せっかくの雪の季節なのだからミーハー路線全開であの 「トンネル」 を見てみたいと思ったのである。もちろん小説 「雪国」 の冒頭に出てくるアレのことだ。
それは土樽(つちたる)の最奥部にある。
■土樽へ
そんな訳で、湯沢集落から離れて谷川岳側の土樽を目指すことにする。
土樽は狭い湯沢盆地にあって、谷川岳を背にした袋小路のような地勢にある小集落である。その概要を湯沢側から俯瞰するとこの↑ようになる。
鉄道や高速道路が開通する以前の土樽は、この地域の主要幹線道路=旧三国街道からは外れた僻地であった。新潟から六日町を経由して湯沢までやってきた旧三国街道は、湯沢をすぎると三国峠を目指して隣の三俣盆地のほうに行ってしまう。山を越えて関東側に抜ける主要道は他にはなく、おかげでこの地区は人の往来からは外れて、近世まで辺鄙な山間集落のまま昔の風情を保った。
ここが文明の恩恵に浴したのは(…などと書くと現地の人に叱られそうだけれども ^^;)、上越線が開通して清水トンネルから抜けてきた列車のために信号所が置かれたあたりからではないだろうか。信号所は後に土樽駅となり、越後国最奥部の駅として今も存続している。小説 「雪国」 の雰囲気を味わうのであれば、新幹線の巨大な駅を抱えて近代リゾートホテルの林立してしまった湯沢温泉街よりも、この土樽駅の周辺を散策したほうが良いという声は多い。
さて土樽は番地としてみると湯沢温泉街の数倍の面積を誇る非常に広い地区である。民家はまばらで、農村ではあるのだが樹林帯が多く、耕地化されている面積はそれほど広くない。湯沢に隣接する岩原スキー場のあたりは水田が広がっているようだが、越後中里のあたりからはそれもあやしくなってくる。
実のところ筆者はこの地区の10mメッシュマップを最初に見たとき、狭い山間地ということもありもっと限界近くまで開墾されているのではないかと想像していた。
ところが現地に入ってみると案外そうでもなさそうで、まるで昔話にでも出てきそうな風景が続いているのである。
やがて湯沢温泉街から7kmほど谷川岳に寄ったあたりで土樽集落に至る。現在 「土樽」 の地名で呼ばれているエリアは合併前の旧土樽村に相当し、大雑把にいって10km四方ほどの広さがある。湯沢に近い順に 原、荻原、中里、古野、松川 と小集落が点在し、一番奥まったところがこの土樽集落となる。
近代的市町村制が施行される以前はそれぞれの集落が独立した村であった筈で、ここより奥に村がないところをみると、人が日常生活を営むことの出来るぎりぎりの環境がこのあたりまでだったのだろう。
今回とりあえずのランドマークとして目指している土樽駅は、その最後の集落からさらに1.6kmほど奥に入ったところにある。清水トンネルはさらに500mほど奥だ。
どうしてこんな民家から離れたところに駅を作ったのかというと、さきにも述べたように最初は信号所として作られた施設をそのまま転用したためで、つまり客の都合というのはあまり考えられていない。さらに言えばここは長さ10kmもある清水トンネルを抜けるために開通当初から蒸気機関車ではなく電気機関車が運用されていて、そのための変電所が併設されていた。鉄道としてはこちらのほうがよほど重要で、やはり客の都合は二の次といえる。
かつては東京方面から鉄道でやってくると、トンネルを抜けた列車はまずこの信号所で一旦停車した。上越線は開通当初は単線で、ここを使って長いトンネルの前後で上り/下り列車の行き違いを行ったのである。上越線は客車よりも貨物列車の往来が多く、行き違いの列車待ちは頻繁にあったらしい。
なお群馬県側では現在の土合駅が開業当時はやはり信号所であり、同等の役割を果たしていた。ただしあちらには雪はほとんどなく、小説の舞台装置として見栄えがするのはやはり土樽の方だろう。
※ところで小説では描写が抜け落ちているけれども、信号所を過ぎると奇妙なループを描く松川トンネルを経て列車は湯沢に向かうことになる。これは昭和初期の機関車の登坂力に合わせ、なるべくゆるやかなスロープで標高差のある谷間の地形を通り抜けようとした涙ぐましい努力の跡である。…が、この偉大なる鉄道工学の成果も小説家の目にはあまり好印象としては残らなかったようで、すっかりスルーされているのは不憫としか言いようが無い(^^;)
さてそんな土樽駅と清水トンネルを目指してさらに奥に進んでみるのだが…最後の集落を過ぎると除雪もかなりテキトーになってクルマ一台が通るのがやっとという状況になった。
途中で分岐点に差し掛かり、近接する駅とトンネルとどちらを優先するか…という割とどうでもよい順位について5秒ほど逡巡した後にまずトンネルのほうに向かってみた。…が、清水トンネルのすぐ脇まで伸びている筈の道は、ほどなく行き止まりになっていた。
もう周囲には民家はなく、どうやら湯沢町はここから先は除雪の必要なしと判断しているらしい。雪壁で視界はさっぱり効かないのでトンネルがどのへんにあるのかは不明である。うーん…困ったな。
仕方がないので一旦引き返し、分岐部に戻ってみると向こうからクルマが一台やってきた。…ということは、駅はあの向こう側ということかな。とりあえず行ってみることにしよう。
スノートレンチな道路はまもなく関越自動車道の高架橋下をくぐる。
「大型車の通行なんて考えていないぜ!」 的な桁下の狭さがなんとも投げやりな感じで僻地感をそそる。高架橋直下は天井をクルマが通り抜けるたびに遠雷のような音がゴォォォン…ゴロゴロ…などと響いていた。
さてその先は…と進んでいくと…あれれ?(@_@;)
…なんと、スノートレンチはやはり途中で行き止まりなのであった orz
除雪されているのは一昨年に営業終了した山荘の玄関先までで、クルマが1台置いてあるところを見るとどうやらオーナー氏はまだここに住んでいるらしい。…ということは、駅の存在よりも "ここに住民がいる" という文脈で道路の除雪が行われていると理解すれば良いのだろうか。
ナビをみると目的地まではあと250mくらいであるらしい。
せめて駅までは通れるようにしておいて欲しいところだが…いずれにせよ土樽駅までの道筋は実際には通ることができない。割と有名な場所なのに、まさかこんな状況になっているとはちょっと意外だったな( ̄▽ ̄;)
山荘の主人らしきご老体が出てきたので 「駅までいけますかね?」 と聞いてみたところ、「あ~、この先クルマは通れないよ~」 との返事が返ってきた。「歩いてなら行けるよ~」 とも言ってもらえたけれど、さすがに2mを超える積雪を人力ラッセルしながら進むのはちょっと遠慮したい(^^;)
しかしそのままリターンではちょっと悔しいので、視界が通るあたりまで雪壁を登ってみた。正面に見えているのがどうやら上越線の変電施設らしく、駅舎はちょうど手前の樹木で隠れてしまっている。周辺にぽつり、ぽつりとある建物は山小屋だそうで、いずれも道が通じていない(=除雪されていない)ところをみると、もう使われていないようだった。
実はここにはかつて土樽スキー場というのが営業しており、それなりの賑わいをみせていた。
スキー場ができたのは昭和16年のことで、「雪国」 が書かれた昭和10年前後の寂しい風情は、なんとわずか5~6年後にはリゾート開発で賑やかに変貌していたのである。ちなみに土樽駅はほとんどこのスキー場の専用駅のような位置関係にあり、ホームから直接ゲレンデに出ることが出来た。土樽集落までには遠い立地の駅だが、スキー客には便利であったに違いない。
この昭和10年代というのは湯沢駅周辺でもボーリングで新源泉が次々に掘り当てられやはり開発が急速に進んだ時期で、かつての古い宿場から新源泉の点在する西側斜面沿いに市街地が増殖していく途上にあった。新源泉は最終的に15箇所まで増え旧源泉を遥かに越える規模となり、付近の様相は一変してしまった。温泉街の中心が、大きく新源泉の区域=湯沢駅周辺側に移動したのがこの頃である。
…それを思うと、川端康成が湯沢に滞在した昭和9年~12年というのは、開発のまだ端緒の時期で昔の風情が壊されていないぎりぎりの時期だったといえそうだ。小説に描かれた湯沢の情景というのは、時代性からいえばには極めてピンポイントなものなのである。
ところで土樽スキー場に話を戻すと、「雪国」 の映画化や川端康成のノーベル文学賞受賞によるブームに乗って昭和の終わり頃までは順調に営業していたようだが、新幹線の開通で主要客を越後湯沢まで直通で持っていかれてしまうとたちまち寂びれ果て、週末限定の営業で細々と稼動を続けた果てに平成15年頃営業停止となった。
それ以降の状況は、今見ている通りである。…皮肉なことではあるが、おかげで2012年の我々はかつて小説に描かれた頃の静かな土樽の情景を、およそ80年振りに見ることができている。不思議といえば不思議な話である。
そのあたりの無駄話をもう少しばかりしてみたかったのだが、山荘の主人氏はそのままクルマで出かけてしまい、それ以上の質問はできなくなった。
…まあ、このあたりが引き返し時かな。むむむ。
<つづく>