2013.01.27 奥塩原:新湯温泉(その2)
■火口周辺と温泉神社
さて寺の湯を出てからは、この集落の鎮守の神社を探してみることにした。温泉街を守護するのは一般に温泉(=神)そのもので、普通は温泉街より一段高いところか源泉周辺に温泉神社が祀られる。宿の人によれば、ここでは火口脇の小高い丘の上に神社があるという。
ちなみに上↑の写真は寺の湯のすぐ背後にある爆裂火口で、噴気孔のすぐ下、画面中央のあたりに源泉が湧いている。
※残念ながら周辺は立ち入り禁止になっているので、源泉に近づくことは出来ない。
噴気孔には、火山らしく黄色い硫黄の析出が随所にみられる。ここの親玉である火山=富士山は数十万年前には塩原化石湖を造るなど付近の自然環境に大きな影響を与えてきた影のフィクサーのような存在だ。地下ではいまだマグマの活動が活発で、その恩恵をうける塩原温泉郷はいくつもの泉質の異なる源泉を抱える実にバラエティに富んだ地域となっている。
さて温泉神社は、その火口を見下ろす高台の上にあるらしい。温泉街のちょい南側のようなので、道沿いに行ってみることにした。
少し奥まったところに入ると、共同浴場の "中の湯" がみえる。ここは男湯/女湯がちゃんと分かれていて、混浴の苦手(?)な人でも楽しめるようになっている。
その裏側が源泉エリアへの入り口らしいのだが、雪で埋もれていてちょっと入っていけそうにない。
さらに奥に行くと、やがて行き止まりになって神社の参道が現れる。…あの上が、この集落を守る鎮守の杜ということになるようだ。
…とは言っても、雪に埋もれていて社殿まで登るのはハードルが高そうだ(^^;) 何度かトライしてみたが、ここはちょうど雪が吹きだまるところのようで、足が膝上までズボっとハマってしまってどうにも登っていけそうにない。
見れば筆者の前にもチャレンジした人がいたようで、やはり中段まででギブアップした形跡がある。うーむ…これはムリをするなという神の啓示かな(笑) …仕方がない、今回は登頂は諦めようw
参道脇には、神社の解説のようなものがあった。ちょっと風化が激しくて全体の文意がわかりにくいが、古い石塔に永正15年(1584)という銘があることはかろうじて読める。1584年といえば戦国時代の末期の頃で、元湯が地震で壊滅するより75年ほど前にあたる。
…ということは、やはり元湯からの移住組が来る以前からここは温泉地として人が往来していたということになのだろう。つまりこの神社は、「新湯」 となる以前、「居村」 の時代の遺産と思えば良いらしい。
…こういう前後関係が分かってくると、雪が解けた頃にもういちど確認しに来たくなってくるな(^^;)
さて神社から振り返ると、火口原の様子がよく見渡せた。手前の石垣がちょっと邪魔(笑)だが、近代以前は荒涼とした石の斜面がすぐ手前まで連続していたことだろう。…もう少し荒涼感が多ければ、那須の殺生石とそっくりな立地になったのではないかな。
※ちなみに新湯温泉の依っている火口原は隣接して2か所ある。奥側にあるものはもみじラインからは視界が届かず、温泉神社側にまわると見えるようになる。
源泉近くには、庚申塔がみえた。普通は不動明王が来ることが多いと思うのだが、ここは庚申信仰のほうが強かったらしい。夜中に体内の三尸が天に昇って天帝に…というアレである。
こちらのホトケ様っぽいものは、一見すると不動明王かな…という雰囲気があるが、6本腕で炎は背負っておらず、かわりに月と日が描かれているので少々違っている。実はこれも庚申塔の一種で、像の正体は青面金剛である。これは解釈が少々難しい(時代によって性質が異なるため)のだが、おおむね近世の日本では疫病封じの意を込めて祀られることが多いように思う。
…つまりこれが建っているということは、ここがかつて(というか今も ^^;)傷病を癒すための湯治場であったことの証左ともいえるのである。おそらくは今は無き円谷寺によって建立、供養されたものではないだろうか。
■むじなの湯
さて上を見たら下も見てみよう…ということで、野次馬的に貉(むじな)の湯に下ってみることにした。ここは急斜面に民家が密集しているので1階だと思ったら実は3階だった的な建物が居並んでいる。そこを階段でてくてくと降りていくのである。
やがて大師堂が現れる。…うーむ、如活の印象の方が強くてすっかり忘れていたけれど(^^;)、一応弘法大師=密教の影響はそれなりに及んでいるんだなw
貉の湯の建物は、そのすぐ下に半ば雪に埋もれるように建っていた。もちろん急斜面の中腹なのでこんな風にみえているもので、積雪量そのものはせいぜい30cm程度でしかない。
さてせっかくなのでここも中身を拝見…と思ったのだが、予想外に大勢の先客が居たので撮影は断念(^^;) …まあ、温泉は逃げないのでまた日を改めて来れば良いかな。
…ということで、この後はハンターマウンテンとか鶏頂開拓などにも寄ってみたのだが、筆疲れしてきたのでそちらはカット♪ 本日はここまでにしておきたい。
【完】
■おまけ
さてこの写真は翌週撮ったものなので本来別物(^^;)なのだけれども、ちょこっとだけ本稿と関係があるので載せてみた。これは明神岳からみた南会津の七ヶ嶽である。
なぜこれを載せたかというと、本稿で紹介した円谷寺ゆかりの仏僧:如活が最後に草庵を結んだのがあの山の麓だったからで、これが塩原の山中から見渡せるのである。二次元の地図で見る南会津はただの人口密度の低い田舎に見えるかもしれないが、実は果てしなく山また山の連なるスゴイところで、こんなところをフィールドに山野を巡って念仏する日々というのはどんなものだったのだろう…と筆者は思ってみたのであった。
寛保元年(1741)、如活は病に倒れて現在の南会津町中新井(写真奥の険しい山=七ヶ嶽の右側寄りの麓)というところで亡くなった。彼は正体不明の乞食坊主(その割に非常に博学)として晩年を過ごしたのだが、死の床にあって最後に 「臨済三十八世上龍下水如活禅律師」 であることを明かしたという。
臨済宗は教祖である臨済(唐代の仏僧)から代々悟りを開いた弟子にその位と思想を伝授し後継者として指名し、代替わりを重ねてきた(法嗣:はっすというらしい)。同じ臨済宗でもローカルな流派がいくつもあって筆者には如活がどのあたりに位置していたのかは良く分からないのだが、高僧でありながら在野の一般僧であり続けようとした生き方は何とも凄まじく思う。
如活が最後に誰を後継に指名したのか、あるいはしなかったのかは分からない。そのうち暇が出来たら、もう少しばかり調べてみたいところだな…(´・ω・`)
<完>