2013.03.24 鉄と日本刀を訪ねる:関編:後編(その4)
■ 元重翁之碑
さてだんだん日も傾いてきた。
ここで最後の見学地点として元重翁之碑を訪ねてみることにしよう。元重は本稿でも何度か言及している関鍛冶の第一号とされる人物である。碑は手元の観光案内では関善光寺の門前にあると書いてある。刃物会館からはちょうど真北方向、距離にして800mほど。歩いて10分くらいのところである。
しかし重い荷物を引きずってたどり着いてはみたものの、肝心の碑が見当たらない(あれ? ^^;) うーむ…善光寺のあたりだと聞いて、せっかく山の中腹のお堂まで上ってきたのだが…そんなにわかりにくい場所なのだろうか。
こんな時は直接聞いてみるのが一番なので、茶坊主らしい善良そうな青年に聞いてみると 「あー、それは千手院さんの方でゲスだぎゃぁ」 という。…なんと、隣だったのか!(^^;)
そんな訳で100mほど移動。千手院は善光寺より500年ばかり古く、開基は春日神社を建立したのと同じ兼永(包永)と伝えられる。元は大和(奈良)にあった寺である。
開山当初は真言宗であったそうだが室町中期に住職がなく荒廃した時期があり、現在は曹洞宗の禅寺になっている。改宗は信長が美濃を平定し上洛を果たして間もない元亀元年(1570)のことといい、密教嫌いの信長の意向が反映したかどうかは…さて、どうであろう(^^;)
話を戻すけれども、筆者がここにやってきたのは関鍛冶の始まりについて少しばかり考えてみたかったからだ。
初代とされる元重がこの地にやってきたのは鎌倉時代で、年代は諸説あるのだが関市の公式ウェブサイトによれば寛喜元年(1229年)に伯耆国檜原よりやってきたと記載されている。関で刀を打ち始めた理由についてはこれまた諸説があって、焼刃土の品質がよかったとか松炭が入手しやすかったetc…と言われているけれども、あまり説得力がある説明には思えない。
ではどんな背景があるのかというと、美濃国の鎌倉御家人であった土岐氏によって招聘されたのではないかと筆者は想像している(…というかこの説は割と普通にありそうな気が ^^;)。
そんな訳で、ここでそのあたりの事情をいくらか考察して、関の旅を締めくくろうかと思う。
※素人考察なのであまり厳密さを期待しないように(^^;)
■ 関鍛冶、斯く勃興する?
さて兎にも角にもまずは碑を確認しておこう。あの奥まったところにあるのがそうらしい。
ということで拍子抜けするくらいにあっさり、本日の最終目的地に到着 ヽ(´ー`)ノ
碑には 関鍛冶 始祖 元重翁之碑 …とシンプルに刻んであった。
それ以上の余計な説明はない。
元重の実像は、実はよくわかっていない。出身も九州説と伯耆説があり、在銘の刀はいくらかあるそうだがその真贋を巡っては議論があって結論は出ていない。つまり実在を証明する物証が希薄で半ば伝説めいている。
…が、ここで筆者が元重の身元調査を試みたところでいきなり新事実が発見されるわけではないので(笑)、もう少し間口を広げて、大くくりに関鍛冶の始まりを考察してみたい。元重はそのきっかけくらいの扱いでよい。
元重について記された資料のうち最古のものは宝徳二年(1450)の美濃国鍛冶系図で、この時点で元重の存命期から200年ほどが経過している(写真は伝承館に展示してあったもので、奈良文殊四即流の添え書きがあり後年の写しと思われる)。関鍛冶の集団としての勢力が拡大したのは兼永以降のことだが、鍛冶座が成立したのちも元重が始祖としてずっと認知されているところを見ると、居たか居ないかといえばまあ居たのだろうという立場を筆者はとりたい。
この系図を書いた斎藤氏は立場としては守護の代理人(守護代)で、当時の本来の美濃守護は土岐持益である。土岐氏はこの80年ほど後に斎藤氏の家系を乗っ取った風来坊=松波庄五郎=斎藤道三による下剋上で美濃の支配権を失ってしまうのだが、室町時代の前半は美濃、伊勢、尾張の守護を務める有力な武家であった。関鍛冶の隆盛は、この土岐氏の隆盛とリンクしている。
勿体ぶってあまり引っ張ってもアレなので、年表の形でまとめてみると、こんな(↑)状況である。土岐氏は清和源氏の家系で、美濃に勢力を張る有力な武家であった。鎌倉幕府を支える御家人でもあったが、しかし待遇は良くなく、鎌倉時代を通して守護職に一度もありつけていない。この間、土岐氏は美濃国内に郎党を増やして強力な武士団を組織し、戦闘集団としての実力を高めることに専念していた。
彼らは鎌倉幕府が滅亡するタイミングで足利尊氏の挙兵に協力し、討幕に一役買って歴史の表舞台に躍り出た。ここでの功績が認められて土岐氏は念願の美濃国守護となり、 室町幕府の侍所の長官を務められる五職家に列する家格を得ている。関鍛冶の急速な隆盛がみられるのは、この頃である。
この前後の関鍛冶側の動きをみると、初代元重がやってきたとされる寛喜年間は土岐光定の時代で、せっせと美濃国内で(多分に北条氏には隠れて)地盤固めをしていた頃であった。筆者は元重は意味もなく風来坊のように現れたのではなく、野望をもった土岐光定に招かれてやってきたのではないかと思っている。
ここで鎌倉時代の刀剣産地の分布を思い出してみよう。三関以西の西国エリアと関東に挟まれて、当時の名古屋圏には刀剣インフラがない。そして三関に隣接した美濃国の守護の地位は、鎌倉時代後期には北条氏が自らが握っていた。
実はこれには理由がある。鎌倉幕府の草創期、ここは近畿地方の有力御家人:大内惟義(おおうち・これよし)が治めていたのだが、惟義は承久の乱(1221)で後鳥羽上皇側に付いて鎌倉に反旗を翻し、土岐氏もそれに従ったのである。これは鎌倉からみるとかなり衝撃的な事件であった。美濃(濃尾平野)が朝廷側の勢力圏になると東海地方の平野伝いに一気に箱根付近まで攻め込まれかねず、幕府は急遽19万の大軍をかき集め、そのうちの10万騎を東海道の防衛に投入した。ちなみに残りの9万騎は北陸道に4万、東山道(信濃)に5万で振り分けられている。
このときの鎌倉側の用兵は素早く、朝廷側の兵力が揃わないうちに京都を一気に攻め落とすことができた。この後、後鳥羽上皇は隠岐に配流となり、大内氏はあっさりと滅亡した。土岐氏は関東の千葉氏によるアクロバット擁護(?)のおかげで断罪こそ免れたものの、これ以降、美濃、伊勢は幕府執権:北条氏の一族が守護を務めるようになり、支配権は在地の武家には与えられなかった(※)。武器製造拠点をつくらせなかったのもその延長線上にある措置のように思える。
※正確には鎌倉の有力御家人宇都宮泰綱が美濃守護を務めた時期が一度だけある。それ以降は鎌倉幕府滅亡までずっと北条氏であった。
そんな時代にあって、刀匠:元重は、濃尾平野のメジャーな平野部ではなく一段奥まった山がちな一角に居を構えた。彼がやってきたとされる寛喜元年(1229年)は承久の乱の8年後で、負け戦で頭を押さえられた土岐氏が静かに謹慎していたまさにその頃にあたっている(※)。
これは筆者の勝手な推測になるけれども、このときの元重の役割は鉄資源のない美濃で刀剣製作が可能かどうかの先行調査と拠点構築にあって、それは原料のサプライルートや流通経路の開拓もコミコミの、例えとしては微妙だけれども北朝鮮の弾道ミサイル開発(ぉぃ^^;)みたいな活動だったのではないだろうか。刀に銘を打たなかったのはどこで誰が造ったものかを秘匿するため…と考えると、実は元重の謎はかなりすっきりと解消してしまう。
※そうはいっても承久の乱で朝廷側に付いた土岐光行の嫡男光定は一転、鎌倉にゴマを擦りまくって北条家から正室を迎えていたりするので、そこそこうまく立ち回っていた形跡はある(^^;)
ちなみに元重の出身地として考えられている場所は、伯耆説でも北九州説でもともに 「ヒバラ」 と読む字(あざ)で、いずれも製鉄地帯の一角である。つまりどちらからやってきたにせよ、元重は鉄の原料調達に関してなんらかのツテを持っていた可能性が高い。これはなかなかに想像力を掻き立てられる要素だ(^^;)
■ 背景としての "元寇" の話
さて視点をもう少し俯瞰的にして、関鍛冶の勃興期の状況を考えてみたい。鎌倉時代の軍事を語る際には外せない "元寇" の話である。日本刀の発展にこの異国との戦いが果たした役割は大きい。・・・というか、関の勃興期はまさにこの元寇の頃とトンピシャリにシンクロしている。
"元" はモンゴル帝国の継承国家で、建国直後から急速膨張を遂げ、元重が関で隠密活動をしていた1250年代頃には南宋、高麗を攻略していた。このとき南宋は最後まで抵抗して滅亡の道を歩むのだが、高麗はあっさりと事大して元の属国となり、なんと 「日本は豊かな国なので占領して財宝を奪いましょう」 などとと余計な進言をして元寇のお先棒を担いだ。 こうしてみると本当に朝鮮半島というのは日本にとっては疫病神でしかない。
元寇は年表上では1回目(文永の役)が文永11年(1274)、2回目(弘安の役)が弘安4年(1281)となっている。しかしいきなり大軍がやってきたのではなく、文永3年(1266)頃から日本に服属を促す勧告が6回ほど行われていた。つまり侵攻の予兆はあったのである。
鎌倉幕府はこれをうけて有力御家人に迎撃準備を命じており、これを機に刀剣製作が全国的に盛んになった。国際情勢の緊張が、国内での武器製造を活性化したのである。
※写真は Wikipedia のフリー素材を引用(蒙古襲来絵詞)
…ところで 「盛んになった」 って本当にそうなのか? という指摘は当然あると思うので、暇人である筆者は古刀期の主要な鍛冶系列の初代にあたる人の活躍年代をざっくりと一覧表(↓)にしてみた。時期は元号単位で表記している(資料によっても前後差があり、また昔の元号は短いので刀匠の若年期か晩年かでズレが大きくなってしまうが細かいことは気にしない ^^;) 資料は筆者がこのシリーズを書く際によく参照している 「日本刀の鑑定と鑑賞」(常石英明/金園社/1967)の系統図を用いた。
長げぇよ…! とか言われそうだが(笑)、まあそこはそれ。ただこれだと少々わかりにくいので、地方単位で散布図にしてみたものも以下に示してみよう。(東西の境界は三関で分けている)
結果はなかなか興味深い分布になった。まず三関を境にして東国と西国の格差が明瞭に現れている。西国では平安時代中ごろから広く刀剣が作られており、量的には古備前が多い。
面白いのは東国の状況で、平安時代(=源平合戦以前)には刀剣製作の実績がほとんどない(※)。鎌倉幕府が成立した頃から刀剣製作が始まっていて、ここに相州伝の成立が見て取れる。そして確かに、元寇の頃を境にワラワラと各地で刀匠が活躍し始めている。 大勢としては関鍛冶もその流れに乗って発展しているわけだ。
※蝦夷(東北地方)については事情が異なるのでここでは除いている
元寇を境とする刀剣制作の解禁(奨励)は、関鍛冶のリクルート体制にも影響を与えたように思える。刀祖:元重の代にはまるで隠密活動のような感じだった刀剣製作が、金重や兼永の代になるとずいぶん開けっ広げになっており、大和鍛冶の大量移住もすんなりと進んだ。
これはおそらく、元重の準備活動のおかげだろう。現代であればJETROが発展途上国で行っているような産業振興の下準備が既にできていたからこそ、関は他の地方より有利なロケットスタートが出来た。大和でもメジャーな一派であった手掻包永(兼永)のファミリーがごっそり移転してくるなど、何もないところであればあり得ない展開である。
その後、鎌倉幕府の崩壊と室町幕府の成立があり、さきに紹介した土岐氏が表舞台に躍り出てくる。彼らは五職家の家格に昇進して美濃守護の地位に就き、幕府側の有力者として大手を振って武器インフラ=関鍛冶を育てていくことになった。関の黄金時代はこのあたりから始まっている。
ところで東アジアのお騒がせ国家=元がその後どうなったかというと、いつのまにか勝手に滅亡してしまった(^^;)。日本で室町幕府が成立した頃、元の内部は軍閥化+抗争の時代で、この間に朱元璋が反乱を起こしてモンゴル勢を北方に追い払い、明を建国してしまったのである。元の国家としての寿命はわずか97年間であった。
※ついでに日本にとっての疫病神=半島国家:高麗も滅んでしまった。しかしその後に李氏朝鮮が興って速攻で明に事大したので、大陸情勢はヤッターマンがゼンダマンに変わったくらいの既視感で同じような構図に落ち着いていった。
■ そして、関の黄金時代が訪れた
さて碑の写真1枚で始まってちょっと引っ張りすぎた(笑) そろそろ一区切りをつけないとキリがなくなる(^^;)
元の脅威が去り、南北朝が和解して騒乱が終結したのは元中九年(1392)のことであった。ここで日本国内には70年ほどの束の間の安定期が訪れたわけだが、さてその後の刀剣需要はどうなっただろう?
…これが、まったく減る要素がなかったのである。南北朝の騒乱もさることながら、日明貿易然(しか)り、戦国時代への突入然り、旺盛な需要がポンポンと飛び込んできて、関は極端な低迷期というものを経験しなかった。元寇からほぼ300年、こんな状況がずっと続いたのである。
こういう展開が訪れるとは、初期にコソコソと活動していた元重にはとても想像できなかっただろう。時代のめぐり合わせというのもあるのだろうけれど、関は本当に大化けした。やがて訪れる信長、秀吉、家康といった戦国の勝ち組プレーヤーの活躍は、その上に成り立っている。
・・・などと思いを巡らせているうちにタイムアップとなり、ここで筆者は千住院を後にした。
うーん、今回はもともと関鍛冶伝承館を中心に見ようとは思っていたのだけれど、ちょっと時間配分を伝承館見学に多く割きすぎて、他のポイントを回っている暇がなかったな。もうあと1日あれば鍛冶遺跡や鋳物師地区なども廻ってみたかった。しかし時間もお金も有限であり、下天の内をくらぶれば是非もなし。・・・って、最後は信長かよ!(笑)
■ 関を去る
さて千住院から最寄りの駅は関駅であった。もう歩くのは疲れたのでここから文明の利器に乗っていくことにしよう。素晴らしいことに、ここは刃物会館前駅と違ってちゃんと駅舎がある。
…といっても、やはり駅前商店街はなく、バスもタクシーもレンタカー営業所もない。つまり余所からの来訪者がここに降り立っても、刃物会館前と一緒でおそらく路頭に迷うだろう。この点、関市の観光課はもうちょっと真面目に来訪者の足について考えてほしい気がする(笑)
※多少の補足をすると、関駅にはレンタル自転車が3台ある。これが足のすべてである(マジ)
帰路、駅で筆者を出迎えてくれたのは信長ラッピング車両であった。側面には主に尾張~美濃周辺に割拠した武将の肖像が並ぶ。見れば皆メジャーな面子で、さながら綺羅星の如し。
…思えば、彼らを支えたのがこの関の刀剣なのだなぁ
公式には 「折れず、曲がらず、よく斬れる」
実需の上からは 「曲がるかもしれないが、折れにくく、安くてそこそこ斬れる」
…量産刀であるゆえに、評価も両極端になりがちだけれど、この刀が戦国時代の終盤を彩ったのは間違いない。すくなくとも、歴史を動かす原動力のひとつにはなった。
関の刀剣は、試行錯誤の続いた日本刀の最終形態に近い。戦国期が終わるとバカみたいに量産されることはなくなって、作りは丁寧になり、そこから新刀、新々刀が生まれていった。多くの現代刀は、その子孫にあたっている。
その姿は、このうえなく美しい。
・・・無駄な構造のないシンプルな姿を見て、筆者はそう思ってみた。
<完>
■ あとがき
えー、相変わらず話があっちこっちに飛んであまり一貫性のある内容になっていませんけれども(笑)、なんとかレポートの形にしてみました。思えば旅を企画してから紀行をまとめるまで3年ほども漬物にしたことになります。なるべく嘘を書かないように……と調べものを始めると結構な手間がかかるもので、やはり日本刀というテーマは恐ろしく深遠なのでした(^^;)
さてあとがきで書きたい内容はたくさんあるのですが、毎度毎度長々と書く悪い癖を反省して、なるべく簡単にしてみようかと思います。
信長は実は凄いヤツだった!
さて今回の関編では織田信長の天下取りの話はあまり書きませんでした。日本刀よりも戦略戦術の話になりそうだったのと、筆者よりもはるかに詳しい人が既にさんざん書いているためです。それでもいくらか新鮮な発見はあり、詳しい方から見れば 「今頃気が付いたのかよ!」 とか言われそうですが(^^;)、ちょこっとだけMAPを載せておこうかと思います。
これ(↑)は信長が足利義昭を追放して事実上室町幕府が滅亡した1573年当時の織田勢の勢力圏です。信長が最初に手に入れた武器生産拠点が関であった訳ですが、その後近隣の刀剣、あるいは鉄砲の量産拠点はどうなったのだろう…と思って調べてみたら、まるで狙ったように手に入れているのですね。その勢力圏は面積でいえば日本全体の1割くらいですけれども、戦争遂行能力という点ではこの時点でもう勝負あった、という印象です。
さらに本能寺の変のあった1581年には備前長船までが勢力圏に入り、もはや織田勢以外の戦国大名は武器の独自調達が困難になっています。ここで信長は明智光秀によって討たれてしまいますが、後を引き継いだ秀吉はこの状況を足掛かりにして天下統一を果たしている訳で、その功績の大部分は信長の置き土産といってもよいでしょう。
あまりこの話を続けると日本刀というより戦国絵巻のダイジェストになってしまうのでここまでにしておきますが、武器の供給という切り口でみると大名の勢力図というのも少々違って見えてきます。やっぱり戦争に勝ちたいなら兵站の確保は重要なんですね。
最終的には溶けてしまった五ヶ伝
さて最後に多少の本編の補足を描いて終ろうかと思います。
本編中では関の発展についてあれこれと書きましたが、勘の鋭い人は 「ちょっと待った、東日本では関よりも鎌倉の方が先行していたんじゃないの? 相州伝はどうなったの?」 と当然のツッコミを入れたくなると思います。
マーケティング理論では "先行者利益" というのがあって、先に商売を始めた業者が圧倒的に有利な地位を占めるという経験則があります。それが当て嵌まるなら関の美濃伝よりも鎌倉の相州伝の方がより一層の加速をつけて成長していなければなりません。 …しかし実際にはそうはなりませんでした。なぜでしょう。
理由は単純です。相州伝は鎌倉幕府の崩壊と同時に没落して雲散霧消してしまったのです。
室町幕府が政権を掌握すると、鎌倉には将軍の代理人として鎌倉御所(公方)が置かれましたが、既に政治の中心からは外れてしまったために町は急速に寂れ、刀匠たちも去ってしまいました。有名な正宗の作風を受け継いだ十哲と呼ばれる名工たちも、鎌倉に残った者は一人もいません。
【正宗十哲の移住先】
① 美濃国:金重
② 美濃国:志津三郎兼氏
③ 備前国:兼光
④ 備前国:長義
⑤ 筑前国:左文字
⑥ 山城国:来国次
⑦ 山城国:長谷部国重
⑧ 越中国:郷義弘
⑨ 越中国:則重
⑩ 石見国:直綱
① 美濃国:金重
② 美濃国:志津三郎兼氏
③ 備前国:兼光
④ 備前国:長義
⑤ 筑前国:左文字
⑥ 山城国:来国次
⑦ 山城国:長谷部国重
⑧ 越中国:郷義弘
⑨ 越中国:則重
⑩ 石見国:直綱
鎌倉が脱落したおかげで、美濃国は南北朝の頃には東日本の刀剣生産基地としては伸び代のたっぷりあるルーキー(相対的に東日本随一の先行者)の地位にありました。当時の奈良(南朝)と京都(北朝)は騒乱でバタバタしていますから、この時点であまりドンパチに巻き込まれていない有力な刀剣産地として、西の備前、東の美濃という大まかな構造が出来ていきます。
いずれも室町幕府と政治的に関係が良好で、お得意様の間柄です。鎌倉に見切りをつけた刀匠の多くは、このいずれかに身を寄せて "鎌倉風" の遺風を伝えてその作風に影響を及ぼしながら溶けていきました。だから刀匠名鑑をみても鎌倉相州伝の鍛冶は少ないのです。
ところで五箇伝(五ヶ伝)という言い方は戦国末期の頃に刀剣鑑定師の本阿弥光二(信長/秀吉の郎党)が分類したとされていますが、江戸時代になるとこれも事実上溶けてしまった感があります。というのも、戦国の頃までは刀の打ち方には地方毎に明確な特色があった(→だから分類も容易だった)ものが、江戸の太平の世になると客の好みに合わせて一人の刀匠が 「鎌倉風」 「京風」 「備前風」 などと五箇伝を模して打ち分けるケースが増えて、例えとしては微妙ですが 「札幌ラーメンだけど熊本風(笑)」 のような感じで特色が失われてしまったのですね。
そのような背景があるので、江戸期になって誕生した新刀、新々刀には五箇伝は素直には当て嵌まりません。鑑定もなかなか難しく、まず新刀鍛冶の多い京阪物、次に多い江戸物の特徴と符合するかを確認し、当て嵌まらないものについて順次他の地方の刀工集団の特徴と比較していく…というかなり面倒な方法論で分類されることになります。
ではその中で関物(美濃伝)はどんな位置にあったかと言いますと、①京阪 ②江戸 に続く ③第三グループとして 肥前+薩摩+備前+加賀+紀州+美濃+仙台 がありその一角を占めるという程度にランク落ちしていました。新刀期になると地方の大名が有力な刀匠を引き抜いてお抱え鍛冶にしてしまったので、かつて名工を輩出した関鍛冶も陣容が薄くなってしまったわけです。
そのかわり、日本各地の城下町でその地方のローカルブランドで打たれた刀剣がにわかに増えだします。その多くは関刀のコピーまたは亜流を発祥とし、それぞれの地域で独自の発展を遂げました。古民家の納屋の奥から発見される日本刀には、そんな出自のものが多いと思います。
今回筆者の訪れた関市は、そのような歴史の中で刀剣以外の需要を掘り起こし、ハサミやカミソリなどに主軸を移しながら現代まで "刃物の街" として存続しています。日本刀にはある種のロマンがありますけれども、近代の世相にあってはそれだけでは食えないという現実が、このあたりにちょっぴりほろ苦く後味を残しているような気がしました。
よくも悪くも、それが現代における日本刀の姿です。そんな中で刀を打っている現代刀工さんは、本当に頑張っていると思います。願わくば、彼らに名誉と食い扶持と作品発表の機会を。
そして日本刀の伝統が、これからも続きますように。
…千代に八千代に、細石の苔の生すまで ヽ(´ー`)ノ
【まだまだ続くよ日本刀】
さて今回で備前~出雲~関の旅は終わるのですが、鉄と日本刀を追いかけるシリーズはまだいくらか続きます。いつまでやるんだよ!…とかツッコミが来そうですけど(笑)、次は蝦夷の刀を追いかけてみようかなと思っています。
記事にできるのはちょっと先になりそうですが、…まあ、そのうち、いずれ♪(^^;)
<おしまい>