2014.05.03 新緑の那須を周遊する:後篇(その3)
■ 綱子
さていつもならここでマウントジーンズ方面に行くところだが、今回はそのままr68を北上して、最後のチェックポイントである綱子を目指していく。
綱子は那須町でほぼ最北端の村落である。…といっても、特別なにか変ったものがある訳ではない。筆者がここに来たのは、関東と奥州の境界=黒川周辺の春の景色を見たいという、ただそれだけの目的である。
ここは黒川によって穿たれた細長い河岸段丘に拓かれた村で、白河から那須湯本に至る古い街道筋の下野側の玄関口にあたっている。人の居住記録は江戸時代中期頃からあり、寛永~元禄の頃におきた "江戸の人口爆発" の副産物みたいな開拓地であったらしい。現在では3kmほど上流に黒森ダムが出来、細長い開墾地がダム周辺まで断続的に並んでいる。ソフトクリームと植物園で¥1000くらいしか出費していない本日の貧乏ドライブは、ここの風景を眺めながら締めくくろうと思う。
細長い盆地の風景はこんな感じで、観光施設などは何もなく、人の姿もない。道の向こう側にちょこちょこと家が並んでいるのが綱子の集落で、そこを除けばあたりは幅200mほどの耕地が長く長く連なっているのみである。それのどこが良いのかといえば、何度も同じことを言うようで恐縮だが電線も看板もないすっきりとした風景であり、そしてもうひとつ、春の最も遅い地域という隠れた称号であろうか。
ここからはr68を外れて開拓農地を進んでみよう。周辺の丘陵地は大田原や矢板と比べてもまだまだ萌木色が浅く、淡い。
見れば野の桜もまだここでは現役で咲いている。これも実はGWの頃のここの隠れた見どころなのだが、理由については別途後述することとしよう。
未舗装の田んぼ道を進んでいくと、いかにもローカル然とした "国境の橋" があらわれる。クルマが1台ぎりぎりで通れるくらい幅で、10t の重量制限つき。まあ軽トラかトラクターが通るのが精々といったところだろうか。
こんな橋にも名前が付いていて、馬場坂橋という。名前からすると昔は付近で馬の放牧でもやったのだろうか。…まあそれはともかく(^^;)、ここから陸奥国にプチ越境してみるとしよう。
橋から眺める黒川はこんな感じである。ここを境界にして、右側が福島県(陸奥国)、左側が栃木県(下野国)になっている。奥州と関東を隔てる境界としては、少々ささやかに過ぎるかもしれない川筋である。
橋の上から見下ろすと、魚影は猛烈に濃い。うーむ…これなら釣り道具のひとつも持参するのだったなw
※筆者が子供のころはこういう所では橋の上から竿も使わず糸と針と魚肉ソーセージの残りカスくらいで手釣りをしたものだが、今どきはさすがに流行らないらしい(^^;)
■ 国境の話
さて風景ののどかさだけでは間が持たないので、本日最後のネタとして、ここで奥州と関東の境界の話を少し書いてみたい。
この川が下野国(那須国)と陸奥国の境界となったのは、今を去ること1300年ほども昔のことである。下野国はもとは国造(くにのみやっこ)の収めるやや曖昧な領域だったものが、大化の改新以降の律令制の元で那須国を経て下野国(689~)となった。陸奥国の成立もほぼ同じころである。
※陸奥国はその後どんどん北に拡張してついには下北半島まで至る超ロング国となってしまうのだが、下野国との国境が大きく変わることはなかった。
現代のような測量の技術のない時代にどうやって地形を区分し、ここに国境線を引いたのかというと、人間の生活圏の境界がこの付近にあったからである。
そのような線引きは、はしばしば山岳とか大きな河川とか、いわゆる自然国境という概念で説明されることが多いと思う。下野国と陸奥国の国境は、東は八溝山地、西は那須山塊であり、その端部をむすんだのが国境という言い方がよくなされている。しかし順番からいえば、山よりも先に川が来るべきであろう…と、筆者は思っている。
それは付近の水系図を描いてみると分かりやすい。下野国とは那珂川水系+鬼怒川水系で結ばれた地域であり、陸奥国は阿武隈水系+阿賀川水系で結ばれた地域であることがはっきりとわかる。国境はその川の流れる方向を分ける分水嶺にほぼそって引かれているが、それは必ずしも目立つ高い山ばかりではない。領域を決めているのはあくまでも "水系の分布域" の方なのである。
一般に河川は古代にあっては漁労の場であるのと同時に交通路でもあり、生活様式や習慣などはそれに沿って広まった。いわゆる河川流域文化圏論などはそれに立脚した論議である。まあそこまで大仰な(^^;)話をしなくても、大和朝廷の官僚たちは 「なんとなく同質の連中の住んでいる地域区分」 というのは把握していて、それらを束ねる地方豪族の勢力圏を勘案しながら国境を定めたのだろう。そして結果的に、それは見事に河川の広がりと一致したのである。
ただ筆者の今いる綱子の付近は、本来なら分水嶺としての明瞭な山があってほしかったのだろうけれども、全体がゆるやかな丘陵地の連続で、稜線を決めにくい地形であった。そこで那須山塊と八溝山地の分水嶺を無理なく結ぶ準・指標として、この黒川が採用されたのではないかと筆者は想像している。
※この付近の黒川は、那須山塊と八溝山地をちょうどつなぐようなルートで流れており、誰が見てもわかりやすい境界となりえた。
ちなみに、この黒川の位置の絶妙さ具合は、東日本の広域標高データからも読み取れる。
上の図(↑)は関東~奥州の代表的な交通路として、JR東北本線の経路に沿って東京から仙台までの地形断面を描いてみたものだ。ローカルな起伏ではなく100km単位の大まかな地形で見ると、ここが巨大な分水嶺になっていることがわかる。
ここから南側に向かって流れる河川の流域が関東であり、北側に流れる河川の流域が奥州である。大和朝廷の官僚たちはもちろんこんな測量図をもっていた訳ではないけれども、ここを境界に気質の異なる北方の住人を、おおまかに蝦夷(えぞ/えみし)と呼んだ。"夷" などという失礼な字を充てたことの是非はともかくとして、これは河川流域文化圏の考え方と面白い一致をみせている。
※仙台以北については律令草創期(飛鳥時代末期)はまだ朝廷の影響力が十分に及んでいないので、たとえば岩手県の北上川などは南側に流れているじゃないか、というツッコミについては 「時代性が違います」 としか言いようがない(^^;)
※同じように考古学的には5世紀以前には関東、北陸も蝦夷のテリトリーだったと推定されているが、ここでの議論はあくまでも律令国が成立した頃の朝廷の支配地域の北限 vs その外側にいる人々の生活圏という視点で書いている。
さてこの標高分布は、もうひとつ面白い現象を春の福島県(中通り地方)にもたらしている。
北よりも南の方が標高が高い(=寒冷)ために、いわゆる桜前線は白河をスキップしてまず福島市~仙台方面に先に上陸し、そこから白河をめざして "南下" するのである。そして関東地方を北上した前線と福島県を南下した前線が出会って最後の一華を咲かせるのがこの黒川の一帯であり、そういう意味でもGWに咲くこの付近の桜は、なかなかに面白い風景なのだ。
※ちなみに東北地方を "北上" した方の桜前線は、この時期には弘前付近に到達している。
…といっても、それを知らなければただの田舎風景(^^;)
ここは大挙して観光客が押し寄せてくるような場所ではなく、おそらくそんな視点で風景を眺めている人はほとんどいないし、観光資源としても活用されていない。わかっている人だけが、静かに風景を愛でるくらいでちょうど良いと思う。
そんな訳で、しばし静かなる山間風景をみてマターリ。時計をみると11:00を少し回ったくらい。ふむ…半日程度でも結構、周遊できるものなのだなぁ(^^;)
…今日は、これ以上無理をする予定はない。帰路が混雑で支障を来たさない程度の時間帯で、ゆるゆると戻ることとしよう。
いまいちど見渡せば、川のせせらぎの音と、鳥の声ばかり。他には、なーんにもない。
…しかしこれこそが、最高の春の風景ではないかと筆者は思ってみた ヽ(´ー`)ノ
<完>