2015.01.14 大山農場跡のどんどん焼き
大山地区でどんどん焼き(どんど焼き)を見て参りました (´・ω・`)ノ
年が明けたなと思っていたらもう小正月…ということで、どんど焼きを見てみることにした。この日はそこらじゅうでローカルなどんど焼きが行われていてどこを見てもそれなりに面白いのだが、今回筆者が訪れたのはその中でもおそらく市内で最も参加者数が多いであろう大山農場跡である。ここは住民の自治活動がかなりしっかりしていて、子供の参加率も多く、ちょっと賑やかなどんど焼きが行われている。
■ 大山農場跡へ
さてこの日、筆者は日本の正しいサラリーマンとして昼間は底辺労働に勤しんで、帰宅途中に大山農場跡に立ち寄った。本来なら準備段階から見てみたい気分もあったのだけれど、小正月とはいっても一般企業にとってはただの平日…そんな訳で、定時上がりで Hit & Away 方式に行ってみたのである。
大山農場はJR西那須野駅の東側の一帯、270haあまりの広大な面積を誇った開拓農地であった。薩摩藩士の大山巌(初代陸軍大臣、陸軍元帥)が明治初期に国有地の払い下げをうけて開拓に着手し、半世紀余りにわたって存続したのち、第二次大戦後の農地解放で解散している。農場跡地はその後市街化が進んで、現在では農地と住宅地がモザイク状に入り混じっている。しかし農場はなくなっても明治期に入植した開拓農民の公共意識の高さや結束性はその後も長く維持され、この地域を特徴づけている。
ここで結束性ってなんだよ、とのツッコミがありそうだが、簡単にいえば地域の会合やイベントに積極的に協力しようとする意識が高いと思って頂ければいいと思う。これは大山農場一か所に限った話ではなく、明治期の那須野ヶ原開拓地にひろくみられた傾向でもあった。他所(よそ)からの入植者が集まってつくられた新しい開拓村落には、共通の "伝統" と呼べるものがない。だから当時の開拓民は意識的に寄合や集会に参加し、祭りなどの行事には積極的に盛り上げて、"地域をつくる" ことに力を注いだのである。
それが100年以上たった今でも地域の性格としてほんのりと残っていて、地域イベントでの動員率とか協力者の層の厚さに表れている。そういう意味では、ここは社会学的にとても面白い地域と言えるかもれない。
さて前振りはそのくらいにしておこう。いざ現地入りしてみると、会場である公民館は既にいっぱいのようで、クルマは隣接する小学校の校庭に停めるよう案内された。見れば職員室の明かりが煌々とついている。どうやら学校の職員氏もスタッフとして協力しているらしい。
クルマはぞろぞろと入ってくる。ともかく会場のほうに移動してみるとしよう。
祭りの会場=大山公民館はちょっとした小中学校並みのグラウンドをもった東西150m、南北160mほどの広々とした施設である。面積だけでいえば近隣の那須野ヶ原ハーモニーホールにほぼ匹敵しており、元が広大な農場だったせいか用地の使い方はナニゲに贅沢だ。
おお、ぼちぼち人が集まってきているな…ヽ(´ー`)ノ
■ 鳥小屋
公民館のグラウンドに入ると、さっそく高さ7~8mくらいはありそうな鳥小屋が作られていた。形式は割とオーソドックスなタイプだ。
余談になるが那須野ヶ原ではどんど焼きの鳥小屋のつくり方に地区によって微妙な差がある。どうやら昔入植した人々の出身地の風習を引きずっているようで、駅の向こうの三島地区では竹で鳥居を建てたりするのだが、ここでは代わりに祭壇が設けられていた。
鳥小屋の材質は竹の骨組みと藁束である。内部はテントのように空洞になっていて、正月飾り等はこの中に組んだ薪の井桁の上に積んでいくようになっている。
本日は乃木神社から神職さんが出張してきて神事を行うらしい。奥に見えるダンボールの箱には大量のお菓子が入っていて、祭りが始まると子供たちに配られることになっているとのことだった。
祭壇とセットになっている団子のついた木の枝は、いわゆる繭玉(まゆだま)である。奥に見えるテントのところでも大量に配っていた。何人来るのかよく分からないのだけれど一人一本ずつ配っているようだ。スゴイな…
ところで、どんど焼きの 「どんど」 とは歳徳神のことであることを以前の木幡神社の記事で書いた。歳徳神とは新年の福を運んでくる女神様のことで、地方によって 「としどん」 とか 「どんどん」 などと多少の訛りが入る。統計的に多いのは圧倒的に 「どんど」 である。
そういう中にあって、ここ大山地区では那須野ヶ原では珍しく(?) どんどん焼きの表記を採用している。筆者はてっきり開拓に入った農場の親分さん=大山元帥が薩摩の人だったので 「西郷どん」 の要領で神様も 「歳徳どん → どんどん」 になったのかな…などと当初は思っていた。
しかし世の中には暇なNPO(注:最高の褒め言葉 ^^;)があって全国のどんど焼きを集計しており、 それによると長野県を中心に中部地方~東海地方で 「どんどん焼き」 の表記が分布しているらしい。そして那須野ヶ原(特に西那須野駅周辺)に移住した開拓民には、実は長野県出身者が多いのである。…うむむ、これは気が付かなかったぞ。
※補足:どんどん焼きの呼称は長野、山梨、静岡付近に多いようだが、長野からの入植者が持ち込んだものかどうかについて、決定的な証拠までは筆者は持っていない。
■ かくも多きかな…!
さて案内書によると神事の始まるのが18:00、点火が18:45頃とある。さてそろそろかな…と思っていると、急に人が増えだした。うむむ…、いったい何人いるのだろう? どんど焼きにしてはものすごい人数だ。見れば子供連れが多く、どうやら隣接する大山小学校の児童たちであるらしい。
ちなみに大山小学校の児童数は650名ほどである。さすがに参加率が100%ということはないのだろうけれど、子供+保護者、それに地元の老人会らしい面々と、筆者のような野次馬一般人が加わって、ざっと目算したところやはり千人くらいはいるようだ。…こりゃ凄いな。
テントではさっそく、団子、うどん、甘酒などが振る舞われている。後方支援部隊を支えるのは地元のご婦人たちで、こういう協力隊の層の厚さが大山の "どんど焼き" を大きなお祭りとして支えているように思える。
■ 神事、そして点火へ
さてやがて定刻となり、まずは供物の並んだ祭壇に種火が灯され、地元小学生の作文朗読を経て偉い人の挨拶が始まった。例によってこの種の話は長いので、ここではすっぱりと省略(笑)
※ちなみに挨拶のトップバッターは那須塩原市長で、市長さんが来るからにはやはりここが本日市内で最大規模(=票田:笑)のどんど焼き会場であるらしかった。
挨拶が一巡すると、いよいよ神事である。農作物、酒、塩などの供物を捧げながら、「畏れ多くも賢い神様、あなたは偉い!」 という趣旨の神様を称える文言をまず述べているようだった。
どんど焼きの祭事は単純なものかと思いきや、いくつかの細かい儀式に因数分解できるようで、神職さんはいちいち 「○○の儀を執り行います」 などと解説しながら細かい所作を粛々と進めていく。筆者には細かい内容はよくわからなかったが、思いっきり四捨五入すると、まずは神様に鳥小屋(=憑代)に降りていただき、祝詞を奏上したうえで、離れていただく。その後、火を放って炎とともに天にお帰り頂く…という手順を踏むらしい。
筆者はてっきり神様ごと火炙りにしてしまうのかと思っていたのだが(ぉぃ)、実際にはこんなシークェンスになっていたのだなぁ。…ちょっとだけ利口になったような気がするぞ。
※もっと小さな集落の田んぼの片隅で行われるようなどんど焼きでは、ここまで本格的な儀式は行わない。しかし略式ではあっても地区の長老が音頭をとって 「今年も一年間、無病息災でありますように」 という趣旨の文言を述べることが多い。
さて今回は奏上のついでに厄払いその他の祈願についても神様にお伝えすることになっており、これを申し込んだ人が存外に多かったために祝詞もえらく長いものになっていた。申し込んだ人の氏名とお願いの内容はいちいち言葉にして読み上げられる(=言霊信仰によるらしい)ので、伝統を重んじる保守的な地域ほど神事は長くなる。
儀式が進む間、集まった人々は頭を垂れて歳神様に敬意を表していた。都会では失われてしまった日本の伝統的な信仰空間が、ここではごく自然なこととして存在していることが見て取れる。
神事がひととおり済むと、種火から松明に火が分けられた。点火の役目を担うのは、ここでは地元の子供たちだ。見れば年配者にも子供にもちゃんと役割があって、幾つもの世代がひとつの祭りを作り上げている。…こういう風景は、なかなかに良いものだな。
さて松明も行きわたり、10人くらいで鳥小屋の周りを囲む。
そして合図にあわせて一斉に、点火した。
たちまち、ごごごごごご~っ …と、炎が燃え上がるヽ(´ー`)ノ
と同時に、おお~と歓声が上がった。
凍えるような寒さだった空間が、炎に照らされて一気に暖かくなっていく。…いや暖かいを通り越してもう "熱い" といった方がいいかもしれない。同時に、バキン、バキン、…と竹の骨組みの破裂する音が響き渡った。お上品なコンロの炎などとは違う、野太い祭りの炎の音だ。
物凄い熱に煽られて、人混みはじりじりと後ずさりして、頃合いの良さそうなポジションで炎を眺める。低学年の児童にとっては、よほど珍しいのだろう、炎が上がってからもなんども歓声があがっていた。
■ 繭玉の話
やがて祭壇に飾ってあった繭玉の枝を人々がポキポキと折りはじめる。もう神事は終わってしまったので、あとは見物人で適当に分け合ってどんど焼きの炎で焼いて食べるのである。これを食するとこの1年間、無病息災になると言われている。
この繭玉の起源をさかのぼっていくと、鏡開きに行きつくという。神様に備えた餅を松の内の最後を飾るどんど焼きの炎で焼いて食べたものが原型で、もう千年ほども続いている習慣だ。ただ江戸時代(寛文二年)に松の内を15日から7日に短縮するよう幕府からお触れが出たことで、鏡餅を食べる日は前倒しになった。このあたりから旧例と新例の小正月行事が分岐して、鏡開きはなんとなく幕府令に引っ張られて1月11日頃に落ち着いていくことになる。
一方で、どんど焼きは江戸市中では禁止(→火災予防のため)となって消滅し、地方では旧例に倣って1月14日の夜の実施が長く残ることとなった。そしてどんど焼きで餅を焼く風習は、やがて鏡開きとは分化して別形態に移行したのである。
"繭玉" という表現は、分化の後にとくに養蚕の盛んだった地方で好んで使われるようになったといわれる。
余談になるが日本では絹生地の輸入割合が高い時代が長かった。それが江戸時代になって幕府が財政改革の一環として国産化を奨励し、一躍、富の代名詞となるのである。縁起物と繭のイメージが被るようになったのがその頃で、やがて鏡餅から分化した小正月行事の餅や団子にその名が冠されることとなった。だから繭玉は最初からあのサイズの餅なのではなく、鏡餅が繭のサイズにミニチュア化して成立したものなのだ。
実をいうとかつては那須野ヶ原でも養蚕は広く行われていた。ただし時代は比較的あたらしく、立ち上がりは幕末から明治の頃で、生産のピークは大正から昭和の初め頃であった。いまとなってはその起源を確認のしようもないけれど、筆者は蚕影神社の建てられた頃に繭玉焼きの風習も広がったのではないかと思っている。
…それにしても燃え盛るどんど焼きの炎は熱い。チャレンジャーな少年たちが次々と特攻(?)を試みるのだがなかなか近づけない。
かくいう筆者もなかなか近づけないので、遠くから形だけ炙っている風?の絵を撮ってみた。…はて、これでご利益はあるのだろうか?(^^;)
■ 流れモードに至るゆるやかな時間
やがて鳥小屋の表面を覆っていた藁は燃え落ち、骨組みと正月飾りの土饅頭部分が燃えるフェーズに移り始めた。
火の勢いが穏やかになってきたところで、燃える藁屑が熊手で引っ張り出される。熱くない程度の距離感まで熾火をもってきて、それで繭玉団子を焼くらしい。このあたりになってくると雰囲気はだんだんと流しモードに変わってくる。火に当たって、世間話に花を咲かせながら甘酒を頂く…そんなダベリングの時間帯だ。
※気取って書くなら "社交の時間帯" とでもいうのかもしれないけれど、単なる井戸端会議風の雑談なのでそんな上品なものではない(笑)
そのゆるやかな時間を、老若男女がなんとなく共有している。ぼんやりとした、曖昧な空間で、特に何かをするわけでもなく過ごす時間。正面から交わることはなくても、視界のどこかには必ず誰かがいて、孤独にはならない程度の距離感。こういう雰囲気はかつてはどこの田舎にもあった筈なのだけれど、いつのまにか見かけることはなくなった。…皆、忙しくなりすぎたのだろうかね。
筆者もまた、いくらかそのダベリングの輪に加わってみた。聞けば今年は4年ぶりのどんど焼きなのだそうで、久方ぶりの実施でようやく伝統が継承されたのだという。休止されていたのは、もちろん震災に関する "自粛" の影響によるものだ。そして 「ようやく」 という言葉には、ある種の感慨が込められていた。
興味深いことに、休止で住民の会合の頻度が減った結果、祭りはもちろん自治会の運営ノウハウが結構忘れられて困った…という話もあった。逆説的な物言いになるけれども、これは祭りの準備を介して継承されてきた無形の資産の大きさが、謀らずも浮き彫りになった事例かもしれない。…思うに、日頃なんとなく顔を合わせている…ということの効用は、予想以上に大きいのである。
傍(はた)から見れば単に火を燃やしているだけのように見えるこのどんど焼きも、そういう観点から見ればまた違った姿で見えてくる。
こうして点火するまでに費やされた "人の営みの積み重ね" の方にこそ実はより大きな価値があるのかもしれず、そしてその副次効果は、燃え盛る炎よりもはるかにゆるやかな、ほんのりとした恩恵を、ながく地域にフィードバックしている。…なかなかうまく表現しにくい概念だけれど、こういう一見すると得体のしれない何ものかが、実は祭りのもたらす 「福」 というものの本質なのではないか…と、筆者はゆるい思考で考えてみた。
さてそんなわけで、あまり小理屈を書きすぎるとどんどん文章が面倒になってしまうので(笑)、このへんで頭をリセットして甘味の補給と洒落込もう。
無料で振る舞われている甘酒は、ことのほか旨かった。…野暮を承知で補足するけれども、決して無料だから旨いと言いたい訳ではないぞっ(笑)
…ということで、しばらくぼーーーーっと過ごした後、これ以上することもなくなった筆者は、ゆるゆると祭りの会場を後にした。小正月といっても企業社会では今日も平日、明日も平日である。夜更かししてそうそう長居をする訳にもいかないのだ。
周囲もぼちぼち流れ解散になりかけていて、小さな子供連れの家族から徐々に撤退が始まっている。一方で炎はまだ盛んに燃えており、案内のチラシに終了時刻が書いていないところをみると、燃やせるだけ燃やして最後は消防団による消火の確認…という流れになるようだった。こういう裏方さんも含めて、本当にお疲れ様…と、申し上げたい。 …まあ、最後は打ち上げの飲み会でドンチャンになるのだろうけれどもw
■ 帰路
帰路は、意図的に遠回りをしながら那須野ヶ原を周遊してみた。見ればあちこちの水田でローカルなどんど焼きが行われている。市街地から離れた小集落で焚かれる炎は、下手な観光化がされていないぶん、漆黒の闇に素朴に浮かび上がって美しい。
神道的な解釈によれば、あの煙に乗って歳徳神は天に帰っていくと言う。月に連動していた旧暦の時代では、空に大きな満月がかかって、さながら竹取物語のような風情があったことだろう。
今は太陽暦の時代なのでなかなか昔の状況を再現できないけれど、そういう本来の小正月の風景を、いつか見てみたいものだな…と、筆者はふと思ってみた。
※補足:直近で旧暦と比較的類似の月齢(14.18)が得られるのは2025年で、正しいどんど焼きの風景を見るにはあと10年ほども待たなければいけない。…うむむ。
【完】