2015.01.18 南山御蔵入領と百姓一揆の記憶:前編(その2)



 

■ 一揆の起こる以前はどういう時代だったか




さてここからは本格的な雪国エリアを北上して行く。

会津西街道(R121)は田島エリアの主要幹線道路として現在もそこそこの交通量がある。しかし太平洋側の代表的な幹線道路:奥羽街道(R4)と比べれば微々たるもので、除雪はされているものの路面は圧雪で白く塗りつぶされている。気温は日中でも氷点下である。




この雪の中を、まずは山王峠を超えて七ヶ嶽方面に折れ、高杖スキー場を目指していく。

どうしてストレートに南会津の中心都市=田島を目指さないかというと、田島~下郷方面は比較的雪の少ない地域なので南会津本来の雪の深さというのがなかなか感じられないためだ。やはり南会津という土地を語るには、その雪の深さを知らねばならない。

その雪景色を眺めながら、ぼちぼち南山御蔵入騒動に至るまでの歴史の話などを織り交ぜて書いていこう。




さて江戸時代初期にくるくると領主を変えた南山御蔵入領の支配者の推移をみると、ざっとこんな(↑)感じになっている。蒲生家の時代に会津藩の基礎がつくられ、加藤家の時代にお家騒動をきっかけに南山御蔵入領が分離され、幕府直轄領(天領)となっている。

ここで加藤家の後に会津藩に入部した保科家(のちに松平家に改称)が、その後の南山御蔵入領のありかたに大きく関与していくことになる。保科家の初代:保科正之は二代将軍:徳川秀忠の四男にあたり、江戸幕府に於いては大政参与(大老に匹敵する地位)にある有力大名であった。秀忠の "お手付き" によって妾として認められない身分の女性を母としたため将軍家を継ぐ資格は持っていなかったが、忠義に篤く実務能力もあったので三代将軍:家光には特に可愛がられた。この保科正行に、南山御蔵入領は預けられたのである。

※江戸時代初期においては、天領は代官による統治の他に、近隣の大名に "お預け" として統治を委託することも多かった。そこから得られる年貢米は最終的には幕府に収められる訳だが、普段の統治は地元の状況をよく知る近隣大名に任せるのがよかろうと判断されていた。

この会津藩による支配は断続的に幕末まで続き、この間に江戸幕府による直接支配が4回交替した。ただし幕府による直接統治はいずれも10年程度の短期で、その主な動機は収入増を見込んだ無理な年貢搾り上げの試みであったので、毎度のように失敗して結局は会津藩の預かり支配が復活するパターンを繰り返した。南山御蔵入騒動が起こったのは、このうちの2回目の末期にあたっている。



話を保科家支配の初期に戻そう。入部初代の保科正之は、その統治の手腕から江戸時代の三名君の一人に数えられている。時代はちょうど戦国の荒くれ者が幅を利かせる武断統治の時代から行政手腕に優れた者が要職に就く文治主義の時代へと変わりつつあった頃で、彼はその文治主義の立場に立って儒学者を多く用いて政策を立案していた。そして領民から年貢を搾り取るばかりではなく、いわゆる憮民統治的な手腕で生産性を上げ、まず百姓の生活を豊かにすることで領内を安定させたのである。これは儒学で言う徳治思想の具現化でもあった。

こうして戦国の気風をひきずり武断的な性格であった加藤時代には荒れていた会津の地は、保科家の支配下に入ってからは見違えるように豊かになっていく。

※画像はWikipediaのフリー素材から引用
※ただし名君といわれる保科正之も、若かりし頃は出羽山形藩で百姓一揆鎮圧に際し35名を即日処刑するなど武断的な手法をとっている。彼が統治観を改めたのは四十を越えて儒学に傾倒するようになってからのようである。





その代表的な政策を紹介すると、まず貧しいこの地から江戸への直接の廻米(→年貢米を江戸まで農民が輸送して収める)は行わず、会津藩に収めさせるようにしたうえで、飢饉に備えて社倉制という仕組みを設けた。社倉制とは飢饉などの緊急時に備えて米穀を備蓄しておく制度で、備蓄米の一部は農民に種籾として低利で貸し出され、これが高利貸しの跋扈をおさえて農村経済の安定化につながった。

驚くべきはその事業性で、初年度(寛文十二年)は籾一万二千石、金4027両で始まった備蓄は低利ながら貸出しサイクルがうまく回って2万石ほどまで増え、これは南山御蔵入領のコメの取れ高の2~3割ほどにも相当していた。この小大名の収入にも匹敵する備蓄は、農民の救済以外には使わないことになっており、おかげで不作の年でもほとんど餓死者が出なくなった。

保科正之の政策はいちいち紹介しているとキリがないので他は省略するけれども、 ともかく御蔵入領騒動の起こる以前は、領民にとってそれなりに善政が敷かれた時代があったことは覚えておきたい。

この "会津藩預かり" の統治は、元禄期の幕府直接支配を挟んで正徳三年(1713)まで60年あまり続いた。一揆のほとんど起こらない、幸せな時代であったといえる。

※余談になるが南山御蔵入領の年貢は保科正之が三代将軍:家光に可愛がられたこともあり3年毎の清算で良いとされた。このため豊作/凶作の平均化が可能で豊作の年に剰余米を備蓄しやすかったという特殊事情もある。



 

■ 一転、住民の困窮、そして一揆へ・・・




さてあまり引っ張りすぎるとレポートが長くなってしまうので、ここで一揆のあらましについて簡潔に説明しておきたい。南会津では南山御蔵入騒動について何冊か郷土資料がつくられていて、道の駅などにも置いてある。このうちの一冊 「南山六義民の碑建設記録」 の記述を参考に、ざっとその流れを記してみよう。



時は正徳五年(1715)、南山御蔵入領に江戸から山田八郎兵衛という代官が赴任した。これが非常な悪代官で、領内の年貢率を毎年あげていき、米以外の雑穀についても新たな課税を行い、さらには不作の年にも例年と同じ年貢を要求し、困窮した農民には年利100%という高利で米を貸し付け、また農繁期であっても無理な労役に駆り出すなどした。これに怒った領民はついに享保五年(1720)十月二十七日、田島陣屋(代官所)に数千人(※)の徒党を組んで押し寄せ、年貢の減免を求めるに至る。

山田代官は一旦は交渉に応じる振りをしたものの、農民代表を次々に捕らえて獄につないでしまった。そこで農民有志の中から直訴隊が結成され、江戸に向かって雪山を超え、直接幕府の勘定奉行所に救済を求めるに及んだ。これで一気に騒動は江戸幕府の知るところとなる。

しかし幕府側は農民の訴えを正面から受け止め吟味することはなく、訴状はたらいまわしにされ、回答は何ヵ月も引き伸ばされた。農民側も簡単には引き下がらず、事態は長期戦となっていく。しかしその間、郷里では幕府の役人が領民一戸一戸を訪ねて 「お前の家は騒動に加担したか」 と調書を取りはじめ、恐れをなした在郷の農民が 「自分は何も知らない」 と答えると、それをもって江戸入り中の農民代表を 「立場を偽って直訴に及んだ」 と断じた。これで農民側は全面敗訴となり、首謀者とみなされた6名は打ち首となってしまった。

ただし山田代官も統治失敗の責任を問われて解任となり、形の上では相討ちとなって騒動は沈静化した。

※この書籍には数千人と書いてあるが他の資料では800人前後の数字を挙げたものが多い。



…なにやら時代劇の 「水戸黄門」 の台本から黄門様の登場をカットしたような話だが、いくらかのバージョンの違いはあれど、この地方に伝わっている一揆のあらましはだいたいこんなストーリーになっている。




幕政へのインパクトという点では、この南山御蔵入騒動は当時の徳川政権にはかなりの衝撃をもって受け止められていたらしい。それは村単位の単発一揆ではなく、面積では鳥取県ほどにも匹敵する幕府直轄地の百姓がほぼまるごと団結して反旗を翻したという規模の大きさがあったためである(※)。領内271ヶ村が一斉に足並みをそろえたその組織力は、かつて戦国時代の一向一揆(加賀一国をまるごと100年近く支配した)を想起させたかもしれないし、それ以上に幕府は島原の乱(1637)の再来を恐れたことだろう。

※天領、または一つの藩全体を単位にした大規模な一揆は "全藩一揆" などと呼ばれる。享保年間以前にはほとんど見られず、江戸時代後半になるとにわかに増えてくる。南山御蔵入騒動はその最初期の事例にあたっている




しかしこのとき農民側は打ち壊しなどの暴力行為には及ばず、かなり自制の利いた対応をしていた。代官所を囲んだ群衆は統率がとれており、現代の基準でいえば街頭デモの水準で留まっている。その後の訴えも、要は "陳情" であって勘定奉行に訴状を提出したに過ぎない。これは名主クラスのブレーンが一年ほどをかけて周到に準備した作戦で、幕府の文治主義の建前をよく研究したものであった。

とはいえ一国に匹敵する統率のとれた農民集団というのは、やはり幕府にとっては扱いの難しい相手であったのだろう、訴状に対する回答はなかなか明瞭には出されなかった。

やがていくらかの紆余曲折を経て勘定奉行による実態調査が始まったが、農民側の期待をよそに審理は代官有利のうちに進み、翌年の収穫時期が近づいた頃、大規模な武力蜂起に至る恐れは少ないとみた幕府はついに農民代表の逮捕監禁という強行手段に及ぶ。この間に何があったかは、のちほど触れたい。



 

■ 横川の関~山王峠

 


さて延々と歴史の話を書いてしまうと景観の紹介のほうが疎かになってしまうので、ここらで紀行サイトらしく風景の紹介もしておこう。

さきほどの上三依集落から一里ばかり北上したところで横川集落が現れる。街道沿いでは下野国側の最北端にあたり、かつては会津西街道の要衝だったところだ。




山王峠の北側にはあまり開けた土地がなく、平地らしい平地があるのは峠の南側の横川の付近に限られる。此処には白河の関ほどの知名度ではないけれども奥州の入口としての関所があり、横川の関と呼ばれていた。



この関は元々は会津側の糸沢集落(ここから8kmほど北側)にあり、江戸時代初期の寛文元年(1661)にここに移転した。さきに紹介した保科正之の時代である。

ただしここは関といっても軍事的な性格はうすく、実質的には口留番所(くちどめばんしょ=荷物の検問所)であった。江戸時代は藩ごとに税制が異なっていたのでこういう税関のような施設が街道沿いによくおかれたのである。会津藩+南山御蔵入領で総計10か所ほどもあったといい、主要な峠口にはひととおり設置されていたらしい。




南山御蔵入騒動のときには、代官所の役人がこの関所で農民の出入りに目を光らせたという。特に田島から最短距離で江戸に出ようとした場合、必ず横川の関を通過しなければ南側には出られない。




もちろん農民側もそれは承知しており、関を意図的に避けて、通常なら江戸まで一週間ほどの道のりを宿場にも泊まらずに野宿で一ヵ月ほどもかけて辿(たど)りついたという。季節はちょうど今頃で、雪中行軍で監視網を突破したその覚悟の凄まじさには、恐れ入るしかない。




さて山王峠の500mほど手前にはチェーン着脱場がある。山岳部を抜ける道路にあってこういう突如として現れる不思議スペースは、かつての旧道の跡地であることが多い。奥に見えているガードレールはその痕跡で、現在は雪のため路肩が崩落しているけれども、1990年代頃までは通り抜けることができた。本来の峠は、この上にあったのである。




ざっとそのルートを示すとこんな(↑)感じである。かつて一揆を起こした農民代表は、この峠をやはり人目を避けて迂回越境した。雪の深さを考えるに気の遠くなるような旅だが、彼らは江戸入りした代表の滞在費の仕送りや連絡要員の往復を、やはり代官所の監視をかいくぐって長期にわたって続けていたから、なんらかの独自の抜け道を見出していたのだろう。




それは言葉で表現するといかにも簡単そうだが、南会津の山々というのはこんな起伏が延々と続いていて、その凄まじさには言葉を失うばかりなのである。冬季にこれを越えて江戸まで往復しようなどとは、筆者のような怠惰な人間にはちょっと考えられない。




…それをクルマという文明の利器で、トンネルを通過するだけでひょいと越えてしまうのは、なんだか申し訳ないような気がするな。


<つづく>