2016.01.01 初詣:烏森神社 ~那須野ヶ原開拓前夜物語~ (その2)
■ 境内を登ってみる
さてこのへんで神社の風景に戻ろう。これが烏ヶ森丘陵の全景である。三島側ではなく旧那須開墾社側からみると、周辺に余計な明かりがなく、伝統的な農村の神社の雰囲気が残っている。
参道の松並木を月が照らしている。こうして写真でみると明るく見えるかもしれないけれど実際には真っ暗である。ライトを持たないとちょっと歩くのは難しいくらいだ。
開拓地のうち印南丈作と矢板武が興した那須開墾社は、那須西原の大部分を占める。面積は3400町歩で開拓地全体(西原+東原)のなかでも3割以上に相当している。
開拓事務所は当初は地下水の得やすい一区に置かれ、最初の移住者も一区に入った。その後徐々に二区、三区、四区と標高の高い地区が開拓されていき、明治19年には地理的にバランスの良い三区の烏ヶ森(→入植地のほぼ真ん中)に第二農場事務所が作られた。このときに開拓地の鎮守として整備されたのが烏森神社である。
神社の参道は三方に伸びているが、那須開墾社側(神社の西側)では開拓事務所から神社に繋がる構造になっている。のちに誕生する西那須野町はこの第二農場事務所を町役場として始まった。鉄道(西那須野駅)との位置関係から後に神社の向こう側=三島地区の方が都市化してしまったのだが、那須開墾社としてはこちら側に門前町型の中心地を作りたかったのだろうと思う。
今回は印南丈作を追いかけながら訪れているので、この那須開墾社側=西側参道からアプローチしてみることにする。うーん、それにしても……はっきり言って、暗い(^^;)
どうもいつもと雰囲気が違う…と思ったら、照明が白熱灯ではなく今風のLEDになっているようだった。カメラのオートホワイトバランスを化かさないという点では白色LEDは良いのだけれど、こういう神社には昔ながらの裸電球がよく似合う。
上まで登ると、南口から伸びてくる照明の列がオレンジ色になっていた。そうそう、この白熱灯の色合いのほうが神社にはよくマッチしていると思う。
さて境内のほうは…おお、お焚き上げの火も入ってイイカンジになっている。日本の伝統的な年越しの雰囲気が出ているな。
境内にはぼちぼち人が集まり始めていた。…年越しまでは、あと20分くらい。
烏森神社では毎年当番でお勤めをする地区を交代しているそうで、今年は二区町が担当しているとのことだった。ミーハー参拝客はテキヤの屋台の集まる乃木神社方面に行ってしまうようで、それらを差し引いて烏ヶ森神社に集っている人々が、本当の氏子衆ということになるのかもしれない。
■ 戊辰戦争
さてこのままぼーっと待っていてもいいわけだが、せっかくなのでもう少し歴史談義をしてみたい。
印南丈作が管理業務的な仕事に長けていたことは日光時代~佐久山時代の様子をみればなんとなく分かる。 しかし那須野ヶ原開拓(中でも那須疎水の工事)は国家予算を引っ張ってきたプロジェクトで、その経緯をみていると 「なんで田舎の民間人が政府官僚とサシでやりとりできているのよ?」 というところに飛躍感がぬぐえない。
実はこれは開拓構想の具体化する約10年前、戊辰戦争のときに広がった人脈に依(よ)っているのである。 学校教育で語られる印南丈作像からはこの部分がすっぽりと抜けているようなので、せっかくなのでヨタ話程度に書いてみたいと思う。
さて時代は飛んで時に慶応四年(明治元年)、徳川幕府の瓦解、そして戊辰戦争が起こった。 印南丈作37歳のときである。
このとき黒羽藩、大田原藩は早々に新政府への恭順を決めて官軍に協力したわけだが、 佐久山城主:福原資生(=幕末の福原氏当主:1832-1879)はなかなか態度を明確にせず、ひたすら様子見を決め込んでいた。 そうこうしているうちに奥羽越列藩同盟(≒旧幕府軍)と官軍の戦闘が始まり、上野、宇都宮、 日光口、塩原口、三斗小屋、白河口と瞬く間に戦禍が広がっていく。
※写真は下野の戊辰戦争(下野新聞社)から大田原攻防戦の図を引用
このときの列藩同盟側の戦略は外国船の入れる新潟港から欧米の武器弾薬を大量に補給し、主戦力は白河城に集結させて一気に関東平野を南下、 江戸を占領するというものだったらしい。
これに対して官軍は薩摩、長州といった西の果てから攻め上ってきた兵が主力で、兵装は充実していたけれども土地勘はなく、 補給線も伸びすぎて物資の調達に難儀していた。全体としては官軍優勢ではあっても、兵力展開は苦しかったようである。
こういう背景の中で、官軍は敵の補給基地=新潟を叩くための戦い(北越戦争)と、 関東への進撃拠点を叩く白河口の戦いを同時並行で展開していた。全体情勢として、この構図をまず理解しておきたい。
この中にあって印南丈作は早くから福原の殿様に官軍に付くよう進言していた。
これにはいくらか伏線があり、実は戦闘の始まる一ヵ月ほど前(江戸城はまだ開城していない)から官軍の偵察隊が一足先にやってきて 佐久山宿を拠点に諜報活動を行っていたのである。その宿泊先はなんと佐久山城の目前200m、丈作の経営する旅館:大玉屋であった(^^;)
ここには官軍参謀の竹川直衛と狩野某なる者(いずれも薩摩藩士)が滞在して、 殿様がグダグダと決断を先延ばししている間にも会津方面の様子をさかんに偵察していた。 丈作は宿場のネットワークを通じて官軍の優勢を知っており、先読みして彼らに便宜を図っていたのである。
下野国での戊辰戦争の戦いは慶応四年の四月~六月にかけて行われた。 福原の殿様は戦闘が始まってもまだグダグダと結論を先延ばしにして、ようやく戦いの終盤ちかい六月になって総勢三十名という僅かな兵を官軍側に出した。
このとき丈作は平民の身分ながらも従軍している。扱いとしては正規兵ではなく軍夫ということになるのかもしれないが、出兵を主張していたからには自らも参加することにしたようである。
彼らは奥羽追討総督鷲尾隆聚(わしおたかつむ)のいる白河口に派遣された。 下野国での戦闘はほぼ官軍側の勝利となったが、白河城を巡る争奪戦はまさに激戦中であったので、そこの増援に回ったのである。
奥羽追討軍は参謀を薩摩軍奉行伊地知正治(いじち まさはる)が務める重火器部隊であった。官軍=朝廷=天皇を演出するために総督は公家である鷲尾隆聚が務めていたが、実戦部隊の指揮は参謀の伊地知正治である。
伊地知は徹底した少数精鋭主義の指揮官で、機動力重視+火力優先の用兵を得意とした。配下の兵は薩摩兵と長州兵から選抜したツワモノばかりである。後からノコノコやってきた佐久山三十人衆(いずれも実戦経験なし ^^;)には華々しい戦果の記録はないので、まあ後方でパシリに使われて終わってしまったのではないかと筆者は推測している。
しかしほとんど唯一、ここで印南丈作が思わぬ活躍をみせる。宿場での駅次の業務に携わってきた経験を買われて、平民ながら会計方(補給隊の指揮官)に任命されているのである。彼が担ったのは、食料、弾薬、燃料、兵馬などを調達して前線に送る兵站の一切で 、ちょうど補給線が伸びきって一番苦しかったときに官軍の大きな助けとなったらしい。
※当初兵站地として期待された大田原は会津軍の急襲により城下を焼かれてしまい、のちに佐久山が補給基地の一端を担った。佐久山から送られた物資の中で特に重宝がられたのは傷薬だったという。
※会計方は近隣の村々で食糧や馬の現地調達も行った。ただし強奪したのではなく、いちいち代金は支払っている。皇軍を名乗る以上はそのへんの処理はキチンとしていたようである。
お蔭で丈作は7月に白河城が落城したのちも、会津藩の本拠地=鶴ヶ城が落ちるまで会計方として用いられ続けた。一地方の宿場の町年寄に過ぎなかった彼が急速に人脈を広げ、広い顔をもつようになったのは、この半年余りの軍役によるところが大きい。
■ 新政府中枢にまで広がる人脈
さて会津藩降伏ののち、佐久山の城主:福原資生は生きた心地がしなかったことだろう。官軍への協力をさんざん渋って遅参した挙げ句、出した兵力は僅かで大した武勲も無かったからだ。
ただ福原氏にとっては幸運なことが2つあった。ひとつは白河口戦線の奥羽追討総督(途中から白河口総督に改称している)であった公家の鷲尾隆聚がたまたま福原資生の親類で、多少の口利きをしてもらえたことである。
そしてもうひとつが印南丈作の働きであった。佐久山三十人衆は大した武勲を立てられなかったけれども、丈作は会計方として兵站を支えた功績があり、官軍の憶えがめでたかった。さらに丈作は殿様が協力を渋って様子見を決め込んでいた時期に、なんと自費で官軍に献金を行って協力の実績をつくっており、心憎いことにその名義は福原の殿様になっていたのである。
結果的に、福原氏は所領を安堵され、それに加えてなんと旧白河藩6万石を預かり領として戴くこととなった(=所有は新政府で福原氏が管理するという状態)。扱いとしては御蔵入領みたいなもののようだが、それにしても地図に描くと冗談としか思えない広さである。
この功績で印南丈作は武士に取り立てられた。十五石取り(安…^^;)の近習席(きんじゅうせき=殿様の側近)という身分で、この即席のステータスで丈作が何を命じられたかというと、なんと殿様の名代(肩書は租税取締役)としてこの白河六万石の民政を取り仕切ったのである。わらしべ長者もびっくりの大出世であった。
※といってもすぐに廃藩置県で "白河県" が成立してしまったので福原氏の預かり領になった歴史は今では殆ど忘れ去られている。…しかしまあ、そこはそれ(^^;)
明治元年11月、そんなこんなで印南丈作は白河に赴任した。その最初の仕事は、荒廃した城下の戦後処理、およびこの年の年貢の徴収であった。しかし度重なる戦闘で荒廃した白河では収穫もすくなく、年貢の徴収どころか飢餓の懸念があった。
そこで丈作は白河攻めの実質的な司令官であった伊地知正治とともに、江戸から改まったばかりの "東京" に行き、新政府の重鎮:大久保利通と会って状況を説明し年貢半減(兵火で家を失った者は年貢免除)の裁可を得た。白河の領民は安堵したことだろう。
このとき伊地知正治が同行した意味はとてつもなく大きい。伊地知は維新前には薩摩藩校:造士館の教官を務めており、薩摩系の維新の志士はその多くが伊地知正治の教え子である。のちに那須野ヶ原開拓に関わる三島通庸、西郷従道、大山巌などもそうで、彼らは伊地知を 「先生」 と呼ぶ関係にあった。その大先生が横に付いていたので、大久保も会ってくれたのである。
※写真はWikipediaのフリー素材を引用
…こうして、戊辰戦争は丈作に 「政府といえども働きかければ通じる」 という経験則を与えて終わった。後の那須疎水開削運動で、妙に確信をもって伊藤博文や松方正義を引っ張ってきた行動力の源泉は、こんなところにあったのだろうと筆者は思っている。
<つづく>