2018.01.01 初詣:箒根神社
箒根神社で地味な初詣をして参りました(´・ω・`)ノ
さて本年の新年レポートは箒根神社の初詣から始めてみたい。 昨年は公使ともども多忙が続いて更新がいまひとつ進まず「生きてますか」とのお問い合わせを 幾つも頂いてしまったのだが(^^;)ちゃんと生存しているのでまたゆるゆると更新していこうと思う。
さて今回訪れた箒根神社は昨今の那須地域の初詣スポットとしてはほとんど認知されていない。 ただし歴史は大変に古い神社である。創建時期はあまりにも古すぎて不明、現在では上塩原と 宇都野に里宮があり、今回訪れたのは宇都野にある里宮である。
ここ(=宇都野の里宮)は元々は高清水大権現と称する別の神社であったのだが、祭祀は箒根神社奥宮と共通で、そのメンテナンスは代々高清水大権現の氏子衆が行ってきた。それがのちに合併して、箒根神社の遥拝殿という位置づけとなって現在に至っている。
創建時期の不明な奥宮と違って、高清水大権現(箒根神社遥拝殿=今回訪れる里宮)は創建時期が大同元年(806)と伝えられている。昨年の木幡神社のレポートを読んで頂いた方ならピンとくると思うけれども、これは平安初期の神社大量増殖期、つまり脱・仏教+古神道回帰のムーヴメントのなかで造られた量産型神社のひとつと考えられる。今回はここを通して、日本の地方社の正月の一風景を眺めてみたい。
■ 何はさておき出発してみる
さてあまり長く引っ張るつもりもないのでさっそく出発してみよう。 大晦日もいよいよ残り少なくなった午後10時半頃、ちらほらと風花の舞う中を愛車エクストレイルでゆるゆると走り出す。
実をいえば本稿は、当初は奥宮に登頂して書きたいという思惑があった。しかし前日下見を兼ねて奥宮を目指して見たところ、案外雪が深く4kmほど手前でクルマの底を雪が擦りだし、スタックの危険があったので里宮に切り替えたのであった。そのうち暖かくなったら奥宮にもチャレンジしてみたいところだが、まあ今回はお手軽なところで行こう。
ここで余談めいた話をいくらかしておきたい。この神社の鎮座する高原山は、黒曜石の産地として知られている。黒曜石とはその名の通り黒い火成岩で、マグマが冷えて固まるときに天然ガラス状になったものをいう。磨くと黒い光沢が出るため最近は宝飾品に使用されたりもするが、それよりも一般には石器の材料としてのほうが有名だろう。
この石は割ると非常に鋭利なエッジが立ち、さらに動物の骨や鹿の角でコリコリと加工すると貝殻状の剥離片が落ちて自由な形に細工できた。この切れ味の鋭さと加工が容易という性質が相俟って、古代にあってはナイフや矢尻などの刃物系石器の材料として重宝された。ただし黒曜石は限られた場所にしか産出せず、関東地方ではここ高原山の南麗、学校平から釈迦ヶ岳山頂の間がほぼ唯一の産地といわれる(他には長野県、伊豆半島、神津島などが知られる)
※写真は槻沢遺跡から出土した矢尻(那須野ヶ原博物館)
高原山の採掘跡遺跡の年代は3万5000年前に遡る。3万5000年といえば氷河期(ウルム氷期)の真っ最中で、時代区分でいえば旧跡時代後期にあたり国内最古のものである。つまりこの時期、黒曜石が得られるのは唯一ここだけであった。…であれば、この山は古代人にとって特別で、おそらく何らかの神が祀られていたことだろう。
そんな背景があるものだから、筆者はこの山に祀られている起源の定かでない古い神を、ある種のロマンを伴って眺めているのである。
余談の余談になってしまうけれども、氷河期の高原山の森林限界(≒人が居住できる限界)がちょうど箒根神社のあたりであった。当時の採石場は神社からさらに400mあまりも高所にあり、石ころだらけの溶岩台地みたいなところであったと思われる。
これ(↑)は参考までに那須茶臼岳の様子を示してみたものだが、おそらく古代人はこんな状態のところで黒曜石を拾い集め、石器に加工していたのではないか。
※高原山の山頂には箒根神社とは別に高原山神社があり、こちらは養老四年(720)に元正天皇の勅により鬼人(蝦夷のことか?)退治の祈願を行ったことを縁起としている。いずれにしても奈良~平安初期に朝廷の支配が東国へ及んだことでヤマト式の神社が成立しており、古い時代の東国の神々の名は記紀神話の神々の名で上書きされてしまったようだ。
■嶽山箒根神社
…とまあ、そんな余談を語っている間にあっさりと到着。
年が明けるまでにはまだ40分以上ある。少々早く来過ぎたか(笑)
それにしても寂しいところで、テキヤの出店の類はまったくなく、人の姿もない。
本当に山間の小社といった感じのところだな。筆者のクルマ以外には軽トラが2台のみ。おそらく氏子の中の人のものだろう。
ここが箒根神社と合併したのは大正時代のことで比較的新しい。
それ以前は高清水大権現といったのは既に述べた通りで、伝承によれば大同元年(806)の頃、ここ宇都野から紫の慶雲が立ち昇っていく様子がみえたので祠を建てて神として礼拝したのが起源とされる。
山上にある箒根神社とは縁が深く、長らく別当(実質的な管理者)の地位にあって祭礼の内容は共通であった。やがて熊野社や羽黒山の修験の要素が入り込み、現在では秋の梵天祭りが祭礼の中心を成している。縁起ではいろいろな歴史上(神話上)の人物が入れ替わり立ち代り関わったことになっているけれども、その時期にはズレがあり、古い時期の箒根神社を上書きしていわば箒根神社3.0にしたのが羽黒修験ということになる。
祭神は、豊城入彦命、伊弉諾命、大己貴命、事代主命である。このうち伊弉諾命、大己貴命、事代主命はいずれも記紀神話の日本創生に纏わる神々で、羽黒山の修験道(奈良時代以降の成立)とは直接のつながりを持たない。
それよりは古く、日本創世の神々よりは新しいという位置にいるのが豊城入彦命である。彼は人皇十代崇神天皇の皇子で、朝廷の東国平定に功績があったとされる人物だ。伝承では下野国に至った豊城入彦命がこの山に登って箒根山の名を与えたとされる。そして時期は不詳ながらその山麓を流れる川は箒川とされた。
豊城入彦命は記紀神話では上毛野氏、下毛野氏の始祖とされ、これらの氏族はのちに奈良時代の好字二字令によって上野、下野に改められ、律令国としての上野国、下野国の名称の元となった。石器時代末期に祭られていたであろう蝦夷の古い神々を箒根神社1.0とするならば、豊城入彦命の東征で大和の神々で上書きされた姿が箒根神社2.0といえるだろう。それがのちに羽黒修験の要素が入って箒根神社3.0となった。話が長くなってしまったけれども、そのあたりの重層性を鑑みながらこの神社を眺めるとき、日本史の奥深さを想わずにはいられない。
※写真は古事記(講談社学術文庫/次田真幸)中巻より。豊城入彦命(豊木入日子命)の登場は崇神天皇の段で古事記全体のちょうど中盤くらいにあたる。
さて余談ばかりが続いたのでそろそろ本筋に戻って、参道の階段を昇ってみよう。
さして大規模なものではないが清浄そうなよい参道である。あたりに音のするものはない。気温は0℃、底冷えのするなか献灯の明かりだけが静かに灯っている。
ここが拝殿である。・・・暗い。
見ればお焚き上げの焚火なども無いようだ。
うーむ…ちょっとばかり炎の風情を期待していたのだが…まあ仕方がないか(^^;)
ちなみに明るい時間帯に来るとこんな社殿を見ることができる。現在では宇都野の集落規模は20戸ほどでいかにも寒村然としているけれども、社殿のつくりは見事でかつての栄華のほどが窺われる。社殿は寛政二年(1790)の建立で、江戸中期の意匠である。
それにしても・・・高温多湿の気候下で、こんな精巧な木彫り細工が200年以上も保存されているのだから何とも凄い話だ。
■ 社務所にて
そんなこんなで寒々とした時を過ごしていると、社務所の中から氏子さんが顔を出して 「やあ、どうも」 と相成った。
「寒いでしょう、まあ中に入って甘酒でも♪」
「・・・はあ、ではお邪魔いたします(^^;)」
こういうときはご好意は素直に受け取っておくべきなので、図々しくも筆者は社務所に上がらせて頂いた。内部は山間の社らしく気取った作りにはなっておらず、ちょっとした公民館然とした雰囲気になっている。田舎の神社は地域の寄合所を兼ねていたりするのでこういう作りになっているところが多い。
そこに氏子さんが6人ほど集まってちょいと一杯やっていた。筆者はクルマで来ているので日本酒は辞退して甘酒だけ頂くことに。談笑の内容はローカルな集落内の出来事が主で筆者が入り込む余地はほとんどないのだが(笑)、まあ聞いているだけでも面白い。
「小さいところだから神社を守っていくのも大変なんですヨ」 などという話を伺いながら、筆者はこの神社の歴史についていくらか聞いてみた。やはり修験の社らしく、祭りのときはみなさん白装束で集まっているらしい。
現在の祭礼は羽黒山系の影響が濃く、先にも紹介したが主要な祭りは梵天祭である。
梵天とは神社によくある御幣の超ロングバージョンで、そのサイズは5~8メートルほどにもなる。地方によって木で作られたり竹で作られたり・・・とバリエーションは豊富で、神の依り代として村の方々を練り歩いたのちに神社に奉納されるというのがおおよその作法である。よくわからん、という人は上記写真(↑)を参考にネコジャラシの超巨大なやつを想像すればよい。
この祭りは現在でも女人禁制だといい、その心はというと
「まあアレですよ」
「アレですな」
「アレです」
ということで、要するに梵天とは男性のアレの象徴なので祭礼には女性は参加しないとのことであった。面白いのはその奉納の仕方で、本家の羽黒山では大切に運んでお供え物のように扱うのに対し、ここではこれでもかといいうくらい激しく打ち付けてボロボロに壊してしまうらしい。どういう文化的な背景があるのかは不明だが、これはこれで面白い。
この梵天を祭る習俗は羽黒山以外にアイヌにも似たようなもの(イナウ)があり、そのルーツをたどっていくとどうも古い蝦夷の信仰が見え隠れする。実のところ栃木県の古社はちょと深堀りするとこの蝦夷の匂いに満ちていて、巧妙に上書きはされているもののちょっと面白いのだ。
※写真は Wikipedia のフリー素材より
■ 新年の到来
さて雑談を続けている間に時は過ぎ、午前零時が近づいてきた。
「そろそろだねえ」 と言いつつ氏子各位は拝殿前に集合し、時計を見ながら時を待つ。
やがて秒読みが始まり、はい明けました~の声と同時に太鼓がドーン、ドーン…と鳴らされた。
平成三十年=西暦2018年の幕開けである。
畏(かしこ)まった祝詞は特になく 「まーアレだ、本年も良き年でありますようにネ~ハハハ」 との挨拶で新年の行事はすべて四捨五入されてしまった。なんという驚くべき簡潔な年越し(笑)
…しかしまあ、このくらい簡素で負担の少ない管理水準が、この山間の古社を長らく存続させてきた要因のひとつなのかもしれない。気負いすぎて息切れしないためには、そんなアバウトさ加減も必要だろう…と、筆者は思ってみた。
そんなわけで、これ以上のスペクタクルもあっと驚く展開もなく、筆者は静かにお札をGETして引き上げることにした。
…まあ、こんな年越しもあるさ。 ともかく、ゆるゆるとでも進んでいこう。
見上げれば、御神木の枝葉の向こうに満月がみえた。
すこしでも明るい年になるように、祈っておこう。
【完】