2020.01.01 初詣:那須波切不動尊 金乗院
大田原で静かな初詣をして参りました(´・ω・`)ノ
さて2020年の初レポートは、真言宗の古刹:波切不動尊金乗院の初詣で始めたいと思う。 最近は更新も滞りがちでなかなか記事が書けないでいるけれども、とりあえずは生きているのでゆるゆると行ってみたい。
今回の行き先である金乗院は平安時代草創期の開基となる古刹である。ここに祀られる御本尊は不動明王なのだが、これの本地は大日如来とされ、神道側からみれば天照大神に読み替えられる。 真言宗は禅宗や浄土宗などと違って呪術的な要素のつよい宗派で、外連(けれん)味もあり見ていて面白い。十年ぶりくらいに除夜の鐘を撞(つ)いてみるのもまた一興。ともかくゆるゆると出かけてみよう。
■ 金乗院への道
そんな訳で年の瀬も秒読み段階に入った大晦日の23時頃、ゆるゆると自宅を出てみた。金乗院は住宅密集地からは離れた水田地帯にあり、幹線道路からも離れている。新幹線の駅からわずか2kmばかりの距離だが、時が止まったかのような静寂のなかを進んでいく。
駅から静かに南下していくと、やがて金乗院の奥の院に達する。本堂ではなくいきなり奥の院に行ってしまうとは何事か、とツッコミがありそうだが、本来ここの立地は南の那須官衙遺跡方面から枝分かれして北上する支線のどん詰まりにあたっており、かつては南側から寺に入るのが正式な入境作法であった。
寺の創建の頃=平安草創期の街道事情を簡単に図に起こすとこんな(↑)感じであろうか。当時の交通事情を記した資料はほとんど現存しておらず、推測になってしまうのはご容赦願いたい。ただ古代の道は河川に沿って作られるという原則があるので、当時の行政の中心=那須官衙から素直に川筋を遡っていくルートがいちばん自然だろうと筆者は思っている。
箒川の支流である蛇尾川は伏流水であるため途中で水が涸(か)れてしまい、石ころばかりの川筋がつづく。さらに上って、その支流である熊川(ここも普段は水がない)を一里ほど遡ると金乗院に至る。那須官衙からはおよそ4里(16km)ほどである。
水の得にくい那須野が原の中央にあって寺が成立し得たのは、ここがぎりぎり水の得られる地勢だったことによる。寺の位置する稲荷山の南側には非常にか細い流れながら湧き水があり、かつては小さな沼があった。それを称して沼野田和という。
現在では沼はほぼ干上がって消失しているけれども、湧水の細い流れは今も集落の中心部にあり、沼の跡らしい芦原が残る。明るいときに来ればその芦原が見える。…が、さすがに深夜では漆黒の闇が広がるばかり。
そんな門前に到着すると、もう年越しの準備でいくらか人があつまり始めていた。
金堂にむかって階段を登っていくと、信徒の皆様が餅の配布をしていた。
ろくでもない世相の中でいただく真っ白な餅。 2019年は夢も希望も以下省略な一年だったけれども、ささやかな招福アイテムとして新年の雑煮の具にでもしようかな(笑)
■ 寺院建立の頃の話
さて年明けまでいくらか時間があるので、ここで金乗院の開基の頃の話をいくらかしておきたい。 真言宗の寺の典型として、もちろんここにも空海伝説があり、弘仁年間(810~824)の頃、 弘法大使空海が奥州巡錫の折ここで見た夢の中に地蔵尊が現れてそれを祀る地蔵堂が建てられたという。
これがさきほど通り過ぎた奥の院の原型で、真言宗寺院としての体裁はあとから整えられた。 筆者的には、この地蔵堂というのも出自としてはあやしく、もともとの
オリジナルの姿は蝦夷の水神様か何かで、それが仏教要素で上書きされて現在の姿になっているのではないかと思っている。状況証拠的に坂上田村麻呂~最澄~空海の年代(西暦800年前後)に関東~東北で大量増殖した神社仏閣はそのような性格を匂わせるものが多いのである。
さて弘仁年間といえば、唐にわたった空海が20年の留学期間を2年で切り上げて帰国後、薬子の変(大同五年:810)での加持祈祷に功ありとされて急速台頭し始めた頃にあたる。 薬子(くすこ)の変とは皇位継承をめぐる平城上皇と嵯峨天皇の争いで、新都=平安京と旧都=平城京の勢力争いの側面をもっていた。黒幕とされる女官の名が薬子で…などと書き始めると長いので委細は省略するけれども、空海の立身出世においては大きな意味を持つ事件であった。
このとき空海が付いたのは新都=平安京を拠点とする嵯峨天皇で、大陸渡来の呪術力を駆使して戦勝祈願の加持祈祷を行った。政争は武力衝突に至ったが嵯峨天皇側の勝利となり、これが絶大なデモンストレーションとなって空海は一躍時の人となるのである。奈良の南都仏教勢を抑えたい嵯峨天皇の思惑にも叶って、空海が 「新しい仏教」 の象徴となった瞬間であった。
※画像は Wikipedia のフリー素材から引用
やがて元号が大同から弘仁と改まり、空海は高野山を賜って金剛峯寺を建立し本格的に自らの教団=真言宗を立ち上げた。伝説ではこのころ彼が日本各地の山野を旅してまわり、数々の奇跡を起こしたことになっている。しかし実際の空海は中央での地歩固めに忙しく、時代劇の水戸黄門よろしく諸国を漫遊する余力などはなかった。
そのかわりに彼は弟子たちを日本各地の有力寺院に派遣した。目的は往古の渡来仏典の収集である。唐に滞在中、実質3カ月の超特急学習で密教の奥義を伝授(※)されてしまった空海は、大量の仏典や書画などを持ち帰ってはみたものの、コピーノート頼りの大学生のような気分だったのではないか……と、筆者は推測している。
だから参考書(というか答え合わせの資料)として往古の文献が欲しかったのではないか。とにかくこの時期の空海は、国内の仏教資料の収集に熱心であった。空海伝説とは要するに、このときの弟子たちの往来エピソードに尾ヒレがついたもののように思える。
※空海の入唐期間は約2年であったがその半分は平安京~長安の旅程で費やされており、師匠である恵果の元では延暦24年(805)5月に入門 → 同8月には阿闍梨(あじゃり→師範号のようなもの)の位を与えられるという超スピード卒業であった。通常では考えにくい処遇だが、このときの恵果は老齢で死期が迫っており、空海に 「早く日本に密教の教えを伝えよ」 と諭したという。恵果が亡くなったのはその年の12月であった。
※画像は高野山金剛峯寺(Wikipediaのフリー素材から引用)
さてこのとき東国には康守という弟子が派遣され、下野国の有力僧であった広智、萬徳、さらには会津の徳一の元で蔵書の書写(写経)が行われている。当時はコピー機や写メなどはもちろん存在せず、貴重な原本は持ち出し禁止であるから、書物はそれを欲する側が閲覧をお願いし、いちいち手で書き写すのが原則であった。当然、日数も手間暇もかかる一仕事である。
この康守が派遣されたのがちょうど弘仁六年(815)の春のことで、金乗院の縁起物語にある弘仁年間の空海来訪とはこれを指しているように思われる。実際にここ(金乗院)に来たのか、那須官衙に立ち寄った程度で東山道をすり抜けていっただけなのかは定かではないが、のちにそれを縁起として寺院がひとつ成立したのだから面白い。
ただこの縁起物語以降の寺の歴史は、実のところよくわからない。明治時代の地図には載っており、大正時代に奥の院のお堂が改築された記録があって、地蔵堂のご本尊は室町時代の作とされていることからまあ中世15~16世紀頃までは遡れそうなのだが、それ以前の姿はモヤモヤとしている。
筆者的には、湧水のあるところなので修験者の立ち寄るお堂と簡易宿泊所くらいの施設が長らくあり、江戸時代初期(1615)の家康による切支丹禁止令に始まるの寺檀制度(※)の施行で大量の寺院建立があった頃に、住職のいる寺の形式になったのではないかと勝手に推測している。
※寺檀制度:切支丹対策としてすべての住民にいずれかの仏寺の檀家になるよう義務付けた江戸幕府の政策。家康の切支丹禁止令(1615)に始まり島原の乱(1635)に至り急激に強化された。これで実質的に 「寺=住民管理の末端部」 となったため、全国的にそれまで無人のお堂くらいしかなかったところに大量の仏寺が出現することとなった。のちに檀家登録が一巡すると今度は新規の寺院建立は制限され、これが幕末まで続く。
■境内
さて余談が過ぎたかもしれないので、このあたりで現実に戻ってこよう。 真言宗の寺院というのは加持祈祷に特化して檀家を持たないところもあるのだが、金乗院は敷地内に墓地の区画があり普通に檀家衆がいる。
那須波切不動尊を名乗るだけあってご本尊は不動明王で、その本地である大日如来を祀る大日堂、その化身である慈母観音像などもある。これを踏まえて地元では加持祈祷をするお寺という最大公約数的な認識で理解されている。
新年が迫ってくると、空海像の前で住職氏の読経が始まった。
それが一段落するといよいよ除夜の鐘が突かれる。 最初の一突きは住職氏で、その後は一般参加者が並んでゴーン、ゴーン・・・と続いていく。
せっかくなので筆者もひとつ、ゴ~~~ン…とやってみた。もう10年以上、初詣といえば神社ばかり巡っていたので、久しぶりの鐘の音だな。
見れば鐘突き待ちの行列は意外に長く、 どうやら煩悩の数=108つでは収まりそうにない。しかし特に制限があるわけでもなさそうで、 皆さん景気よく ゴーン、ゴーン、と突きまくっていた。
ちなみに写真(↑)の右端にチラっと見えている空海像の台座はトンネル状になっていて、ここを潜(くぐ)ると四国八十八か所のお遍路参りをしたのと同じご利益があるという。皆ここを潜ってから鐘突き堂に登っていく。
その間も境内の各所で経上げが続いていく。
…あれ? まだ年は明けていないよね……というツッコミは至極当然ありそうなものだが、聞けば日付が変わる 「子の刻」 は午前0時を挟んで±1時間分あるので、実は大晦日の午後11時を過ぎれば和暦的には新年とみなしても間違いではないらしい。いろいろな神社仏閣を巡ってみると年明けの儀式具合に結構なバラツキがあるけれど、まあそういうものなのである。といっても、太陽暦+24進定時法に慣れた現代人からみるとやはり若干の違和感はあるな(笑)
■ 新年の護摩
さてそろそろ現代的な時刻で年が明けるかな……というタイミングで、急にお札を買い求める人が増え始めた。そこココロは?…というと 「新年と同時に護摩行があるのです」 とのこと。おお真言宗ではやはり護摩を焚くのだな。
ということで筆者も一口乗ってみることにした。懐具合はあまり豊かではないのでちょっと小さめのお札にしたのだがまあ細かいことは気にしない(^^;) GETしたお札は直接渡してくれるわけではなくまず名前を書いて本堂の護摩壇に運ばれ、祈祷の儀式が終わったののちに受け取ることになる。筆者は時計が 0:00 を回ってからそそくさと二礼二拍手一礼で初詣の儀式を済ませ、祭壇脇に上がって正座した。
現代時刻で年が明けても 「あけおめ~」 などの歓声はなく、皆静々と並んでいるところに住職氏が現れて簡単な新年の法話が行われた。 法話といっても 「弘法大師空海様はエライ人なのです。お不動様は最強です。さあ皆さんも一緒に健康長寿を祈りましょう~♪」 くらいのもので特にムズカシイことはない。
法話に続いて、真言宗らしく 「これだけ覚えて一緒に唱えてね」 という真言の伝授があった。
南無大師遍照金剛
住職氏の合図があったらこれを一緒に唱えよという。 うむ、心得たでござる♪
そして新年の護摩焚きが始まった。 太鼓がドーン!…と鳴らされて、大音量でドンドコ、ドンドコ……とロックコンサートのドラムよろしくビートを奏でる中、読経が始まる。
真言宗は真言=呪文を唱えてご利益を得る宗派であり、儀式はとにかく派手でエンターテイメント的だ。 ちなみに密教儀式としての護摩はインドで神に供物を捧げる儀式がもとになっているそうで、あちらでは聖なる牛の乳でつくったバターを火に投げ込んだりする。 バターとはすなわち脂であるから、当然燃えるだろうし煙も出る。ということは、本場の儀式は日本の護摩よりもよほど派手になるのだろうな。
日本に伝わった護摩は供物を直接燃やすのではなく、井桁に組んだ護摩木を燃やすのみで、お札などの呪物をその火にかざしてご利益(りやく)を受けるという形になった。ちなみに井桁の段の高さはどお願いのレベルによって異なり、一般的には六段、簡易版で一~三段、国家の命運を左右するような重大な祈祷では最大で九段くらいになる。
今回の護摩の段数は筆者の位置からは見えなかったが、国家存亡の危機を救うような儀式ではないので(笑)まあ一般的な高さなのだろう。
やがてお約束の真言を唱えるフェーズがやってきた。
南無大師遍照金剛~♪
南無大師遍照金剛~♪
南無大師遍照金剛~♪
・・・いったい何回唱えるんですかw と突っ込みたくなるくらい繰り返して、護摩は一段落した。
この後、護摩の残り火の煙に手をかざして神秘のパワーを感じたら、お札を順々に受け取ってご利益を持ち帰ることになる。
さて今年はどんな一年になることやら。ひとまず良き年になることを祈っておきたい。
【完】