2019.02.07 蔵王の樹氷と温泉の神(その4)




■ふたたび温泉街へ




さてふたたび蔵王温泉に降りてきた。ここからは幾分余興めいた展開で蝦夷の神の系譜について考えてみたい。 といっても単に温泉街を散策して神社に参拝するだけなのだが(笑)




約5万年前と推定される巨大な山体崩壊ののち、かつての火山活動の痕跡として47もの源泉からお湯のあふれ出す温泉郷となった蔵王山西麓。 この盆地は、仏教の伝来する遙か以前から蝦夷の神の祀られる古い聖地であったのだろうと筆者は考えている。

狩猟採集の生活でで山野を駆け巡っていた人々がいつごろ温泉を発見したのかは定かではないが、筆者的には幾分かのロマンを込めてこの湯の神の起源は一万年くらいは遡れるのではないかと推測している。




その心は、蔵王山麓の上山盆地~山形盆地に旧石器時代~縄文草創期の遺跡が点在し1万年前くらいまでは人の居住の痕跡が遡れること、および蔵王温泉そのものは強酸性で魚も済まない水質ながら、すぐ近傍には盃湖、鴫の谷地沼などの飲用に耐える水源があることによる。

縄文以前はそもそも狩猟採集の世界で定住があったかといえば微妙なところだが(^^;)、しかし飲用水があれば短期滞在は可能だろうし、酢川の下流域から湯の花の色をたどってくれば温泉に到達するのはそう難しい話ではない。

湯の花を追って源泉までたどり着けるか、については筆者の地元の鹿の湯の事例を以前調査したことがある。そのときは源泉から8km下流の集落からたどりつくことが可能という結論だった。蔵王温泉から8kmも下るともう上山盆地の山形上山IC付近であり、ちょっと好奇心旺盛な者がいれば同様に温泉にたどり着いたことだろう。そして野趣あふれる源泉をみた彼らは、きっとそこに "神" を見出したに違いない。




では一方、仏教や修験道はどうか。

仏教の伝来は諸説あるけれども聖徳太子の存命中、宣化天皇三年(538)とするのが日本史においては定説というか最大公約数的な認識となっている。

初期にはは国家鎮護を目的に奈良盆地内で寺院がつくられ、のちに聖武天皇の国分寺令(741)によって律令国毎に国費で国分寺がつくられた。 ただしこれは公費で建てられた寺院群であり、私度僧による仏教の広まりは、もう少し早い。 そして仏教と神道(神社)の合いの子である修験道は、このあたりから始まっていく。




さて日本書紀の持統天皇の項をみると持統天皇三年(689)3月、陸奥国優賜曇郡で城柵建設に協力していた 蝦夷の有力者=脂利古(しりこ)の部下の麻呂と鐵折という者が出家したいと申し出たという記録が見える。

務大肆陸奧國優賜曇郡城養蝦夷脂利古男、麻呂與鐵折、請剔鬢髮爲沙門。詔曰。麻呂等、少而閑雅寡欲。遂至於此、蔬食持戒。可隨所請、出家修道

解釈はいろいろあり得るところだが、これは公式に朝廷の管理する仏教政策の配下に入りますよという宣言であろう。当時の仏教僧は国家公務員と同じで、朝廷が認めた者だけが出家することができ、公務員であるからには給与と職場(寺院、宿舎)が公費で与えられた。そこに自分たちも加えてほしいと彼らは請うたのである。

※ただし申告した結果がどうであったかは、ここには書かれていない(笑)



ちなみにこの陸奥国優賜曇郡とは現在の山形県置賜郡(米沢市)のことで、蔵王温泉の南西50km圏くらいにあたる。 時代は百済の滅亡が決定的となった白村江の戦い(663)の26年後、朝鮮半島から駆逐されて 国家の規模が縮小した倭国(日本)が東北地方に勢力を伸ばし始めた頃にあたる。

当時の置賜といえば大和朝廷の影響力がぎりぎり及んでいるくらいの最前線で、 まだ多賀城も成立していない蝦夷の勢力圏である。 そんな時代に、仏教(あるいは修験道)はひたひたと浸透していった。 それが先の日本書紀の記述にも垣間見えているのである。




とはいえこの時代の仏教は、まだまだ戒律も教義も明確とは言い難い。 僧になるための教育や認定の仕組みが一応整ったのは鑑真の戒壇院設立(天平勝宝6年:西暦755年)以降のことで、 それ以前は朝廷による認定といえども内容の客観性は甚だ怪しいのである。

それを反映してか、地方では在野の僧が勝手に弟子を私度僧にしてしまう事例が横行していた。その弟子がまたまた弟子をとって勝手認定を繰り返すと、仏の教えとやらもだんだん怪しくなっていく。仏教伝来から鑑真登場まで、およそ200年間がそんな状態であった。




その200年の間に、仏教と古神道は奇妙な融合を果たした。 というよりも中途半端な情報量で仏教が流入、拡散した結果、足りない部分や矛盾する部分が従来信仰で穴埋めされて日本式にアレンジされてしまったともいえる。

この消化吸収のプロセスで、 "化身" という魔法のような発想が、内包する矛盾をまるめこんで四捨五入するのに大きく貢献した。 この理屈は当時はチャレンジャーの立場(=後からやってきて割り込んだ)にあった仏教側から言い出したらしい。曰はく、「慈悲深い仏様は、皆にとって理解しやすい姿となって教えを垂れるのです」 という。 このとき正体である仏様の姿を本地と呼び、変身して別の姿となることを垂迹と呼んだ。合わせて本地垂迹といい、特に神道の神の姿となったものを権現という。



この理屈によれば古くから信仰されていたローカルな神様も "実は仏様が化けていたのです" ということになり、蝦夷の神も大和の神も、はたまた仏教の仏たちも相互変換できてしまう。姿も名前も自由自在、崇仏派から見れば仏教であり、神道派から見れば神道に見え、蝦夷の人々から見れば従来の自然神であった。

これを朝廷(神道)や仏教は最大限に活用して、布教活動を展開した。特筆すべきは従来の民間信仰を否定することなく 「それが何なのかを今風に説明しただけ」 というところにある。当時の蝦夷の人々からみれば記紀神話や仏教を受け入れたという意識はなく、「俺たちの神様は他国でも信仰されているエライ神様だったんだな!」 くらいの理解ではなかったか。

そして彼らはあたらしく得た知見に沿って従来よりもちょっとだけモダンな様式で神様を祀った。それが後に神社とか仏寺になっていき、そのいずれにも属さない層が修験道に落ち着いた。関東~東北地方の古代の宗教区間の成り立ちは、大雑把にいえばそんな経緯で成立している。
 


 

■共同浴場

 


さてふたたび温泉街の中心にやってきた。 付近には共同浴場がいくつも並んでいる。 大きなものは、上湯、下湯、そして朝方に訪れた川原湯などだ。 写真(↑)は温泉街中心付近にある下湯である。昔は温泉街の民家には内風呂はなく、みなこの共同浴場を利用していたという。




湯量が豊富なので、もう本当にかけ流しでどんどん流している。




もう少し歩いて温泉街の鎮守である酢川神社の門前にやってきた。 背後にみえるのが神社の座する鳥兜山の裾野部分だ。温泉街の最も古い部分がこの付近にあたる。




神社の鳥居の脇にはやはりデンと共同浴場が立っていた。 温泉街でも一番上座に位置する浴場で、地元では上湯と呼ばれている。 せっかく来たからにはこの "神様に一番近い温泉" にも入ってみよう。




日も高くなって先客も入浴中なので、人様の裸が写らないよう控えめなアングルにて。やはり硫黄泉は独特の深みがあってよろしいな。  




水中撮影機能があるとどうしても撮りたくなるのが湯舟の中(笑) 湯の花の浮遊量は川原湯よりも多い。ここの源泉は54℃と熱めで pH1.6 と相変わらずの強酸性だ。温泉水を1L汲んで乾燥させると固形物が3500mgあまりも残るというから成分は十分に濃い。



 

■酢川神社へ

 


さてここからは本来の目的地である酢川神社を制覇してみよう。




ここは山の中腹から湧く硫黄泉が川となって流れ下ってくる途中にあたる。 おそらくこの上にご本尊となる源泉があるのだろう。




おお、参道脇の崖面から湧く温泉はもうすっかりプールみたいな様相で豊富な湯量を見せつけている。 草津温泉並みに滔々と湧いているな。



この上に、神社本殿がある。すっかり雪に埋もれているが、ここは根性で突破だ。




そんなわけで気合で登坂開始。……というか、これ結構キツくないか? (笑)

登る人が少ないのか、急斜面な上に階段は雪で埋もれている。滑り落ちると50mほども転落してしまうので、凍った雪面を蹴って足場を確保しながら登っていく。




ようやく登りきると……あれ?




なんと、普通に舗装道路があってクルマで登ってこれるではないかーっ!
せっかく真面目に正面参道を登ってきたのに、これはいったい何なの(笑)




それはともかくさらに10m少々登って、これが拝殿である。雪国らしく本殿は頑丈そうな鞘堂に覆われている。解説文によれば昭和30年代に改築されたとあり、であれば他の多くの神社と同じように占領軍(GHQ)が去って宗教統制が解かれたタイミング(※)で再整備されたものらしい。

※余談になるが日本では同じような理由で昭和30年代に社殿を刷新している神社が多い

祭神は大国主命、少彦名命、須佐之男命、軻遇突智(かぐつち)神となっている。……なるほど、これは活火山に隣接する温泉地らしい祭神だな。




順番に紹介してみよう。 大国主命(オオクニヌシ)と少彦名命(スクナヒコナ)は国津神=国土開発の神で、温泉神社ならどこでも大抵この二柱が祀られる。 須佐之男命(スサノオ)はちょっと特殊で、明治維新時の神仏分離令で上書きされる以前は牛頭天王であった可能性があり、また本地垂迹論においては薬師如来である。どちらの解釈でもその期待される効能は疫病封じに通じる。 また軻遇突智神(カグツチ)は火の神で、おそらく噴火と温泉の熱の象徴であろう。

こうしてみると、まさに "原初の温泉の神" を因数分解して記紀神話の神に当てはめたものであることが分かる。




中は……うーん、御本尊を拝したかったところだけれど、ガッツリと施錠してあって見えないようだ。まあ雪国だしこれは仕方がないか。

とりあえず、ここで神様に敬意を払って二礼二拍手一礼。 しかし実はここは本日の目的地ではない。 筆者が本当に目指していたのは本堂の右側にある薬師神社なのである。



 

■ 原初の温泉の神に会う




さてさんざん勿体ぶった書き方をしている本稿だが、いよいよ最終ゴールである。現在の酢川神社は昭和になって建て替えられた頑丈な本殿と正面参道(石段)が非常に目立っているけれども、江戸時代には薬師如来を祀る薬師堂があり、それが神社本殿となっていた。




これがその薬師堂である。明治維新で廃仏毀釈が行われたときに境内から撤去(移築)され、その後ふたたび元の位置に戻されて薬師神社としてリニューアルされたものだ。

神社であるのに仏(薬師如来)を祀るのは現代の感覚では 「なにそれ?」 という疑問符がつくかもしれないけれども、 神仏が混淆していた江戸時代以前では珍しいことではなかった。 オリジナルの酢川神社には先の四神の他にこの薬師如来も祀られていて、 仏教の視点で見れば神社ではなく薬師堂なのである。

ちなみに薬師如来は本地垂迹説による読み替えをすると伊邪那岐神、速玉之男神の化身という扱いになり、熊野神社の祭神になる。つまり解釈が仏教寄りになっているだけで、これも熊野信仰の一形態なのである。(便利なことにことにスサノオにも読み替えられ、現在の酢川神社のスサノオ神はこの名残の可能性もある)




そしてその脇には、いまではすっかりコンクリートで固められてしまっているけれども、 本来のご神体と思われる最上位の源泉が沸いていた。

おお、そうだよ、これが見たかったんだよ!




後世の人間がゴテゴテと張り付けた過剰な装飾を剥がしていくと、やがて芯の部分には素朴な自然信仰があらわれる。 温泉神社の主役はどこまで行っても湯の湧く源泉であって、実は社殿ではない。そういう意味ではこの何の変哲もない管理小屋が実はいちばん神聖な施設なのかもしれず、その質素な佇まいに筆者はある種の清々しさを感じた。

いずれにしても、そこには記紀神話の神々も仏陀の教えもなく、ただ滾々と温泉が湧いているのみ。 結局、それがすべてなのだ。




そこに後からやってきた者たちが、何らかの意味付けを行って神話や縁起の形式を整えた。 東日本にあっては、大和朝廷と仏教勢力がその新参者にあたっている。

縁起物語の内容は、朝廷(神道)の立場なら天皇の祖先にあたる神話上の人物が征服者として訪れて祖先(神)を祀ったという話になるし、仏教であれば徳のある高僧が訪れて仏堂を建てたという話になりやすい。




いずれも何処からか偉そうな風来坊?がやってきて何かを設置する訳だが、しかし不思議なことに 「なぜその場所に決めたのか」 という理由は説明されない。

筆者は 「それは既に先客が居たのを名称変更したからだよ」 と結論付けたい。 先客とは有史以前から存在した素朴な蝦夷の神だ。ここでは温泉そのものがそれにあたっている。

それを思うとき、このあまりにも工務店的な神の扱い方に、筆者は幾分かの滑稽さを感じざるを得なかった。……とは言え、べつに批判をしている訳ではない。湯の神は静謐の中で超然としており、感情は表さない。だって自然現象なのだから。



 

■ 蔵王を去る




しばしこの古い湯の神の傍らに佇んだのち、筆者は除雪された道路を通って下界に降りた。 あれだけ苦労して雪の斜面を登ったのに、ちょっと北西寄りのゲレンデを経由すれば楽々とアクセスできた訳で、下りは実にスムーズだった。 事前のリサーチはちゃんとしておくべきだな(笑)




さてここで気の利いたまとめが出来れば良いのだが、うまい言葉がみつからない。

現代の蔵王温泉は神話の世界よりは洋風のレジャー感MAX推しで進んでいるようで、修験の世界を感じさせる要素もほとんどない。しかしまあよろしく振興されて人々の生活が成り立っているのだから、神様のご機嫌はそう悪くはないのだろう。




ということで、あまり綺麗にまとまらなかったけれども本稿はここまでとしたい。

<完>



 

【あとがき】


えー久しぶりにあとがきなどを書いてみたいと思います。身辺でやるべき雑事が増えすぎまして、しばらく更新が停滞している訳ですが(^^;)まあ何かの義務を負っている訳でもありませんので心の赴くままにゆるゆるとやっていこうと思います。

蔵王温泉に関しては、本文でもいくらか触れていますが筆者は夏場にしか訪れたことがなかったので、今回は冬の風景ということで樹氷+温泉という切り口で眺めてみました。写真的な観点では樹氷が一番インパクトがありますけれども、これは既に観光情報が大量にあふれていますので、筆者としては酢川神社の神様の正体を探ってやろうという意識のほうが強い訪問でした。




蔵王温泉は伝承では2世紀の初頭、日本武尊の蝦夷遠征の際に配下の吉備多賀由が発見したことになっています。しかし現在の酢川神社の縁起は熊野神社(熊野の覚山なる修験者による建立)、龍山(天台宗の慈覚大師による開山)とセットで語られることが多く、まとめて熊野三山の扱いなのでちょっと独立性という点では弱くなっているんですね。

しかし筆者がみるところ、一番古い "神" のかたちはやはりこの温泉そのものです。そこに素朴に乗ったのが神道で、ほぼそのまま大己貴神と少彦名神が祀られました。そこに後から熊野修験がやってきて、さらに遅れて仏教(天台宗)がやってきました。これら諸勢力のテリトリー分割は古今東西の共通原則=早い者勝ちのルールに従って行われ、その結果、蔵王連峰の山頂付近は修験道、温泉は神道の領域となり、仏教勢は山形盆地に近い龍山を拠点にする訳です。

このうち修験道は天台宗と信仰形態が近いのでのちにほぼ一体化し、熊野三山を模して西蔵王一帯を修験の世界に変えてしまいます。これが現代まで蔵王山の宗教空間の基本構造になっていて、一見するとわかりにくいちゃんぽん状態を作り出しているようです。

筆者は今回、古い蝦夷の神=温泉そのものの信仰の痕跡をみたいという動機で訪れているので、もしかするとこれら後付けの要素について厳しめに書いているかもしれません。しかしまあ宗教の書き換え合戦が行われたのは千年以上も昔のことですし、良いとか悪いとか言うのも野暮な気がします。すでに歴史となってしまった件については、幾分かのロマンをもって眺めるくらいでちょうど良いのではないでしょうか。


<おしまい>