2020.10.25 国営ひたち海浜公園でコキアを見る
(その2)
■ 丘の西側へ
さて見晴らしの丘の周辺は交通規制があって歩いて行ける範囲も方向も限られてしまうのだが、丘の南~西側の半円形のエリアは比較的往来が自由なので、すこしばかり周辺の様子も書いてみよう。
まず丘の南側は、東駐車場方面に抜ける路になっていて飲食系の屋台が並んでいる。本日コキアを見に来た観光客の多くはこのあたりで軽食をとっている。歩道沿いには椅子とテーブルも並んでいて小休止するにはちょうどよさそうだ。
いわゆる遊園地的な観光施設と違って国営ひたち海浜公園ではその広大な面積の割りに売店が少ない。見晴らしの丘の近傍ではこの屋台エリアのみで、他には公園の西ゲート、中央ゲートの付近でカフェに入るくらいしかない。あちこち歩き回るのであれば、PETボトル1本くらいの水分は持ち歩いたほうがよさそうで、さらにはゴミ箱が少ないので要注意だ。
さて筆者もエネルギーをチャージすべく小休止。ソフトクリームを買ってみたら何やらクマさんがちょこんと載っていた。どうやらサービスのミニカステラらしい。
屋台の店員氏は 「ほらほらクマさんですよ~っ、わーい♪」 とテンションが妙に高いのだが、いい歳こいた筆者に5歳児のようなリアクションを求められても困るので 「御品、しかと受領致し候」 と申し述べてしずしずと下がることにした。・・・というか、あのテンションを維持し続けている売り子氏の前向きパワーには恐れ入る。その元気、こっちにもすこし分けてw
それはともかく、さらに西側に回っていくと、選ばれし者たちの栄光の道が交錯する。もちろん係員のチェックがあるので予約証がないと入れてもらえないのだが、ここを横切って外周路を行くことはできる。見晴らしの丘の全体像をみるにはこの付近から眺めるのがよさそうだ。
■ 常緑樹の森
その外周路の先に、江戸時代の古民家を移築したエリアがある。実は選ばれし殿上人がコキアの丘から降りてくる道の一本が、あそこに抜けてくるのである。あちらにも監視員がいて丘には入れないのだが、古民家のあたりまでは行けるので足を延ばしてみよう。ちなみに手前に広がっているのは蕎麦の畑で、ちょうど秋蕎麦の白い花が咲いていた。
その蕎麦畑を挟んで見晴らしの丘を見てみた。コキア、コスモス、秋蕎麦の3色が面白いグラデーションを形成している。見頃がぴったり合っているという点で、とても興味深い。
古民家エリアにやってくると丘から降りてくる人々とすれ違うことになる。「きれいだったね~」 などと話しているのを聞くと羨(うらや)ましい限りなのだが、そこは大人の貫禄(何)で我慢だ。
さてここでは人よりも背景の雑木林に注目したい。ここに繁茂している木々は南方系の常緑樹が多く、海岸に近いことから松も多く混在する。つまり紅葉する木々はもともと少ない。茨城県の海岸沿いはおしなべてこんな感じの樹木が多く、まあ何というか……地味なのである。
天然林における紅葉する木々=落葉広葉樹の分布域は、年間平均気温が15℃以下というのがひとつの目安になっている。関東地方では栃木県の真ん中あたりにこのラインがあり、そこから北側が落葉広葉樹の世界になる。冬になると葉が落ちるので枯れ木がズラーっと並んだような景観になるのが特徴だ。
この海浜公園はどうかといえば、15℃ラインより南側にあたりほとんどが常緑樹である。人工的に植樹された木々にはこれは当てはまらず公園入口の広場などでは紅葉する木がいくらか見えるけれども、全体からみれば少数派だ。
それを鑑みると、ここに丘が造成されてコスモスやコキアで覆われたときのインパクトは相当なものだったのではないか。
さて丘の西端にやってきた。写真の左側にちょこっとススキが写っているのは、コキアやコスモスが植えられいるのが丘の南側に面したエリアで、北側1/3くらいは自然に繁茂したススキ野原になっているからだ。
ちなみに北側はもう茨城港の埠頭にちかく、丘の上からは港湾施設のクレーンなどが立ち並んでいるのが見える。絵となる風景が見たいなら南側~西側から眺めるのが正解で、コキアやコスモスはもちろんこの見栄えのする向きの斜面に分布している。写真を撮るのであればそのあたりを心得て臨むのが良いと思う。
もう進める限界点に近いので、最後に公園職員氏に止められるぎりぎりまで寄って、コキアの様子を撮ってみた。南側で見たよりも鮮やかな赤が残っている一角がある。あと一週間ほど早く来ていたら、きっともっと燃えるような赤色が見られたのだろう。
……しかしまあ、これはこれで良し。 コキアがどういうものなのかある程度の状況は分かったのだから、この経験を後日の紅葉鑑賞に生かしていくこととしよう。
■ エピローグとしての丘の歴史
さてコキアの紅葉レポートは、ここで終わりである。実はこの日、筆者は遊園地エリアのほうまで足を延ばして散策をしたのだが、全部書き始めるとピントのボケた記事になってしまうのでそちらは省略することにしたい。
その代わりに、この丘がいったいどういう経緯で整備されたのかについて、すこしばかり追記してエピローグの代わりにしようと思う。紅葉以外の情報は要らん、という方はここで読むのを終わりにして頂いてかまわない。
ここで一枚の航空写真を紹介したい。見晴らしの丘のかつての姿である。
撮影は昭和36年、円形の線は標的マークで、マーク内の四角い建物はコンクリート製のトーチカである。終戦まで日本陸軍の飛行場のあった広大な砂丘は、戦後米軍に接収されて射爆場として使われていた。その爆撃目標となっていたのが、ちょうどこの丘の付近なのである。トーチカは着弾確認用で、この円の中心に向かって急降下爆撃やロケット弾、スキップ弾(※)投下などの訓練が行われていた。
※この写真は公園内のレストハウス内にある資料室に展示してある。目立たない場所だが無料で誰でも入ることができ、撮影は自由だというのでいくらか参考資料を撮らせて頂いた。以下の説明で使用しているのはこの展示室のものを引用している。
※スキップ弾:低空飛行でいったん海面上に爆弾を投下し、水切りの要領で跳躍させながら目標に当てるための弾。反跳爆撃ともいい、敵艦の喫水線ぎりぎりを狙って大穴を開けるもの。
先の写真から遡ること18年前、戦時中の様子はこんな状況(↑)であった。もともと平坦な砂丘であった阿字ヶ浦~久慈川の海岸線は、民家がほとんどないことから日本軍の飛行場/演習場として使われており、そこから徐々に設備が増強されて北関東の守りを固める拠点となっていた。
これを戦後進駐してきた米軍が接収し、二度と使えないように徹底的に破壊し、爆撃訓練の的(まと)として使ったのである。
このとき接収された旧日本陸軍の土地は現在の海浜公園よりも遙かに広大で、東西3km、南北7kmに及び、面積は1100haほどあった。この他に海上に7500haあまりの排他区域が設定されていた。これが日本政府に返還されたのは昭和も48年になってからのことである。
返還後、用地の北側は港湾、発電所、工業用地に転用され、南側には野球場、陸上競技場などのスポーツ施設、自動車安全運転センターなどの公共施設が建った。そして爆撃訓練で模擬弾を落とされまくった中央付近の区域は、公園として生まれ変わることとなった。
レストハウスの奥には、爆撃訓練で使用された250kg弾などの実物がいまでも展示されている。訓練用なので火薬は着弾が確認できる程度に減らされていたようだが、高度経済成長~オイルショックの時代までこんなものがボコスカと落とされていたというのだから驚く。
返還地の利用に関しては昭和52年の首都圏整備計画で公園緑地として整備するとの記載がみえ、この頃から公園化の計画が始まったらしい。つづいて同55年に調査事務所発足、同56年に国営常陸海浜公園整備の基本方針が決定、同58年に国営常陸海浜公園基本計画が決定、その後同59年に起工式に至った。このとき所轄が大蔵省(当時)から建設省(当時)に移り、国有財産として 「持っているだけ」 から 「利用促進」 へと舵が切られている。 この間、返還地の調査の中で大量の不発弾がみつかり自衛隊により処分されていった。
標的マークのあった付近にボタ山を盛る決定がどのように決まったのか、その経緯は調べてみてもよくわからない(※)。ただその意図するところは、土中に残留しているかもしれない不発弾を大量の土砂で丸ごと封印してしまおうということのように思える。盛られた土砂は大型トラック20万台分とされ、ざっくり推定すると200万~300万トンくらいであろうか。
これについては 「残留模擬弾に対していささか過剰に過ぎるのでは?」 との疑問も生じるのだが、返還前には周辺地域への誤爆が累計で100件以上あったそうなので、住民感情の面からも政治的に必要なコストだったのだろう。
※公園事務所や国交省の資料(整備計画等)は最新版は参照できるのだが旧版は削除されていてWEB上では過去の経緯が追いにくい。
ところで展示室の公園史ビデオを見ると 「花いっぱいの丘ができました、めでたしめでたし~」 と何ともお花畑?なストーリーが展開しているのだが、筆者はもう少し現実的にみて、「なかなか良くできた計画じゃないか」 との所感をもっている。
というのも、公園周辺の整備事業では崖面を広く掘削(※)していて、この残土の行先がどうやら埠頭の埋め立て部分と見晴らしの丘らしいのである。残土を射爆場の標的跡に持っていけば敷地内で処分が完結するうえ、不発弾対策にもなり、出来上がったボタ山を整備して観光資源化もできる。まさに一石三鳥で、これを考えた人はなかなか頭が良いと思う。
※公園のある砂丘部分は海抜20mくらいの台地状になっている。港湾整備+北関東道路のIC開設のためにはここを掘削して海面近い高さで平地を造成する必要があった。
……おっと、短稿のつもりだったのにもうずいぶん長く書いてしまった。
まあいろいろな経緯はあった訳だけれど、こうして丘はできあがった。公園事務所によれば正式に一般供用されたのは平成20年(2008)からだそうで、今年で12年目である。観光スポットとしてはまだまだ新参者で、茨城県を地味な観光地と思っている人にはなかなか認知されないという悩みもあるらしい。
しかしそれでもこうして入場制限をするほどに人が集まるようになった。長い目で見ればこれも平和の配当のひとつである。機会が許せば、次はぜひとも "丘の上から" この風景を眺めてみたいと思ってみた。
【完】