2022.03.06 殺生石が割れた!
殺生石が真っ二つに割れたので見て参りました (´・ω・`)ノ
さて初詣と同じMAPで恐縮なのだが、殺生石が真っ二つに割れたというので様子を見てきた。とりあえず簡単に様子を記録しておこう。
■ 始まりは3/6のニュースだった
このニュースは3/6の報道で知れ渡った。 那須町役場は3/5の時点で把握したようで、観光客の Twitter でも時事ネタとしてトレンド入りしていた。 写真をみると、たしかに真っ二つなのである。
殺生石は九尾の狐伝説で有名な石で、地質上は溶岩隗のひとかけらである。那須の溶岩はハワイのキラウェア火山のようにトロトロとは広がらない。固めの溶岩ドームとしてメリメリとせり上がってきて、周辺部がぽろぽろと崩れて斜面を転がり落ちたものが裾野まで広がっている。 それらの多くは年月を経てやがて草木に覆われるのだが、この殺生石の一帯は火山性ガスの噴出が多かったため植物は繁茂せず、原初の斜面がそのまま露出している。
伝説では、九尾の狐の怨念が石に憑りついていたものを、室町時代初期に曹洞宗の高層:玄翁和尚が叩いて割った(→宗教的には浄化して昇天させた)とされている。それが636年ぶりにまた割れたというので 「なにか大事件の前兆か!?」 などと話題になったのであった。
ちなみに九尾の狐のストーリーは誰がどう見ても創作(伝説)なわけだが、玄翁和尚は実在の人物であり、後小松天皇が彼にその調伏または鎮魂を依頼し、 法要の行われた後に恩賞(法王能昭禅師の称号)を下賜したのも史実である。
当時なにゆえ斯様なオカルトチックな儀式が行われたのかと言えば、理由は2つほどある。 ひとつは地質学的にちょうど茶臼岳の火山活動が活発化して地震が頻発していた時期にあたり、それを鎮めたいという人心上のニーズがあったこと、 そしてもうひとつは当時の後小松天皇の父帝:後円融上皇が、時の三代将軍:足利義満と政治的に対立して干されていたという事情であった。
特に後者は深刻で、なんと後円融上皇は息子である後小松天皇(即位当時6歳)に譲位する儀式=即位の礼に、当事者であるにも関わらず呼ばれていない。 情緒不安定でたびたび刀を振り回していたという事情もあって、朝廷の役人も御所には参内せず、とにかく彼には公的な仕事といえるものがなかった。
※写真は Wikipedia のフリー素材から引用
現実世界にこれといった影響を及ぼさない "妖怪変化退治の勅令" なるものが発せられたのは、そんな状況に於いてであった。 勅令の名義は後小松天皇となっているものの当時10歳の幼帝に政治判断などできるはずもなく、実質的には後円融上皇の意向ということになるのだろう。
斯くして 「何かすることない?」 という暇人の思い付きがひとつの伝説を生んだ。 これが巡り巡って那須地域の観光振興に役立っているのだから、世の中何が役に立つのかわからないものだ。
※写真は Wikipedia のフリー素材から引用(部分)
余談ながら、この法要ののち応永年間に茶臼岳は大噴火(1408-1410)を起こしている。 これは一般的な水蒸気爆発ではなく数千年に一度クラスの本格的なマグマ噴火で、茶臼岳山頂部の溶岩ドームはこのときに形成された。火砕流の流れ下った先にあった川では魚が死滅し、巻き込まれて死亡した住民が300名ほどいたと記録にある。
玄翁和尚が法要を行った至徳年間はこの噴火の前兆ともいえる地殻変動(地震など)が活発化していた時期で、その後の噴火の規模をみれば充分に "神威" を感じる程度のものではあっただろう。
■ トライ1
さてそんな訳で、背景事情の説明はこのあたりにして現地の状況を見てみよう。ちょうど週末でもあり、筆者はニュースを見てすぐに現地に向かった。 しかしこの日は雪模様で視界は御覧の通り。
温泉街に到達しみたものの、観光客の姿はない。
殺生石園地の駐車場もガラガラであった。 いくらか足跡があるところをみると筆者と同類のスキモノはいるらしいのだが、あまり長居はせずに撤退しているようだ。
しかしそこは根性で奥に進んでみる。
…見れば、おお、あれかっ!
確かに割れてはいるな。 …が、雪が激しくてちょっと状況がよくわからない。
カメラも雪だらけでちょっとシャレにならない状態になってきたので、ここはいったん撤収することにしよう。 …むむむ。
■トライ2
さてそんな訳で1週間ほど待ち、3/12にトライ2を仕掛けてみることにした。 平地ではもう雪は解けて、早春を告げるクロッカスがいい感じで咲いている。
この日は春霞み(というか黄砂?)で遠景の視界はよろしくなかった。とはいえ目立った雲は無く、殺生石くらいの標高なら登っていけるだろうと判断して出発。
途中は省略して湯本温泉街の様子はこんな状況であった。 さすがに路面の雪は解けたようだな。
殺生石園地に入ると、野次馬的な観光客がどっと詰めかけていた。 3月も中旬となればファミリースキー場も営業終了となり、普段ならこのあたりは閑散期なのだが、まあ皆さんネタがお好きなのね(笑)
さっそく筆者も野次馬の一人となって園地の奥に進んでみる。
■ 殺生石
そしてお目見えした真っ二つの殺生石。 改めて見ると見事な割れっぷりだな。真っ二つとはいっても脱落したのは手前側1/4くらいで、本体側はとりあえずご神体としての威厳を保てるくらいの重量感で鎮座している。
ニュース記事によれば観光協会は脱落部分を修復したい意向らしい。ただし文化財保護法に基づいて日本国指定名勝になっている手前、手を加えるのは難しいのではないかと筆者は思っている。
※とはいえせっかく話題になったのだからこのまま捨ておくのも勿体ない。筆者としてはこの際、玄翁和尚ゆかりの示現寺か泉渓寺の和尚さんを呼んできて九尾の狐の再封じの法要を営むのが良いのではないかと思う。600年ぶりに割れたことを逆手にとって 「世の乱れを治(おさ)めるため呪術的な対策を施します!」 とすれば観光イベントとしても面白そうな気がするのだが……はてさて。
さて割れ口を観察すると、どうやら誰かがイタズラしたとか、どこかの漫画に出てくる鬼殺隊が斬った(!?)とかいうのではなく、自然現象で割れたようだ。 水の流れた跡が確認でき、周辺が黒ずんでいる。
黒いのは付近から噴出する亜硫酸ガスによる影響と思われ、岩に含まれる金属元素がガス中の硫黄分と反応して黒い硫化物となったものだろう。赤っぽく見えるのはやはり硫黄酸化物の一種である明礬(みょうばん)のように思える。おそらく長い年月を経て水が沁み込んでは冬季に凍結することを繰り返して亀裂が広がっていき、そこから亜硫酸ガスが入り込んで硫化物の層が出来たのではないか。これがじわじわと進行して、最後に自重に耐えかねて脱落したとすれば状況が符合する。
似たような現象は、より標高の高い山頂付近(1900m前後)ではさらに顕著に見ることが出来る。 この写真(↑)は茶臼岳溶岩ドームの頂上付近の溶岩塊だが、もうすっかりボロボロになっている。
ドーム形成は応永十七年(1410)であることが記録から分かっており、マグマが冷え固まってから今年で612年目だ。学校の理科の時間で学ぶ "風化" はもっと気の遠くなるような時間軸の話のような印象を受けるけれど、実際の風化は以外と早く進行する。せいぜい数百年というレベルで岩はグズグズに崩れていってしまうのだ。
殺生石は玄翁和尚の存命時にはすでに九尾の狐伝説が成立するくらいの年月は経ており、山頂の岩塊(応永噴火の際の溶岩)より遙かに古い。 それが山頂のようなスピードで崩壊しなかったのは、ここが人の居住できる程度にはマイルドな環境で、山頂ほどには寒暖の差が激しくなかったという一言に尽きる。
それらを総合的に鑑みるに、もしかすると玄翁和尚の法要が営まれたとき、やはり殺生石の岩塊は同じような経緯で偶然に割れたのではないか。そしてそれが玄翁伝説の発端になったのだとすれば、ちょっと面白い気がする。
・・・などと感慨にふけっているのも束の間、ひっきりなしにやってくる観光客諸氏は記念撮影に余念がない。とりあえず 「ウェーイ」 と騒いでSNSのネタになればいいやというノリのようであった。
まあこれはこれで平和の象徴のような風景なのである。
海の向こうでは国家存亡の危機に見舞われている国がある一方で、我々は日常を楽しむ余裕がある。 それはきっと、幸せなことなのだろう。
■温泉神社へ
さて本レポートはここでお仕舞いにしてもよいのだけれど、せっかくなので温泉神社にも寄っていくことにしたい。
殺生石と温泉神社は裏参道でつながっている。噴気の強烈だった江戸時代末期から明治大正の頃は賽の河原は硫黄採掘場(鉱山)でもあったので、殺生石を見たい人は神社経由でアクセスしていた。
園地の案内板の写真をみると、昭和30年頃になっても賽の河原はこんな状態で、硫黄鉱山の雰囲気が色濃く残っていたようだ。
神社ちかくまで登ると、賽の河原がよく見えた。 以前より穏やかになったとはいえ、いまだに亜硫酸ガスは噴出しており、植物の育成は進んでいない。さらにはここを流れ下る湯川は酸性がつよく、魚は住めないし飲用にも適さない。温泉街の生活用水はこの湯川とは別系統の沢水を使っており、水源の使える/使えないを見極めながら集落は営まれてきた訳だ。大変なことであるな。
さてここでで紹介したかったのは、温泉神社の本殿ではなく摂社である九尾稲荷神社である。 狐つながりで稲荷社というのも安直な気もするけれど、昔から信仰されているものであるし、風雪にも耐えていい感じで枯れてきている。
ここにはお稲荷様(本来は荼枳尼天)の眷属として狐の像があるのだが、さきに触れたように亜硫酸ガスの多い立地なので、表面が硫化物で浸食され、また寒暖差で風化していくのでその寿命は短い。赤い前掛けをしているのが現役の狐像で、その後ろには先代の像がみえる。 この状態を、筆者は紹介しておきたいと思ったのだ。
これが、その先代の狐像である。表面が黒っぽいのは殺生石と同じ原理で地面から噴出する亜硫酸ガスによるものだろう。 凹凸の多い顔の部分は風化して脱落してしまっている。首や脚も割れて脱落したのを修復した痕跡がみえる。
今回殺生石で起こったことは、同じ地区にあるあらゆる構造物に及んでいる。火山に立地する構造物は、それが自然由来のものであれ人工のものであれ、腐食性のあるガスで浸食され朽ちていく運命からは逃れられない。
人の寿命がいまや平均80年。 それに比べたら巌(いわお)の寿命は長いのだけれど、しかし永遠というほどでもない。山の風土では、せいぜい1000年。 妖怪変化とやらもその程度だと思えば、人間の寿命のスケールもそう悪くはないのかもしれないと筆者は思ってみた。
<完>
■あとがき
えー1ページしかないレポートであとがきというのもナニですが(笑)、ちょこっとだけ書いておきましょう。 本文でも触れましたが殺生石が割れたのは特に珍しい事象ではなく、一般的な風化の一例という理解でよろしいかと思われます。 周辺の岩だって亀裂が入っており、やがては朽ちていく途上にあります。
実は似たような浸食の過程を経ているものに、隣接する芭蕉の句碑があります。写真を示すとこんな(↑)状態で、もう半分以上亀裂が入っています。放っておけばやがて脱落することでしょう。
石造りの構造物をつくる動機のひとつに 「長期間の風雪に耐える」 というのがあると思いますが、自然の風化力というのはなかなか侮れず、高度成長期に設置された石碑などは100年も持たずに倒壊しているものが珍しくありません。特に複雑な形状や薄くてスリムなものにその傾向が強いように思います。
造るのであれば、あんまりペラペラの石体ではなく、それなりの厚みを持たせたどっしりとしたものが結局は長く残っていく。 軽薄短小がもてはやされる現代にあって、こんな形で重厚長大が適した分野が意識されるのは面白いものですね。
<おしまい>