2023.07.20 霞ヶ浦の風景(その1)




夏の霞ヶ浦を巡って参りました (´・ω・`)ノ



久方ぶりに遠出をしてみようと思い立ち、霞ヶ浦の周辺を走ってきたのでレポートしてみたい。 海なし県の住民である筆者は、夏になるととりあえず福島か茨城の海を見に行く……というのが毎年恒例の巡礼行事みたいになっている。内陸部の人間にとって海か湖かといえばやはり 「海でしょ」 というのがとりあえずの理由で、お蔭で筆者は霞ヶ浦を真面目に眺めたことがあまりなかった。

しかし毎回ルーティーンのように同じ行為を繰り返すのもアレかなという気分になり、たまには変化球を投げてみたくなった。 そんな次第で巨大な湖のある風景を眺めてみようと思い至ったのである。



 

■ 巨大な湾の痕跡




さて霞ヶ浦の風景といってもある程度の基礎知識がないとわかりにくい。そこで簡単にその来歴と特徴のようなものについて最初に述べておきたい。

霞ヶ浦とは土浦周辺に広がる西浦、鹿島方面に広がる北浦、外浪逆浦と利根川に接続するまでの河川部(常陸利根川)を総称して呼んでいるもので、その水域は220平方キロメートルに及び、国内の湖沼では琵琶湖(670平方キロメートル)に次ぐ面積を誇っている。

一般人の認識する "狭義の霞ヶ浦" は一番大きな西浦のみを指すことが多いが、広義の霞ヶ浦がどうしてこの範囲なのかと言えば、水面が海抜0.25メートルというほとんど海面の延長線上みたいなところで、満潮時には海水が遡ってくる "一体ものの汽水域" であったことによる。




この海水が遡ってくるという事情は利根川本流も似たようなもので、上流から下ってくる水量が多いため霞ヶ浦よりは押し戻すパワーがあったものの、かつては河口から30~40kmも海水が遡っていた。このため香取市のあたりでは利根川から取水している水道水が塩辛くなるなどの現象がみられたという。まあそれだけ関東平野というのは傾斜のない平べったい土地柄なのである。

現在は河口から18km上流=利根川と常陸利根川の合流部に河口堰(1971年竣工)が整備されて海水の逆流はかなり抑えられているが、河川である以上完全に閉め切ってしまう訳にもいかず、細かく分割した水門シャッターを開けたり閉めたりしながら、かなり複雑な制御が行われている。




さて霞ヶ浦は "浦" と名がつく通り、もともとは海であった。平坦な低地の宿命として気候変動で海水面が上下すると水没範囲も連動して動き、温暖期と寒冷期では表情を変える。 良く知られるものとしては、約6000年前の縄文海進、約1000年前の平安海進などがある。

霞ヶ浦は奈良~平安時代には上図の如く巨大な内海で、香取海(かとりのうみ)と呼ばれていた。 常陸国風土記(養老五年=西暦721年成立)を読むと港湾が多く製塩業がさかんであったとの記述がある。

この地域は農業生産性も高く、また太平洋の荒波から隔離された静かな湾だったことから漁業もさかんで、古代にあっては大きな人口を養い得た。朝廷にとってっも税収上あるいは兵員調達地として重要地域で、ここに置かれた常陸国は律令国としては大国として扱われ、国主には親王(天皇の息子)が就く親王国であった。細かいことは置いておくとして、とにかく存在感のある地域だったことは確かだろう。

香取海は鎌倉時代以降、寒冷化によって海面が下がり、河川による土砂の堆積も進んでその面積を大幅に縮小した。江戸時代になると干拓が進み、現在では水門が造られて海水の流入はなくなり、淡水湖となっている。 その湖岸を、今回はゆるゆると眺めてみようという訳だ。




■ 土浦へ




さて前振りはそのくらいにして、早速出かけてみよう。筆者の居住する那須塩原市から霞ヶ浦に至るには、東北自動車道 → 北関東自動車道 → 常磐自動車道 と乗り継いでほとんど高速道路だけで到着してしまう。 ちょっと味気ない気がしないでもないが、これも文明の恩恵なので素直に利用させてもらおう。




霞ヶ浦の最寄りのICは北関東道経由で行くと土浦北ICになる。ICの降り口には南国風のタブノキっぽい樹木がみえた。

ここでいう南国風とは "冬でも葉の落ちない常緑樹" くらいの意味合いで書いている。関東地方では水戸~宇都宮~前橋あたりを境界にしてその北部と南部では植物の分布が異なる。ここから北側は葉の薄い落葉樹が多く、南側は厚めでツヤツヤの葉をもつ常緑樹(照葉樹)が多くなる。そんな訳で、この違いを認識できると 「おお、旅をしているのだなぁ」 という感慨を覚えるわけだ。




ICから5kmほど南下すると土浦の市街地に入る。 栃木県民から見える土浦は、端的にいって "魔都" であり、あまり長居をするべきところではない。




筆者にとっても、土浦というとヤンキーと暴走族の支配する荒廃都市というイメージが長らくある。学生の頃は 「土浦に入ったら駐停車はせずにすぐに通り抜けろ、水戸か鹿島のあたりまで到達すれば安全だ」 とよく先輩に指導されたものだ。

しかしみたところ竹槍マフラーの改造車両が走っていないし、トゲトゲ肩パッドのモヒカンもいなければ、特攻服を着た世紀末兄貴もいない。もちろんそれらを取り締まるロボコップやマッドマックスや北斗神拳伝承者の姿もない。




ただしそれは本日が平日の昼間であるからで、路面の削れ具合をみると市役所周辺は事実上のサーキット状態ではあるようだ。

ちなみに 土浦 暴走族 などのキーワードで検索してみると、いろいろと賑やか(?)な情報が出てくる。これを見る限り現在の土浦はやはり筆者が知っている土浦のようで、つまりは通常運転ということなのだろう。




やがて霞ヶ浦に注ぐ桜川を渡る。脇見運転をする訳にはいかないので正面アングルの写真しか載せられないけれども、ここからもう湖面がチラリズム的に見える。




ちなみに土浦とは読んで字のごとく "土の浦" で、かつて海面(湖面)が高かった時代には干潟のような地勢であった。 文献によっては "津々浦々" が訛(なま)って土浦になったとする説もあるけれども、平安海進vs航空測量MAPの標高分布をみれば "土の浦" 説のほうが説得力があるように思える。

参考までに平安海進を+5mと見積もった土浦市の浸水エリア(↑)を示してみよう。この条件だと現代の常磐自動車道を越えて8kmほども海岸線が奥側に伸びる。これが1000年前のイニシャル状態とすれば、桜川による土砂の堆積+寒冷化による海面低下+干拓で徐々に人の生活圏が拡大した様子が理解しやすい。


<つづく>