2023.07.20 霞ヶ浦の風景(その2)
■ 霞ヶ浦総合公園
さてそんな "土の浦" の痕跡を見られるのではないかと思って訪れたのが、本日最初のチェックポイント、霞ヶ浦総合公園であった。桜川の河口三角州の南端にあり、市街地からは離れて周囲は水田地帯になっている。
ヘリで空撮すると公園はこんな感じのところである。ヘリなんていつ乗ったんだよとか言われそうだけれど(笑)、公園ではときどき遊覧飛行ツアーが行われていてこれは後日に撮ったものだ。ここではひとまず、水面ギリギリの水準で広がる陸地の末端具合がわかって頂ければよろしいかと思う。
ついでに公園付近の断面図も示しておきたい。近代市街地の広がる段丘上面は海抜25m前後、水田の分布する干拓地が同1~3mくらい、そして水田面のある崖下にもいくらか住宅地がある。崖下の民家は標高3~5mくらいの付近にあり、県道125号線がそこを縫うように走っている。
かつて水害から身を守るためにぎりぎり妥協した居住ラインがこのあたりであった。ちなみに明治以降しばしば霞ヶ浦を襲った洪水は水面上昇が最大3mくらいで、この妥協ラインの適切さを裏付けている。
しかしそれでも、ひとたび洪水が起これば土浦港の港湾施設は水没したし、干拓地の稲も全滅状態となった。そこで戦後になって大規模な水門と排水ポンプ施設が整備され、湖水面の安定化が図られるようになっている。現代の霞ヶ浦は、これによって相当にサイボーグ化?が進んでいるようだ。
その恩恵を受けている低湿地の道を、公園に向かってゆるゆると進んでいく。
路面と湖水面の標高差は1mもない。道路下の水田は湖面の延長のようなもので段差は実質的にゼロ、湖面が動けばそれに連動して水没する関係にある。こんなギリギリ感のあるところに、よくもまあ人の生活圏が成立したものだな。
さて前振りが長かったけれども、やがて公園に到達。ちょうど霞浦の湯なる温泉施設の横に駐車場があったので滑り込んだ。
この温泉の隣には桜川の支流である備前川が注ぎ、霞ヶ浦の特徴ともいえる水門と排水ポンプ施設がある。 土浦港に近い川向うには新興の市街地ができているが、南側の公園付近は昔ながらの景観が残されている。
本日は霞ヶ浦の風景探訪を優先したいので温泉はスルーだ。 さっそく芝地を抜けて湖岸に向かってみよう。
おおさっそく、何やら水遊びのできそうな一角があるな。
この小さな "浜" から霞ヶ浦を見渡してみた。 恐ろしいほどに静かで鏡のような水面が広がっている。 ここは岸から100m沖合に行っても水深1m未満という超浅瀬で、ほとんど沼みたいな環境だ。 もし海であったなら、潮の干満によって干潟になってしまうだろう。
さて人工の "浜" をよくみると、水田のような細かい泥が堆積している。 施設の設計意図としては砂浜を意識しているようだけれど、やはり水流のない環境では泥に埋もれてしまうらしい。水辺には雑草の生えた帯状の領域もみえる。
・・・ん? 待てよ。
泥のライン、砂のライン、雑草のライン・・・みな綺麗に弧状に分布しているけれど、高さに換算すれば数センチの段差でしかない。 こんな分布になっているということは、恐ろしく水位変動が少ないということなのか?
調べてみると、まさにその通り。
国土交通省の観測値によれば霞ヶ浦の年間水位変動幅はなんと20cm(!!)という驚異的な水準なのである。防災目的で設置した大量の水門とポンプ施設は、凄まじく安定した治水能力を発揮していたのだ。 ……これは素直に驚いておきたい。
■ 葦原と蓮池
さて公園は広いのでもう少し歩いてみよう。さきほどの人口浜から離れると、水際の風景は葦(あし)原に変わっていく。
いまどきの日本の水辺はコンクリートで固められてしまったところが多いけれども、本来はこういう葦原であって、陸地からじわじわと湿地帯を経て湖沼や河川に遷移するというのが自然な姿であった。 これが霞ヶ浦の周辺にはまだ多く残っている。
そのさらに向こう側は、葦原に回廊を儲けて水生植物園がつくられていた。霞ヶ浦ではさきほど見た "浜" のように湖面の水位が極限までコントロール出来ているため、低地側ギリギリまで公園施設が拡張されている。
降りてみると通路部分と水面(湖面と水路でつながっている)の段差は30cmもない。ここにある水生植物はほとんどが蓮(ハス)で、いい感じで花が咲いていた。
そういえば7月はちょうど蓮の開花期だったな。とくに狙って来た訳ではないけれども、いくらかの眼福を得て筆者はしばし花を眺めてみた。
産業的には、蓮は花を愛でるよりも農作物としての蓮根(れんこん)のほうに重きが置かれる。ちなみに茨城県の蓮根の出荷量は全国でダントツの一位で、茨城県だけで全国出荷量の半分以上を占めている。その栽培地の大部分はこの霞ヶ浦の周辺だ。おそらくそれを反映して、ここに蓮園が設けられたのだろう。
蓮はもともと日本に自生種があり、和銅六年(713)編纂の常陸風土記:香島郡(鹿島郡)の項に沼尾(北浦の周辺)の池の蓮の記述がある。沼尾とは湿地帯の尾(端部)の意であろうか。
北に沼尾の池在り。古老の曰へらく神世に天より流れ来し水沼なり。生ふる所の蓮根は味気太異にして甘きこと他所にすぐれたり。病める者、此の沼の蓮を食へば早く癒えて験あり。
これが書かれた奈良時代は平安海進が始まる前にあたる。しかし香取海は存在しており、湾内では至る所で製塩が行われていた。稲は塩分があると生育できないが、蓮には耐性があるので海沿いの低湿地でもよく育つ。それが食用として用いられ、漢方薬としての薬効(整腸作用などがあるとされる)が認められていたようだ。
■仏陀と蓮とヤンキーと
ところで蓮が泥の中から芽を出して開花するさまは仏教的な世界観と良くマッチするようで、説話や経典のなかに極楽浄土の象徴としてよく登場する。またインド神話では太陽の化身とされる神ヴィシュヌの臍(へそ)から生えた蓮の花にブラフマー神が降臨して宇宙が始まったとされており、そのヴィシュヌ神の化身のひとつが仏陀とされている。
我々日本人は人口の95%以上が仏教徒で、仏教を主軸としてインドの神々を見ている傾向がある。しかしインド側からみれば仏教のほうがヒンドゥの一部という理解で、彼我の相違は面白い。
参考までに奈良東大寺の大仏殿の写真(↑)を載せてみるけれども、ここには蓮のモチーフが至る所に見られる。大仏が座っているのも蓮華座といって蓮の花を象った台座だ。 仏教思想としては阿弥陀経の冒頭、極楽について説いている部分に蓮の花の言及がある。
<抜粋> 又舍利弗 極樂國土 有七寶池 八功德水 充滿其中 池底純以 金沙布地 四邊階道 金銀瑠璃 玻瓈合成 上有樓閣 亦以金銀瑠璃
玻瓈硨磲 赤珠碼碯 而嚴飾之 池中蓮華 大如車輪 青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光 微妙香潔 舍利弗 極樂國土 成就如是 功德莊嚴
これによれば極楽の池には蓮が咲いており、その大きさは車輪のほどもあり、青、黄、赤、白に光っていて清らかな香りを発しているという。心が汚れている人(ぉぃ)がこれを聞くと 「場末の飲み屋のネオンサインですか」 なんてツッコミが出てきそうな気もするけれど2500年前の印度で説かれた話なのでそのへんは大目にみよう。
※仏教のお経の内容は弟子の質問に釈迦が答える形式のものが多い。阿弥陀経は珍しく釈迦が自ら弟子に語りかけた語録となっていて、無問自説経と呼ばれる。
※古代インドでは尊いもの=カラフルに光るという認識がある。土浦の美的センスでいうと改造車のイルミネーションデコなどはまさにそれであろう。
さて筆者は旅人の自由を行使していくらか夢想してみた。ヤンキー暴走族に支配された荒廃都市:土浦にもやがて悟りを開いた聖人が現れて、人々を慈悲深く救済してくれるという未来図だ。
筆者の想像するところ、その姿は特攻服にグラサンリーゼントなヴィジュアルで、紫たなびきたる彩雲ではなく七色にデコられた改造車に乗ってやって来ることが予想され、やはり土浦ローカルな存在にしかならないような気がするが、まあ郷土愛には溢れた聖者であるに違いない。
…そんなわけで、土浦市民に幸あれ(何)
※写真は Wikipedia のフリー素材より引用:仏陀像(印度)
■ 葦原の末端
さておかしな方向にヨタ話を振ってしまった。気を取り直してもう少し進んでみよう。蓮池の先はもう固い地面はなく、ズブズブの湿地帯となっている。通路も杭の上に架された木道となった。
開拓される前の霞ヶ浦には、きっとこんな風景が一面に広がっていたのだろう。
ちなみに葦は蓮よりもさらに塩分に耐性があり、かつて霞ヶ浦が海だった時代にも似たような風景は成立し得た。 太平洋に面した海岸線であれば荒波が打ち寄せるので磯か砂浜になってしまうけれども、内海であれば葦原は存続できる。 南国のマングローブ・ラグーンのように干潮/満潮のサイクルでじわじわと水面が変化する、泥田みたいな環境だったのではないかと筆者は思う。
そんな環境に川が注ぐと、河口には塩分の少ない汽水域が形成される。密集する芦原はフィルターのような役割を果たして、水の流れを緩慢にして塩分濃度に傾斜を生じさせていく。 こういう汽水域のうち、上流側の真水にちかい部分が、じわじわと農地に転用されて人の棲む環境になっていったのではないか。
そんな風景を眺めながら、筆者は縄文人と弥生人の住居思想の相違についていくらか考えてみた。縄文人は穴を掘って屋根をかける竪穴式住居を営んでいた。これは基本的に山の民の作法で、半地下構造=土面を壁とすることで夏の暑さや冬の寒さを緩和する効果が期待できた。これには一定の合理性がある。
いっぽう弥生人は高床式住居を好んだ。いま見ているような地勢で 「穴を掘る」 なんて住居は意味を為さない。水辺の生活では多少の増水があっても水没しない床面の高さが必要で、高床式建築は必然的な帰結だったことだろう。
教科書では高床式建築について 「ネズミによる食害を防ぐために床を高くして倉庫を作ったのが起源で~」 という記述が散見されるけれども、筆者はネズミ説には説得力を感じない。いま目前にある風景が語りかける 「…な、水ってこういうもんだぜ?」 というメッセージのほうが、よほど分かりやすい。
■ 風車と暇人
さて土浦の水辺の状況がわかったところで公園の陸側をふーんと眺めつつ、風車のまわりを散策してみた。土浦市の財政は豊かなようで、市営の割りには予算を潤沢に使った風車や花壇、レストハウス、プール施設などが小奇麗に整備されている。せっかく来たからには、いくらか写真を撮っておこう。
・・・と、にわかに背後に気配を感じて、筆者は振り返った。
そこに、謎の男の姿ありけり。
謎男 「お主、出来るな」
筆者 「なにやつ」
謎男 「ふふ、名乗るほどの者ではない」
いやそこは名乗ろうよ、とツッコミのひとつもいれたい場面であったが、カメラを抱えた姿からして、どうやら彼も筆者と似たような者であるらしい。「いやぁ、さきほどから見ていたのですがね、なかなかスジがいい」 などと言うとところからみて相当の手練れの様子。どのへんのスジなのかはよくわからなかったがまあ社交辞令みたいなものだろう。聞けば新聞社で30年ほど報道カメラマンをしていた方だそうで、定年退職してのんびり撮影旅行をしているとのことだった。
謎男 「本日ここに催事ありてそれを撮りに来たところ」
筆者 「まことに結構なこととお見受け致す」
謎男 「にわかに中止となりてぶっちゃけ暇なのでござる!」
筆者 「出たな、暇人っ(笑)」
こういう展開は以前にも経験したことがある。筆者にはどういう訳か暇人に好かれてしまうという不思議な属性があるらしい(笑) おそらく同類と思われる程度の暇人オーラのようなものが出ているのだろう。
そんな訳で、しばし雑談に興じてみた。
聞けば氏は霞ヶ浦をフィールドに撮影を続けているのだそうで、この公園はお気に入りの場所であるらしい。ガジェットケースの中を拝見するとライカにマミヤの中判カメラなど高級機がいろいろ。中判カメラは生産終了してから10年以上経っている筈だがフィルムはまだ供給されており、その広い面積からくる粒状性のすくない滑らかな画質は今でもマニアから好まれている。氏もなかなか楽しそうにそれを語っていた。
・・・というより、こういう話題を振るには相手を選ぶ。一眼レフを抱えてウロウロしている筆者などは、ちょうどよい雑談相手だったのだろう。これはこれで光栄なことだ。
蓮がいい感じですな、という話をすると湖岸を行けば此処よりもっと広々とした見どころがあるという。 聞けば蓮にもいろいろ種類があるようで、大雑把にいって赤く咲くのが古来からある原種にちかい品種、白く咲くのが大陸由来の食用種を改良したものであるらしい。
その理屈で言うと、弥生時代から2000年ほど地中に埋もれて発掘され発芽した大賀ハスなどは赤色系で、原種の代表選手といったところだろうか。
ついでに、スマホ経由で氏の写真アーカイブも見せて頂いた。報道カメラマンの割りに高名な政治家の写真やスクープ映像などは1枚もなく、すべてが風景写真。 リタイアすることで、本来撮りたいものが撮れる暇を得られたということか。…たぶん、この人は幸せなのだろう。
しばしの写真談義ののち 「あまりお引止めしてもいけませんな」 と、氏は別れの挨拶をして去っていった。これからどうされるので? と筆者が問うと 「また別の話し相手を探します」 とのこと。
まあ、そういう旅も悪くはないか。
<つづく>