2024.01.01 初詣:光真寺(その2)




■ 除夜の鐘




さてようやく年越しの儀が始まるらしい。ずいぶんゆっくりとしているなと思いきや、光真寺では午前零時を回ってから儀式を行うのだそうで、他の寺社のようにフライング気味な進行にはしないらしい。

では筆者が事前に聞いていた時刻は何かというと、寺の職員氏の集合時間であって、一般参加者とはあまり関係がなかったという次第のようだ。やれやれ(笑)




実際には日付が変わる10分くらい前から読経の声が聞こえてきて、境内のあちこちでなにやら小さな儀式をしているようだった。筆者は除夜の鐘に人が並んでいるのでそこに紛れていると、やがて住職氏一同がやってきて般若心経を唱え始めた。特に午前0時を回ったからと言って鐘や太鼓が鳴る訳ではなく、この読経の後に突かれる除夜の鐘が年越しを告げることになっているようだ。




やがて一発目がゴーン…!
筆者は7番目で、煩悩よ去れ~とばかりに突いてみた。
それゆけ、ゴ~~~ン…!




年が明けると、とたんに人出が増えはじめる。 往古のごとく除夜の鐘で年明けを知るといったところだろうか。それにしても、毎度のことながら寺社によって年越しのありようがバラエティに富んでいるのが何とも面白い。




■ 大黒天堂




今回はこれといって仏教儀礼にこだわっている訳ではないので、年が改まった後は人々の流れに乗って動いていくことにしよう。 皆向かっていくのは大黒天堂だ。…あれ? それって七福神だよなぁ。禅宗のお寺なのに皆さん現世利益が大事なのねん。




まあ細かいことは言わずに筆者も流れに乗って参拝。見れば 「おんまか きゃらや そわか」 と真言が書いてある。うーん、真言か、禅宗なのに(笑)

ちなみに漢字で伝わったお経や仏様の名をサンスクリット読み(原音に近いからきっと御利益があるはずという思想)してるのが真言で、他の宗派が唱えちゃいけないなんて決まりはない。人が大勢並んでいるということはそれだけ需要があるということだから、これはこれで良いことなのだろう。



 

■ 本堂




一方で肝心の本堂の方はちと寂しい。




この寺の本尊は釈迦牟尼仏だ。曹洞宗では本尊としてお釈迦様、脇侍として道元禅師(日本における曹洞宗の開祖)、 瑩山禅師(曹洞宗の教えを広めた4代目)を拝するのが通例となる。せっかく来訪したからには敬意をもって参拝してゆかねばなるまい。




ご本尊であるお釈迦様の特徴としては、特徴がないのが特徴であろうか。拝んだところで 「〇〇の御利益があります」 という世俗的な見返りはない。具体的な現世利益御をもたらしてくれる 「〇〇天」 「〇〇明王」 とはありようが異なる。

ちなみに曹洞宗における禅とは "心が鎮まって揺らがない状態" のことをいい、心の課題は座禅によって自ら答えを導け、という思想になっている。




正面から拝するご本尊は、ちょうど顔がみえないくらいの御簾具合で鎮座ましましていた。仏像というのは悟りに近づくほど装身具がシンプルになっていき、釈迦如来まで至ると薄衣1枚のみで装身具は一切ない。そんな仏に、ひとまずよき一年でありますように、とだけ祈ってみた。

いつもの財布の中身の充実とか日本の敵の滅亡(笑)は大黒天様にお願いしたのでお釈迦様にはお願いしない。まあうまいこと役割分担して頂ければよろしかろう。




■お焚き上げを眺めながら




一通り詣でたらお焚き上げの火に当たっていく。なにやら巨大な篝火台で豪快に燃やしているな。 最近の作法なのか、火は直接地面の上では燃やさない方式らしい。




年始はやはり、こういう炎の風情があるのがいい。緑色の水銀灯の照明下でも、正月飾りの燃える炎は燈色だ。




さて、今年はどんな1年になっていくのだろう。




とりあえず大田原資清公に倣って、失敗しても諦めない気合のひとつもGETしてみたいものだな。

<おしまい>




■あとがき


今回は久方ぶりに仏寺に初詣してみました。寺そのものよりも大田原氏の歴史のほうに興味があって行ったようなものですが、中興の祖と言われる13代資清にはいろいろな逸話があって興味は尽きません。一番盛り上がるのはやはり越前から朝倉の兵を引き連れて 「帰って来たぜ!」 と凱旋する場面でしょうか。 物語で言えば貴種流離譚(身分のある者が一度敗れて放浪し、修行の果てに勝利する)という脚本類型にぴったりハマっています。漫画か小説にでもしたら面白そうです。

このとき放浪先の越前で提供された兵力は200~250騎くらいと言われます。さすがに関ケ原の合戦などに比べると見劣りしますが、しかしこの動員力は概ね1万石くらいの小大名に匹敵しており、地方勢力の武力としてはなかなか侮れません。突然これだけの兵が現れたら、さしもの大関氏も仰天したことでしょう。

ちなみに朝倉氏は最盛期で50~60万石くらいの国持ち大名でありました。石高比で単純計算すると大俵資清には手持ちの動員力の2%くらいを割いてくれた勘定になります。朝倉氏にとってはこれで勝ったところで特に利はなく、兵力提供の動機としては 「任侠の心」 くらいしか思いつきません。資清はそれだけ気に入られていた "気持ちのイイ奴" だったのでしょう。



さて時代は流転し、その朝倉氏は約30年後、尾張から急速に台頭してきた織田信長と戦って敗れ、滅亡してしまいます(天正元年:1573)。居城であった一乗谷城が落ち、最後の城主:朝倉義景は領内の賢松寺に逃れますが、そこで討ち取られました。

その最後の襲撃に投入された兵力はおよそ200騎。父であった朝倉孝景が大俵資清に貸し与えたのとほぼ同規模です。こうして、局地戦ではこの程度の兵力でも決定的な役割を果たせることを、朝倉氏は一族の滅亡を通していみじくも証明することになったのでした。

※肖像画はWikipediaのフリー素材より引用(朝倉義景像(複製)/湖北町所蔵)




歴史にIFはないと言われますが、もしほんの20~30年時代がズレていたら、大俵資清は兵力を貸してもらえず、よって凱旋もできず、大田原城も光真寺も存在しなかったかもしれません。 まさに出会いは一期一会。 このとき、この場所であったからこその、奇跡的な邂逅だったと思われます。


■ その後の龍泉寺


さて筆者はこの日、本編ではあまり触れなかった龍泉寺にも行ってみました。読経が聞こえて年越しの儀式をしていることは伺えましたが、お堂は閉じていて門柱には夜が明けてからイベントを開くような記載のみ。 この時間帯には内々の儀式に集中しているのかもしれません(秘密仏教だけに?)。

※仏寺によっては元旦午前0時頃に参拝を受付ていないところが結構ある




調べてみると龍泉寺は幕末までは寺領100石を維持していたものの、明治維新のときに封田を新政府に召し上げられ、さらに火災で本堂を失って規模が縮小してしまったようです。現在のお堂は末寺のひとつを改修したものとのこと。

お堂の場所は昭和の前半、東野鉄道が現役だった頃にちょうど路線が通っていたところで、最近ようやく建物が再建されて勢力回復の途に就いたようです。




さてそんな境内から空を見上げると、朧月(おぼろづき)がこのうえもなく美しく見えました。 人に栄枯盛衰があるように寺にも栄枯盛衰があり、まことに諸行は無常です。 しかし続いてさえいればいつか芽の出るときもあるわけで、雌伏の時を忍ぶのもまた長き歴史の一部と考えたい。

まあ筆者も浮きつ沈みつ地味な人生を歩んではおりますが、偉大なる植木等大師の教えに従い 「そのうちなんとかなるだろう」 の精神で参りたいところですね。


<完>