■写真紀行のすゝめ
■旅の記録を無駄にしないために
さて何やら仰々しいタイトルで書き始めてしまいましたが、ここは写真教室のような "教えます" 式の偉そうなページではなく(笑)、筆者はこんなふうに考えて撮っていますが皆さん如何でしょう、的な趣向で雑文を書いていこうというコーナーです。まあ肩が凝らない程度のに読み飛ばしていただければと思います。
さて写真というのは大袈裟にいえば思想そのもので、とある被写体を前にしたときにそれをどうやって四角い枠の中に切り取って1枚の絵にするか、ということを考えたものです。とはいえ実のところ、筆者はいわゆる芸術的な写真というのにはあまり食指が動きません(^^;)。
カメラを手にした最初の頃は、ちょっと気取ってやたらとアオリ気味に撮ってみたり無意味に遠近感を強調したり……ということをしていたのですけれども、だんだんそれにも飽きてきて 「自分は一体なにをやっておるのだ」 とセルフツッコミを入れたりして、今ではそれほど奇抜なことはしなくなりました。最近の撮影スタイルは、1枚の絵としての風景というよりは記録写真に近いかもしれません。
もちろん、芸術性を目指した写真を否定しているわけではなく、それはそれでスゴイと思うわけです。特に自然風景を相手にした写真では、季節、時間帯、天候、ロケーション、アングル、その他諸々……がうまく合致しないと良い写真は撮れません。いわゆる渾身の一枚を撮影するために、カメラマンがどれほどの労力を注いでいるか、それは分かっているつもりです。
……が、そうやって撮影された渾身の一枚も、たとえば展覧会やウェブサイトで公開されている状況をみると、ほとんど説明らしい説明も無く、ポツンと画像だけが表示されていて、せいぜい地名と撮影データがちょこっと載っているだけ……という事例がとても多いのです。
これは、非常に勿体無い。そこに至るまでには様々なドラマがあった筈なのに、さらには途中で他に何枚も撮影しているはずなのに、それが省略されてしまっているのでは感動を同じレベルで共有することが困難になってしまっています。
■写真は俳句のようなもの
ここで、写真と似たようなものとして俳句を考えてみたいと思います。何も難しい話ではありません。とある情景の一瞬を短く切り取って表現したものの事例として取り上げてみるものです。たとえば、かの松尾芭蕉が黒羽の雲厳寺で詠んだ次の句を見てみましょう。
木啄(きつつき)も |
庵(いほ)はやぶらず |
夏木立 |
……これが、現代で言う 「写真」 に相当する "情景の切り取り" の部分です。直訳すると夏の森の中で啄木(きつつき)が庵 (=粗末な住居) には穴を開けていませんね~、という意味になりますが、事情を知らない人がこれだけを読んでも 「なんのこっちゃ」 「それがナニ?」 という反応が返ってくるのがせいぜいでしょう。
芭蕉は、たしかにここで何か思うところがあってこの句を詠んだのです。しかしそれだけでは読者に伝わりません。 そこに至るまでの経緯が、この句だけからは何も分からないからです。そこで、この句に行き着くまでの経過を、少々遡って文章で詠んでみましょう。有名な、奥の細道の一部です。
黒羽の館代、浄坊寺何がしの方に訪づる。思ひかけぬ主の悦び、日夜語りつづけて、其の弟桃翠などいふが朝夕勤めとぶらひ、 自らの家にも伴ひて、親属の方にも招かれ、日を経るままに、ひと日郊外に逍遥して、犬追物の跡を一見し、那須の篠原を 分けて玉藻の前の古墳をとふ。
それより八幡宮に詣づ。与市扇の的を射し時、別しては我が国氏神正八幡と誓ひしも此の神社にて侍ると聞けば、感応殊にしきりに覚えらる。
暮るれば桃翠宅に帰る。 修験光明寺といふあり。そこに招かれて行者堂を拝す。
夏山に足駄を拝む首途哉
当国雲岸寺のおくに、仏頂和尚山居の跡あり。
たてよこの五尺にたらぬ草の庵
むすぶもくやし雨なかりせば
と松の炭して岩にかきつけ侍りと、いつぞや聞え給ふ。其の跡見んと雲岸寺に杖を曳けば、人々すすんで共にいざなひ、若き人多く道の程うちさわぎて、覚えずかの麓に至る。 山は奥あるけしきにて、谷道遥かに松杉黒く苔したたりて、 卯月の天いま猶寒し。
十景尽くる所、橋を渡つて山門に入る。 さてかの跡はいづくの程にやと、後の山によぢのぼれば、石上の小庵岩窟にむすびかけたり。妙禅師の死関、法雲法師の石室を見るが如し。
木啄(きつつき)も庵はやぶらす夏木立
と、取りあへぬ一句を柱に残し侍りし。
古文を読み慣れていないとちょっと難しいかもしれませんが、黒羽を起点に那須の名所旧跡を巡って、その中で彼の学問の師であった仏頂和尚の修行跡を訪ねていることがわかります。
芭蕉は裕福な家の生まれではなかったので、実は教育らしい教育は受けずに成長しました。長じて独学で俳諧の道に進みますが、当初は自らの教養の浅さに悩みながらの活動だったようです。
それが江戸の深川(現在の江東区常盤)に住んでいた頃にこの仏頂和尚と出会い、初めて本格的に漢字や古典、中国思想などの教養の手ほどきをうけるのです。その後芭蕉は頭角をあらわし、のちに "蕉風" と言われる俳諧のムーヴメントを興しました。
ここ雲厳寺は、その芭蕉の師とも言える仏頂和尚が若い頃に修行をした禅寺で、要するに彼は自分が世に出る基礎学力をつけてくれた恩人の足跡をたどってここにやってきたわけです。
そのとき、かつて修行をした石室に松墨で書付を残した……との話を仏頂和尚から聞いていた芭蕉は、それを見つけようと石室のある崖をよじ登り、その洞窟のあまりの狭さに感嘆します。尊敬する師がどれほど立派な環境で学んだのかと思いきや、そこにあったのはどこにでもありそうな野辺の穴。しかしそれでも、仏頂和尚は禅の道を修め豊かな教養を身につけました。芭蕉はきっと、なにか思うところがあったことでしょう。
そしてしみじみとかつての師の姿を想い、硬い木に穴をあけるというキツツキでもこの石の庵をやぶることはできまい、と句を詠むのです。さらには、それを仏頂に倣って残していく……という粋な去り方をしました。
……いかがでしょう。とある情景の描写を俳諧一句(→写真1枚)で済ませるのも勿論悪くはありませんが、周辺事情やそこに至る過程を紀行というかたちで補足すれば、ずっと味わい深いレポートができると思いませんか。
■だから、紀行を書こう
話を現代に戻しますが、せっかく撮った写真です。渾身の一枚に至るまでに撮影した途中経過も交えて、是非とも活用してあげましょう。別に高尚な文学作品をつくる必要はありません、途中で食べた名物の蕎麦が旨かったとか、何でもいいのです。それが、きっと何かの付加価値になります。これが、"紀行のすすめ" ということになります。
そんなわけで、次回以降、写真の撮り方とか旅のノウハウとか、そんなことをつらつらとメモ書きしていきます。旅も写真も、やり方は人それぞれ。これが正しいという絶対のセオリーはありません。とはいえ、何か事例のようなものがあれば参考のひとつくらいにはなるでしょう。そのくらいのゆるゆる加減で、ゆったりと参りましょう ヽ(´ー`)ノ
<以降、次回につづく>