■2005.11.19 晩秋の奥州街道を行く(その4)





■境明神




R294=奥州街道は、はやがてセンターラインも引いていない寂しい細道となった。江戸幕府は主要街道である五街道は道幅6間(10.8m)で造れと号令したのだが、その五街道のひとつ奥州街道である本道は、どうみても4m幅くらいの田舎道になっている。

実は幕府令が守られたのは江戸のごく近郊のみで、東海道ですら箱根を過ぎる頃には道路品質は怪しかった。奥州街道でも事情は似たようなものだったのかもしれない。




そしてその先は、小さな峠を境にして街道は福島県白河市へと抜けていた。 ここが栃木県=下野国の終端になる。本日のドライブもここが終点だ。道幅は…やはり4m道路くらいだな。




さてこの奥州と関東を分ける峠に鎮座するのが、境の明神である。関東側に玉津島姫、奥州側に住吉明神を祭る二社が一組となって国境を守っている。

男女の神をセットにして国境を守る形式は奈良朝~平安前期の頃によく見られるパターンで、この神社の創建が相当に古いことを伺わせる。この写真は関東側の玉津島神社だが、内側を守る=女であることからこの神社を創建したのは関東側を 「内地」 とする勢力であることがわかる。




そんな由緒正しい神社ではあるが社殿は非常にローコストな仕様になっている。理由は2つあって、まずは明治2年の廃仏毀釈(神仏分離令)によってここを守っていた寺が廃寺になって管理者がいなくなってしまったこと、そして明治32年には古い社殿が火災に遭い消失してしまったことによる。

ここでおもしろいのは、神仏分離令が出て140年あまりたった現在、この社殿には玉津島明神(写真右)と大日如来(同左)が同居していることだ。往年の神仏混交の時代を思い起こさせる風景といえる。





じつは有名な随筆 「街道を行く」 の会津の回を書く取材で、司馬遼太郎はここから取材旅行を始めている。かつての面影を失ったこの史跡に、それでも歴史ロマンを織り交ぜながら奥州の豊かさを説いていた。




さてこちらは国境を越えて白河側の住吉神社。階段が設けられているのは明治時代の道路工事で峠が切り通しになって路面が下がったためで、本来この神社は道路と同じ高さにあった。




社殿はこちらもローコスト仕様であった。 黒羽藩時代の石灯篭など見所は多いのだが、かなり暗くなってきて判別が難しいため今回は割愛する。



 

■和算額のこと




さてここで記事を終わりにしても良いのだけれど、境の明神にあった和算額が面白いのでいくらか言及してみたい。かつてこの神社には和算額がたくさん奉納されていた。主に江戸時代のもので、数学問題(主に幾何的なもの)を解いた喜びを額にして奉納されたものだという。実は世界的にみてこういう事例は珍しいものであるらしい。

残念ながら白河市の文化財担当者は 「 こんなものに価値はない 」 として長年放置していた。ようやく価値に気づいた頃には額はすでに原型を留めないほどに痛んでしまい、現在ではユネスコの寄贈した案内板でその内容を知るのみである。




いくつか例題を見てみよう。これは回転楕円体(フットボールみたいな形状)の体積に関する設問だ。解くには積分の概念が必要で高校生の数学でその基礎は学ぶはずなのだが、現代の高校生、大学生は解けるだろうか。これを和算でやってのけたというのだから、日本の数学も捨てたものではない。




こちらはサイクロイドの面積についての設問。今風にいえば回転軌跡の積分で、こういう問題を江戸や京都ではない田舎在住の者が解いていたというのは面白い。やがて到来する文明開化の時代への準備が、密かに進んでいたというところだろうか。

境の明神にやってきて、こんなものを発見するとは♪




・・・と、そんなことを考えている間に日が暮れてしまった。

ここに来るのはいつも夕方遅くだな。次回こそはもう少し明るいうちに来てみよう。


<完>