2006.02.25 奥日光で樹氷を見る (その3)




■二荒山中宮祠




R123を戻ってふたたび中禅寺湖。ここで二荒山神社中宮祠に立ち寄った。




二荒山神社は日光そのものである。この中禅寺湖畔、男体山(=御神体)、女峰山、太郎山から華厳の滝、いろは坂付近一帯、東照宮前の神橋付近のほぼ全域など、計3400ヘクタールあまりがすっぽり境内に収まってしまう。これを超える規模の神社は日本では唯一、伊勢神宮の5500ヘクタールのみだ。

日光というと東照宮を思い浮かべる方も多いと思うけれども、東照宮は近世(江戸時代)になって作られたもので歴史はおよそ400年弱、対して二荒山神社は奈良時代創建で1200年以上の歴史をもつ。歴史的には二荒山神社のほうが800年以上も古いのである。現在では豪華絢爛な東照宮のほうが知名度は高いけれども本来日光はこの二荒山が主である。




とはいえ二荒山神社と東照宮は新旧勢力として相対する関係にはない。というのも二荒山神社は東照宮=徳川家康にはきわめて深い恩義があり共存関係にあるからだ。

豊臣秀吉が天下統一の最後の仕上げとして小田原攻め(1590)をしているとき、二荒山一門は北条氏側に加担していた。これが秀吉の怒りを買って二荒山神社はその神領の大半を没収され、すっかり荒廃してしまう。本来なら二荒山の歴史はここで終わっていた筈であった。しかし秀吉はまもなく没し、次いで起こった関ヶ原の戦い(1600)で天下は徳川家康のものと決した。そして日光神領は、家康によってふたたび安堵されるのである。




その背景には、徳川の拠点=江戸を、陰陽道でいう四神相応(京都と同様の呪術的な守護の形式)にあてはめて都市づくりをしようとしたとき、北を守る玄武(山)として日光が選ばれたため…とする説が根強い。その真偽のほどはわからないが、結果として家康の遺言で日光に東照宮が造営され、ほぼ同時期に二荒山神社の整備も徳川幕府によって行われている。家康はいわば中興の祖のような存在なのだ。




さてうんちくはそのあたりでおしまいにして、さっそく足を踏み入れてみよう。

石段を登ってすぐのところに、独特の形をもつ灯篭があった。日光灯篭といい、昔はここに火を灯して中禅寺湖を行く船に対する灯台の役目を担わせたという。ここは修験の山であったから、山伏らが往来したのかもしれない。




さて、これが社殿である。




ずんずん登ってみる。




東照宮ほどではないが桃山風といえばたしかにそんな感じのする鮮やかな社殿だ。




さて中宮祠の本殿はこの奥だが、ここから先は一般人は入れない。とりあえず天下泰平と筆者の懐具合の充実と、ついでに日本の敵の滅亡を祈っておこう。




本殿横には、登山口があった。二荒山神社の奥宮は男体山(二荒山)の頂上にある。神社的にはここも 「参道」 のうちである。




冬季は登山口の門は閉じられている。 この時期、参拝者はここから奥宮のほうを向いて祈る。ちなみに山頂まではおよそ6km、徒歩で3時間半程度を要するという。




せっかくなので門の隙間から奥の様子をカメラで撮ってみた(をい ^^;) 石段が山の上のほうに続いている。根性があったらいつか登ってみたいところだなぁ。




そんなわけで、これ以上は進みようもなさそうなのでここで帰討。 まあこんな日もあるよ。

<完>