2006.07.06 沼原湿原にニッコウキスゲ咲く(その2)
濃霧の中、木道を歩く。
視界が効かないのですっかり幻想写真?状態になっているが、まあ気にしても仕方がない。 カメラに水滴がついてくるのであまり長時間待つわけにもいかず、レンズを拭きながらの撮影である。
霧には濃淡があって、ときどきすーっと晴れた瞬間がやってくる。短い時間だがこういうタイミングで撮り切ってしまうのが良さそうだ。
そんな訳で霧に濡れるニッコウキスゲのアップを撮ってみる。キスゲは花芽がどんどん出てきて長く楽しめるのだけれど、咲き終わった花はしおれてダラリと垂れ下がってしまうので、次の花が咲いても微妙に外観を損ねてしまう。
やはり同じ株なら初物の花がサマになる訳で、狙うならフライング気味に咲き始めの時期に来た方が綺麗な花が撮れる。そういう意味では、今日はまずまずといったところかもしれない。
視界が通っているうちに全景を収めておこう…ということで縦ショットでも撮ってみた。微妙にピンが甘いのは、まあナニのソレということで(ぉぃ)
■サンショウウオ
さて足元をみるとなにやら白いものが沈んでいる。実はこれはクロサンショウウオの卵塊である。
……で、これがその幼生らしい。全長は3~4cmくらいか。水中にいるのはこのくらいまでで、それより大きくなると地上に上がって草むらの中で生活するという。
幼生は木道の足元でもチョロチョロしていて肉眼で観察できるのだけれど、たいていの観光客は気がつかずにスタスタ歩いていってしまう。珍しい生き物だけに、ちょっともったいない気がするな。
■湿原の南側のことなど
ところで今でこそ観光資源として広く広報されている沼原湿原だけれども、本来の面積は現在の2倍ほどあったことはあまり知られていない。湿原の南半分は、昭和40年代の深山ダム建設にともなう開発で埋め立てられてしまっているのである。
上の写真↑は湿原を南北に分断する鉄柵である。まるで冷戦の最中(さなか)のベルリンの壁みたいな感じだが、これが一般人の入れるエリアと発電施設用地を区分している(右側がダムの設備である沼原調整池のエリア)。
参考までに、かつての状況を古い地図で見てみよう。
これ↑は昭和11年の国土地理院(当時は陸軍参謀本部)発行の 1/50000 の地図である。旧街道と沼原湿原の状況がよくわかる。この範囲には写っていないが、当時は少し北方に三斗小屋集落がまだ残っていて、沼原湿原は人の往来があった。
現在ではここは深山ダムとセットになった沼原調整池がどどーんと大きな面積を占めている。ダムが建設された昭和40年代は、建設主体であった農林省(当時)の関心が食糧増産に大きく傾いていた時期で、湿原の保全などはあまり重要視されなかった。21世紀の感覚からすると 「何でここに作るの」 とツッコミのひとつも入れたくなるところだが、当時はイケイケドンドンで工事が進んだようである。
……と書くと、よくありがちなダム批判みたいに聞こえるかもしれないけれど、下流域はダムによって明らかに恩恵をうけているので筆者は単純に反対は唱えない。もう少しマシなやり方があったんじゃないの、というプチツッコミを入れているという程度のものだ。
またもう少しさかのぼった話をすれば、それ以前の時代でも実は湿原の保全はお世辞にもうまく行なわれたとはいえず、"戦犯" は案外たくさん居る。 三斗小屋宿が廃村になる以前は牛の放牧場として使われたり、排水路を掘られて地糖が破壊されたり、戦後には林業振興のためにカラマツを植えられたりして、自然の湿原部分はどんどん削られていった。
現在見られる湿原部は、それらの破壊?活動 (→当時の意識は 「利用」 または 「活用」 であって、壊しているという認識はない筈) が行なわれてなお環境が維持された部分なのである。
そう考えると、逆説的ではあるけれども、このささやかな湿原の "残された部分" がいかに貴重なものであるかが良く分かる。今頃になってこれを観光資源として自然の象徴よろしくPRしていることの自己矛盾はツッコミどころ満点だけれども、しかし世の中の風向きが変わってきたことは、きっと素直に評価すべきなのだろう。
…などと、柄にもなく難しいことを考えつつ、雨がぱらついて来たので駐車場に戻った。
調整池の向こうには、湿原の一部がみえる。巨大な調整池に比べて、なんともささやかな規模である。これが正しく保全されるよう、ささやかに祈ってみた。南無南無。
【完】
■おまけ
帰路は那須街道経由。紫陽花がイイカンジで咲いていた。
ということで、おしまいヽ(´ー`)ノ
【おまけ2】
もうひとつおまけ。道路沿いにみつけた猿です。おもいっきりガンを飛ばされてしまいました(爆)
<完>