2007.04.30 那須疏水を尋ねる(その1)




今回はGW中に混雑しないルートとして、那須疏水(※)の始まりから終わりまでを通して走り抜けてみようと思い立ち、完走して参りました。まあたまには伊達と酔狂だけではない(=ちょっとした社会勉強にもなる)ネタでまとめてみようという、ちょっと前向きの日帰りドライブですヽ(´ー`)ノ

※常用漢字で言うと 「那須疎水」 という字を当てるようだが、本来の表記は 「那須疏水」 である。




さて那須疏水の話をするまえに、那須野ヶ原の地勢について説明をしておきたい。那須野ヶ原は広義には箒川以北の那須町まで含んだ広いエリアを指し、水利の話をする場合は狭義の範囲=那珂川と箒川に挟まれた木の葉形のエリアのことをいう。ここは火山灰と砂礫の積み重なった巨大な扇状地(※)となっていて、水の浸透が激しいために農業には適さず、明治維新まで広大な草原が広がっていた。

草原は蛇尾川を挟んで東側と西側に広がり、それぞれ那須東原、那須西原と呼ばれていた。耕作には適さないもののまったく無人の原野というわけではなかったようで、周辺の村々の共同のまぐさ場として利用され毎年野焼きが行われていたらしい。幕末には大田原藩領、黒羽藩領、幕府直轄地で分割されていたが、残念ながら詳細な領域図は見たことがないので筆者の知識としては境界線は不明である。

※複合扇状地としては国内最大である




ここで地図に地下水脈水準を示してみよう。那須野ヶ原の北部は厚い砂礫層のため地下水は20m以上掘り下げなければ確保できない。那須野ヶ原を縦貫する蛇尾川、熊川の水は地下深く伏流し、河原には石ばかりが転がっている。斜面を東南方向に下るにつれて地下水脈は地表に近くなり、ちょうど那須塩原市と大田原市の境界付近で湧き水が出始める(ちなみに蛇尾川の水が沸く付近の地名は "今泉" と呼ばれている)。大田原市域に入るといくつもの小河川が湧き、井戸から水を得るのも容易になる。ここから下流側が "疏水以前" の人の活動域である。

ためしに中世の奥州街道を重ねてみると、そのルートはみごとにこの地下水水準線と一致する。古墳時代から徐々に墾田が広がったものの、水の限界=人の居住の限界であり、街道もまたその制限の内にあったということだろう。

※那須疏水以前にも蟇沼用水や木ノ又用水が開削されているが、規模が違いすぎるのでここでは遭えて省略した




さてそんな那須野ヶ原の開拓が本格化したのは明治時代になってからである。印南丈作、矢板武らによる私費による開削に始まり、のちに国費を投じて工事が進んだ。那珂川上流の西岩崎より取水し千本松までを結び、そこから第一~第四の分水を斜面に沿って下らせる構造になっている。幹線長さ16km、分水まで含めると総延長は46km(支線を合算すると330km!!)になり、その規模では安積疏水(福島県)、琵琶湖疏水(滋賀県-京都府)にならび三大疏水などと呼ばれている。




■西岩崎(取水口)




さてあまり前振りが長くなってもアレなので、ウンチクはそこそこにさっそく取水口を目指してみよう。本日は素晴らしくピーカンの好天。視界もばっちりだヽ(´ー`)ノ




那須疏水の取水口は那珂川上流の西岩崎(那須大橋のすぐ上流側)にある。現在の取水口は4代目で、旧取水口は公園として整備されている。↑の写真では第二取水口跡が左側に写っている。




公園の全景はこの図の通り。川は図の左下から右上に流れており、右上側の崖に当たって流れをほぼ直角に曲げている。最初の取水口はこの曲がり角にぶつけるように開けられた。もちろん水を効率よく取り込むためだ。




これが第一(第三)取水口跡である。最初はただの穴だったらしく、たびたび土砂で埋まって、大雨の際などにには使えなくなった。現在は改修されて第三取水口となった姿で残っている。




現在使われている第四取水口は堤構造になって導水している。この角度では影になって分かりにくいかもしれないが、右側の崖に第一/第三取水口がある。




第一/第四取水口から200mほど上流には、第二取水口跡がある。今はふさがれているが、水量調節機構を供えたオープンタイプの水門になっている。岩の上に櫓を立てたような土台跡が刻まれていて、現役当時はここに付属施設が乗っていたらしい。




第二取水口の導水路を崖上から俯瞰(ふかん)してみると、こんな状況になっていて那珂川本流との関係がよくわかる。導水路は切石を積んで用水床と堤を形成してあり、かなり重厚なつくりになっていたようだ。




取水された水は西岩崎の集落脇を滔々と流れていく。堤に植えられた八重桜がひらひらと散っていた。



 

■谷底から崖上に水を引く




西岩崎集落ではちょうど代掻きが行われていた。残雪の山をバックにのどかな風景でマターリ・・・といいたいところだが、この風景をちょっと記憶にとどめて、那須疏水の凄さを考え直してみよう。




なにが凄いかというと、当たり前の話だが 「水は高きから低きへとしか流れない」 のである。この水を引いている取水口は深い谷の底にあって直接上に水をくみ上げているわけではないことに注目しよう。

ちなみにこの写真は那須大橋の上から撮った西岩崎集落の橋である。ちょうどクルマが通っているのが見えるが、クルマ1台=5mとして目算すると、この橋の高さは川床から8~10mくらいだろう。それを見下ろす那須大橋=那珂川両岸の高さの水準がわかるだろうか?




これが対岸から那珂川を見下ろした写真である。どこから撮ったの?・・・と疑問に思う人もいるかもしれないが、那珂川は河岸段丘が発達しており、その1段から那須大橋を見上げてみたものだ。この付近には河岸段丘の段毎に細長い耕作地が設けられており、橋の上から見下ろすと面白い光景がみられる。ちなみに写真右側に見えている水田が、西岩崎の取水口の1段上くらいの高さだと思ってほしい。とにかく、この谷底⇔那須野ヶ原の標高差をなんとかして解決しないと、崖の上に水は引けない。




それを解決する手段が、およそ2kmにわたってつづく助走区間である。那須野ヶ原は西部山岳地帯から南東方向にゆるやかに傾斜している。那須疏水は、取水口から引いた水を、最初は岩盤を1.2kmに及ぶトンネルでほぼ水平にぶち抜き、河岸段丘の段々を巧みに利用しながら流水面を頑張って頑張って維持し続け、那須野ヶ原の標高が取水点の高さを下回った小結(こゆい)のあたりで急カーブを描いて原野を横断するコースに乗るのである。筆者は土木には素人だけれど、明治初期の頃にこれを考えた人には素直に拍手を送りたい。




その小結での急カーブを描いている那須疏水。本当なら河岸段丘を登って(正確には地面が下がっていくのだけれど)いくところを見たいのだけれど、ここから先は通行止めなのでおいしいところが見られない。




それはともかく、いよいよここから那須疏水は開拓地を流れ始める。


<つづく>